表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/7

第6話

2032年 12月 欧州


「……信じられん。ジャガイモが3種類しかない。ドイツの食卓を馬鹿にしているのか!」


寒波に震えるベルリンの主婦が、店内で声を荒らげた。しかし、彼女の手は無意識に、棚にある最も安価なジャガイモの袋をカゴに入れている。隣の老舗スーパーが物流の混乱で値上げと欠品に喘ぐ中、この「GRID」の息がかかった店だけは、周囲のスーパーより種類は少ないが、確実に安価な商品を維持していたからだ。


店主は、かつてこの地で個人商店を営み、数年前に大手チェーンの波に飲まれて廃業寸前だった男だ。彼は今、GRIDから支給された「店舗運営マニュアル」に従い、淡々とレジを打つ。


「奥さん、悪いね。うちの仕入先業者たちが『この3種が最も輸送効率が良い』って決めたんだ。嫌なら他所へ行ってくれ。……まあ、他所の値段はどうだか分からないがね。」


店主の背後には、かつての「こだわり」や「愛想」は微塵もない。あるのは、最適化された棚割りと、電力消費を最小限に抑えたLED照明の冷たい光だけだ。


地元自治体の査察官が訪れても、GRIDの防壁は完璧だった。


「出資元は?」「ナントの『Blue Horizon Fund』だ。代表も役員もフランス人だよ。書類を見てください」


電話をかければ、流暢なフランス語やドイツ語を話すオペレーターが、マニュアル通りの完璧な回答を返す。島根、岐阜、青森といった「日本」の影は、幾重にも重なるペーパーカンパニーと現地法人の壁に隠され、完全に消し去られている。


彼らが使っている物流網も、地元の運送会社だ。


同日 島根県 松江市


向島が見つめるモニターには、マルセイユの港近くや、ハンブルグの工業地帯の路地裏にある「居抜き物件」の改装進捗が映し出されていました。


かつては地元の老舗スーパーだった場所。

あるいは、大手チェーンが「採算が合わない」と切り捨てた不採算店舗。

それらがいま、GRIDの手によって「最小限のコストで、最大効率でカロリーを供給する装置」へと作り変えられていく。


「いいか、現地には『フランス人やドイツ人たち欧州市民の若き起業家を支援するファンド』として振る舞い続けるように何度も言っておくんだ。我々が日本企業である必要はないし、むしろ邪魔だ」


向島は、GRIDの現地責任者にそう命じていました。


あと3ヶ月もすれば、仏独ののべ6都市で同時に「激安の爆弾」がさらに炸裂する。

しかし、その爆風を浴びるのは、24社連合ではない。


地元オーナーへの称賛。

「倒産寸前だった店を復活させ、地域に安価な食料を届けた聖人」として、現地のメディアは地元オーナーを持ち上げるだろう。


行政の安心。

低所得者層の不満の一部がこの「安さ」で解消されるため、現地の自治体はGRIDの正体を暴くよりも、その恩恵を享受することを選ぶだろう。


「誰もが自分の手柄だと思いたがる。……だから、我々は喜んでその名誉を譲るのだ」


向島は、手元のコーヒーを一口啜る。

実利さえ握ればいい。

マルセイユで、ミュンヘンで、住民が「この店があって助かった」と語る。

それだけで城島ファンドの大きな保険として機能する。


向島カメラを配送倉庫に切り替える。

アメリカとは違い、日本と近いサイズの中型トラックが倉庫に車両ごと乗り入れる。

この運送会社も地元企業だ。

カリフォルニアのときもそうだが、今の先進国では輸送業者の人手が足りていない。

なので輸送費が実は一番痛い出費だ。


「これだけ積むので、配送してもらえませんか?

 お願いしますよ・・・」


NEXAもGRIDも地元の配送業者に頭を下げて札束を積み、輸送業者にYESを言わせる。

中には「大手スーパー便の隅っこの空きスペースができたら載せてやるよ。ただ、その許可をもらうのはお前らがやれ。」と言う業者もいる。


「分かりました。チャンスをいただき光栄です。」


と、いう感じの銀行から不良債権を買いたたくときとは逆の立場に成り下がる。

が、これがビジネスというものだ。


しかし、今の彼らは知っている。「札束で横面を叩いて従わせる」より、「相手の傲慢さを利用して懐に潜り込む」ほうが、はるかに安上がりで、かつ強固な支配を築けることを。


「『チャンスをいただき光栄です』……か。いい台詞だな、GRIDのやつら。相手のプライドを満足させてやれば、彼らは自分たちが『運んでいるもの』の中身を疑わなくなる」


フランス大手スーパーも運送費高騰に悩んでいた。

そこに3分の1のスペースを貸してもらえるならその便の費用の50%。

5分の1以下(最低容量は応相談)のスペースを貸してくれるなら25%を負担するとGRIDは各スーパーチェーンに申し入れた。


大手スーパーだからこそ品切れは出さない。

しかもそれがフランス中に存在する。

となると積み荷は常に計算され切った満杯となることはあまりない。


そのスペースをより割高なコストを払ってまで借りるのだ。


もちろん、運送会社そのものを強引に買い取る資金はあるが、今その強硬手段に出ると輸送圧迫が外資である我々のせいで高まったと排斥の口実になってしまう。

浸透するまではこの痛みの出費を商品価格に載せて戦うしかない。


カリフォルニアのときもそうだった。

漠然と皆が持つ利益率が異常に低いことの恐怖。

それは次の3つの要素のどれか一つでもあれば経営者には大ダメージとなるからだ。


①上場企業であること


これは株主が株価を上げて儲けさせろ、環境配慮した経営をして追加融資を低金利で調達しているのか、スーパー小売りは成熟産業だから配当金を増配しろと株主総会で突き上げてくる。

場合によっては役員人事の議題を提出される。1株1票。その形式で投票され、50%以上の票が集まると意に沿わぬ役員をクビにする権利が株主たちにはある。

NEXAやGRIDのような超低利益しか狙わない上場企業はおそらく数年で役員が排除されるだろう。


②銀行に融資ローンの残りがあり、赤字経営状態である


銀行も金を貸している以上、赤字であれば経営再建を迫ることができる。

一応、基礎的な経営知識も経験もあるだろうが、単一的な命令が多い。

おそらく最初は「商品の値段を上げろ」とか「大手の経営を見習え」とかの小手先のものから、「リストラして人件費削れ」という過激なものになっていく。


だが、この二つ。

こんなのは好景気のときには有効かもしれないが、アメリカ市民や欧州市民が1セントでも安い商品を求めてSNSでお得情報を探している状況でやればどうなるかは読者の皆様ならお分かりいただけるだろう。


③。①にも②にも当てはまらないが、個人経営


個人経営のスーパーなら上場していることはほぼない。

また、銀行とは付き合い程度にしか融資をもらっておらず、銀行から「ウチの経営が厳しいからすぐに返して」と言われても即振込できる財力がある。

この状態はまさに城島ファンドやNEXA、GRIDの状態だ、と思われるが、ここで落とし穴がある。


それは店の維持費や店員の給料、店主の生活費をどこから捻出するのか?と言う問題。

銀行すらピンチなら他を当たればいいのだが、その元メインバンクがきちんと返済していた優良顧客を早食いしてまで保身に走ったのなら、国中の金融機関はどうだろうか?

現金をたくさん用意してあるメガバンクならローンを組めるだろうが、その利率はおそらく前のローン金利よりはるかに高いものになるだろう。

黙っていても客たちが自分から金を借りにくるのだから足元を見るだろう。


そしてそのような状態でフランス市民の財布が潤っているだろうか?

故に、③の状況は①や②より安定であっても安泰ではない。


金融取引で稼ぐのが本業。

スーパー事業は保険であり、インフレする商品や運送費を値段に載せても、周囲の店より少し安く、ギリギリの利益が出る価格設定。

必然と①と②のタイプの周囲の大手だろうが、地場チェーンだろうが、個人店だろうがNEXAやGRIDには勝てないのだ。


これはアクティビストたちの常套手段だが、彼らの多くはハイテクに目が行ってしまう。

ハイテクはいわば『セクシー』。

セクシーな異性が、セクシーな服装で、セクシーにポーズを決めて誘っている。

これに飛びつくなと言う方が難しい話だ。


もちろんそれが悪いとは言わない。

PCが登場したときだってセクシーだと言ってみんな飛びついた。

そして現在、人類は皆が仕事でもプライベートでもPCを使っている。

我々もそうだ。


どこまでのセクシー要素を盛り込んだ企業にするのか?

それを決めるものこそが経営であり、24社連合が標榜する『マニュアル』である。


「上場企業は常に最もセクシーであれ!」


これこそがあらゆる上場企業の株主、融資銀行、さらには経産省などの官公庁が共通に持つ考えの一つ。

なぜ東証ショックと呼ばれる4社の超大手電機メーカーと中堅16社がMBO上場廃止したかのか?

その答えがまさにここにあった。

ハイテクを競えば設備投資額がどんどん膨らむ。

需要がそれ以上に膨らんでいるなら成立するビジネスであるが・・・


「もし、その需要が崩れたら・・・」


この呪縛こそが、コストを肥大化させ、企業の寿命を縮める毒となる。


「セクシーな企業は、ドレスを買い替えるために金を使い果たし、最後には飢えて死ぬ」


向島は、かつての同僚たちが今も「華やかな成長戦略」を練っているであろう大阪や東京の方向に目を向けた。


「我々は、ドレスを脱ぎ捨てた。そして作業着を着て、地面を這い、世界の『需要の底』を掌握しにかかる。……需要が崩れたときに、最後の一粒のパン屑を握っているのは、華やかに踊っていた者ではなく、マニュアル通りに備蓄を続けた我々なのだよ」


向島の言葉通り、24社連合が「セクシーさ」を捨てて手に入れたのは、企業の寿命を縮める「毒」に対する免疫。


そして今も、世界中で「需要の崩壊」という名の冬が続いている。


同日 栃木県 小山市


F金属工業という町工場があった。

工業団地にぽつりと立つ波打つトタン屋根のような昭和レトロな建屋。

そこではスプレー缶の缶部分を加工していた。


「そうだ。この鋼板は問題ないな。」


三城はこの小山市で生まれ育ち、この会社でずっと働いてきたベテラン作業員だ。


「はあ・・・

 あの新人はトロいんだよ・・・」


三城は外に出て缶コーヒーの缶を煽る。

2年ほど前までなら間違いなく怒鳴っていた。

「そんなこともできねえで加工する気だったのか!?」

と言った感じだ。


いわゆる頑固な職人というやつだ。

そんな職人たちが別の工程にももう3人居て、社内でもおっかない人と言う扱いをされていた。

しかし、同時に腕や目は確かだから必要ともされていた。


だが、そんな暴君たちにも年貢の納め時がやって来た。


2年とちょっと前、突然社長が「経営改革する」と言い出した。


「また始まったよ・・・」


「何回目だ?」


社員たちもいつもの社長の頑張ってますよアピールだと思っていた。

しかし、今回は違った。

なんでも第2人事部を新しく設置するとか。


「おいおい、マジで大金使うのかよ・・・」


そして今、F金属工業の建屋の裏、錆びたドラム缶が置かれた喫煙所で、三城は苦い缶コーヒーを飲み干した。


「第2人事部だぁ? 笑わせるぜ……」


2年前、社長が鼻息荒く宣言した時、三城たちは鼻で笑っていた。

この道30年の職人が叩き出す「カン」と「コツ」。0.1ミリのズレを指先の感覚だけで修正する自分たちの技術を、事務机に座っているだけの連中に何がわかる。


だが、やってきた「第2人事部」の連中の雰囲気は、これまで視察に来ていた地元の銀行員とは明らかに違っていた。

表ではにこやかだが、何か不気味なところがある。

これは俺のカンだが・・・


彼らは現場に来ても、三城たちの技術を「すごい」とも「古い」とも言わなかった。

ただ、タブレットを片手に、三城が鋼板を機械にセットする角度、油をさすタイミング、そして新人を怒鳴りつける頻度を、無機質な目で記録し続けた。


「三城さん、その『鋼板の目を見る』という作業、言語化できますか?」


そう聞いてきた第2人事部員の年下だがおっさん社員に、三城は吐き捨てた。


「言語化だぁ? そんなもん、10年やって体に叩き込むもんだよ!」


「なるほど。『10年の修行が必要な非効率な工程』というわけですね。承知しました」


そいつは淡々とそう書き込み、去っていった。


それから1年弱経ったころには会社は劇的に、そして冷酷に変わり始めた。


「あなたの技術を、マニュアルという共有資産に変換できますか?」


「俺の技を紙切れ一枚にしろってのか!? ふざけるな!」


三城は激昂し、社長室に怒鳴り込んだ。だが、そこにいたのは憔悴しきった社長ではなく、第2人事部部長だった。

正直、俺たち熟練に完全には強気に出れない社長や役員たちはいつも通り黙っている。

視察に来る銀行員たちは「赤字のこの会社に金を貸してやっているんだぞ」という驕りからの冷酷さが見えた。

だが、この部長と今の役員どもはどちらとも違う種類の冷酷さを放っている・・・


「三城さん、落ち着いてください。あなたの技術は素晴らしい。だからこそ、それをあなたの頭の中に閉じ込めておくのは『会社の損失』なんです。……もしあなたが明日、事故で働けなくなったら、このラインは止まる。それは経営上のリスク(欠陥)です」


「リスクだと……?」


「はい。ですから、あなたの『カン』をすべて数値化し、手順書に落とし込んでください。それができないのであれば、残念ですが、あなたは『高度な技術を持つ作業員』ではなく、『システムの標準化を阻害するノイズ』と見なされます」


三城のプライドはズタズタに引き裂かれた。

職人仲間の一人は、その屈辱に耐えきれず「やってられるか!」と辞めていった。


しかし、24社連合は動じなかった。

辞めた職人の穴を埋めたのは、金属加工など一度もやったことがない未経験の若者だった。

その若者の手元には、三城の技術を徹底的に解体し、誰でも再現できるように再構築された「プレス工程マニュアル」があった。

辞めていった職人の工程は俺も経験していたから可能だった軌道修正だった。


若者は、三城が10年かけて覚えた火花の散り具合の判断を、センサーが弾き出した数値を見て、マニュアル通りにレバーを引くだけで再現してみせた。


「……バカバカしい」


三城は、今の新人を見てそう思う。

マニュアル通りにしか動けない、感情のないロボットのような新人。

その新人が作る缶の品質は、三城が全盛期に作っていたものにはとうてい及ばない。

しかし、製品仕様内には収まる。


品質管理部は合格を出すしかない。

マニュアルとかではなく、顧客の要求を満たしているのだから・・・


「年貢の納め時、か……」


三城は、空になった缶コーヒーを、マニュアルで指定された「資源ゴミ回収BOX」へ、規定の向きで放り込んだ。

この昭和レトロな建屋の中に、かつての「職人の魂」はもうどこにもない。

あるのは、24社連合という巨大なOSにハックされ、ただ正確にパーツを吐き出し続ける「F金属」という名の、巨大なマニュアルの一部だけだった。


三城は工場の端っこにあるあまり座らない自分の作業机に置かれた給与明細表を見る。


「また増えてる。」


F金属工業はスプレー缶の金属部分の加工がメイン事業で、他はこまごまとした小ロットのカスタム金属加工部品を周囲の大企業の試作部品として受注する事業の2つのみ。

当然、東証なんかに上場するような立派な会社でもない。

昔からある金属加工職人が代々繋いできた工房のようなものだ。


給料は当然そこまで良くはなかった。

もともと国内受注が減っており、工場もそれに伴い縮小していた。

ついに5年前からは赤字経営になり、給与も減っていった。


三城はその給与明細の数字を、穴が開くほど見つめた。

以前の年収230万円。それは、いつ倒産してもおかしくない崖っぷちの数字であり、三城のような「学はないが腕はある」職人が、世間から突きつけられた「お前の価値はこの程度だ」という宣告でもあった。


それが、今や手取りで30万円を超える。

地方の町工場の、それも一度は沈みかけた泥舟のような会社で、一体何が起きたのか。


三城の給料が増えた理由は、彼が「腕の良い職人」だからではない。

「マニュアルのデバッグ(修正)と精度向上に貢献したから」だ。


24社連合のやり方は冷徹だった。

単に作業をするだけの人間には、最低限の生活ができるだけの賃金しか払わない。しかし、現場の微かな違和感を察知し、それを「マニュアルの修正案」として、連合が定める「正しい書式」で報告できる人間には、容赦なく報奨金を積み上げた。


三城は、あの「第2人事部」の若造に反発しながらも、結局は自分のプライドとなにより生活を守るために、マニュアルの不備を徹底的に指摘した。


「おい、ここにある熱処理のタイミングだが、今日の湿度ならあと3秒遅らせねえと、後の工程で歪みが出るぞ」


「それはマニュアルの何ページに対する指摘ですか? 根拠となるデータは?」


「データだぁ? 俺の目がそう言ってんだよ! ほら、昨日のログと比べてみろ!」


そんなやり取りの積み重ねが、いつの間にか「改善提案の採用件数」としてカウントされ、三城の給与口座に直結していた。


三城は、自分より一回り以上年下の、無口で「トロい」と思っていた新人が、淡々と機械を回しているのを見た。

その新人の給料も、おそらく以前の三城よりは高いはずだ。


「OK, Next step. Page 14, Section B...」


高卒の新人が、ベトナム人の少年に教える姿。そこに熱血な師弟関係はない。あるのは、「マニュアルという神託を、次の作業者にインストールする」という儀式のような正確さだ。


「……俺たちが必死に隠してきた『コツ』が、翻訳されて、誰にでもわかる記号になって、海を越えてきたガキに配られてるってわけだ」


三城は自嘲気味に鼻を鳴らした。

だが、その光景を否定しきれない自分がいる。

かつてなら、言葉の通じない外国人にプレス機を触らせるなんて自殺行為だった。指を飛ばすか、機械を壊すのがオチだ。

しかし、今の彼らはマニュアルの防波堤に守られ、初日から「完璧な良品」を叩き出している。


三城の今の役割は、そんな彼らを見張り、万が一マニュアルに書かれていない「物理的な異常(異音や振動)」が起きたときに、長年の経験値でそれを察知し、監査局へ報告フィードバックすることだ。


「……三城さん、今の動作、ベトナム語版の図解に少し追加したほうがいいかもしれません。彼らが迷うポイントが分かりました」


新人が、タブレットを片手に三城に歩み寄ってくる。かつてなら「黙って見てろ」と一喝していたところだが、三城は少し間を置いて、渋々と口を開いた。


「……ああ。鋼板の端の『バリ』の向きだろ。あいつら、図面通りに置こうとして指を切りそうになってた。マニュアルの図に『注意』の記号を入れろ」


「ありがとうございます! さすが三城さん、見てますね」


新人が嬉しそうに端末を叩く。三城の「経験」が、瞬時にデジタルデータへと変換され、サーバーを通じて第2人事部へと共有されていく。


かつては「自分だけのもの」だった技術。

それが今は「工場を動かすみんなのマニュアルの部品」。


三城は、自分の価値が「唯一無二の職人」から「高性能なフィードバック・センサー」へと書き換わったことを、今度こそはっきりと自覚した。

だが、ポケットの中にある「手取り月給約31万円」の手触りが、その寂しさを上書きしていく。


「……いいぜ。俺の目と耳を、全部その紙切れに叩き込んでやるよ。その代わり、しっかり稼がせてもらうからな」


F金属工業のトタン屋根の下で、古い職人の意地と、新しいシステムの合理性が、マニュアルという名の鎖で固く結びついていた。


三城が最も屈辱を感じたのは、技術を奪われたこと以上に、その「口を封じられた」ことだった。


机に置かれた『対人対応マニュアル:製造現場版』。

そこには、部下や実習生に対する「推奨される語彙」と「禁止される表現」が、辞書のように分厚く規定されていた。


「三城さん。今の、アウトです」


背後から、第2人事部の監視員が淡々と告げた。三城が新人の手際に、つい「何やってんだ、バカ野郎!」と叫んだ直後だった。


「規定第4条『人格を否定する呼称の使用』に該当します。3分以内にマニュアルの『訂正表現:作業ミス時』を参照し、適切なフィードバックを再実行してください。記録しています」


三城は奥歯を噛み締め、震える手でマニュアルを捲った。


「……あー、今の作業工程には、マニュアル7ページの図解と3ミリの乖離がある。修正するように。……以上だ」


感情を押し殺した棒読みの言葉。新人は「了解しました」とだけ答え、何事もなかったかのように作業に戻る。かつての工場にあった、火花と怒号が混じる熱量は、今やエアコンの効いた手術室のような無機質な静寂へと置き換わっていた。


三城はかつて、気に入らない奴がいれば「あいつにあの面倒なラインを担当させろ」と、遠回しな嫌がらせで序列を教えてきた。だが、それすらも24社連合は見逃さなかった。


「『不当な業務割り当てによる心理的圧迫』……これも1カウントです。三城さん、次はありませんよ。あなたの『指導』が原因で生産ラインに0.1%でもノイズが混じれば、それは故意の業務妨害と見なされます」


第2人事部の「躾」は、陰湿なまでに徹底していた。逆らう者には、一日中監視員が横に張り付き、まばたきの回数、ため息の深さまでをログに取る。精神的に追い詰めるのではなく、「人間としての反応を無意味化する」ことで、彼らは職人を従順な「発声ユニット」へと作り変えていった。


皮肉なことに、その結果として工場は「天国」になった。


怒鳴る上司は消え、陰湿な嫌がらせもシステムが検知して未然に防ぐ。

新人は迷うことなく最短ルートで仕事を覚え、町工場としての平均より高い給料を手にし、17時ちょうどにタイムカードを押して帰路につく。

かつて若者が一週間で逃げ出していたF金属工業は、今や「小山で有数の隠れたホワイト企業」と噂されていた。


三城は、静まり返った工場を見渡した。

「ホワイト企業」という名の、一分の隙もない白い牢獄。

ここでは、怒る自由も、笑い飛ばす自由も、マニュアルという名の透明な壁に吸い込まれて消えていく。


「……気持ち悪りぃくらい、静かだな」


三城は、誰もいない休憩室で、マニュアルの規定通りに「適正温度」で抽出されたコーヒーを啜った。味のしない、完璧な一杯だった。


同日 富山県


田中投資株式会社、城島ファンドからあの岐阜県のE化学に資金提供を中継したファンドである。

田中と城島には一切の繋がりはない。

あくまで城島が田中の得意な再建事業にうま味を感じて投資しただけということになっている。


しかし、再建事業がE化学のみというのは引っかかる。

元東証スタンダード上場企業なんだからそこに集中するという説明で納得してもらうこともできるが、それだけでは城島ファンドは安心しない。

そこで真面目に地元開拓もしてもらうための資金もスキームも城島側が用意している。


ここは南砺市、絹織物の街として県内では一時期有名だった。

今ではその需要はほとんどなくなり、服飾関係の店はシャッターが下りたまま10年以上経っており、錆が目立つ。


「ここです。」


「よし。」


田中投資の担当者二人はシャッターの降りる、30年前はきらびやかなショーガラスで最先端ファッションを展示していたのかもしれない正面を回り込み、

裏口の薄いプラスチック感満載の扉をノックする。


「そ、それで・・・

 どうでしたでしょうか?」


「はい、サンプルですが合格点とのことです。」


老夫婦が経営、している体であるが、実態は近くの町工場の貸倉庫業を副業としている。

しかし、その町工場も経営が苦しいから賃料も滞りがち。

地銀のローンもリスケ期限すらも過ぎて完全に不良債権となっている。


銀行はこの昭和の洋服店を再生するために物流や在庫の合理化とか言っていたそうだが、

この商店街を見ればそもそも通行人がいないのに陳列棚を整理して何になるというのだ。


しかし、我々ならそれとは違う方向から経営改善できる。


この老夫婦にサンプルとして縫ってもらったのは絹のグローブ。

冬に装着するような実用性方面ではなく、貴婦人が装飾する真っ白に光沢を帯びるもの。


我々には良さは分からない。

我々の専門ではないからだ。


ただ、ある集団がこの高貴なグローブを高く評価した。

それだけで十分な投資判断材料だった。


「……銀行さん、お宅のBIS規制の数値を心配して差し上げているんですよ。このまま焦げ付きを寝かせて、金融庁の検査を乗り切れるんですか?」


富山市内の支店応接室。田中投資の担当者は、高級なスーツとは対照的な、事務的な冷たさを湛えた声で追い詰めた。


手元にあるのは、南砺市のあの洋服店の不良債権。銀行員は顔を青白くさせ、元本を大幅に下回る買取価格の提示に、震える手で電卓を叩いている。


「しかし、これではあまりに……。担保の土地評価額だって、もう少しは……」


「土地? あのシャッター通りの土地に何の意味があるんです。我々が買い取らなければ、お宅らはあと10年、あの店が朽ち果てるのをただ眺めるだけだ。……ハンコを押してください。今なら我々が『処理』を引き受けます」


銀行員は、断崖絶壁で手を差し伸べられた罪人のように、その屈辱的な契約書に印を突いた。


我々はあの洋服店が融資を受けていたという銀行の支店に乗り込み債権買取を交渉する。

カリフォルニアや欧州でやった手口と違い、こちらは容赦なく元本割れで交渉する。

あちらは外国という土俵だから摩擦が起きないように譲歩するが、日本なら話は別だ。


2033年 2月 東京 秋葉原


秋葉原の喧騒から外れた、築40年の雑居ビル。その4階に、城島ファンドの投資先ファンドという、田中投資とは別の団体の皮を被った手先の一つが「文化戦略の要」として設立した『小林服飾研究所』がある。


室内には、最新の3Dスキャナーと、対照的に使い古されたミシンが並んでいる。所長の小林は、感情を排した無機質な声で、田中投資からの報告を処理した。


「富山のサンプル、合格です。……あの『光沢度』。バングラデシュの工場に100回指示しても出せなかった『絹の照り』が、あの老夫婦には出せている」


彼女がモニターで見つめているのは、ある人気ソーシャルゲームに登場する「冷徹な女スパイ」の衣装設定資料だ。


小林たちが目指すのは、他社が作る「着せ替え人形の服」ではない。

彼女たちは、コスプレを「二次元の物理的再現」と定義している。


一体感の排除。

既製品によくある「シャツとジャケットが縫い付けられた一体ものの安物」は、ここではゴミ扱いされる。劇中のキャラがシャツを脱ぐシーンがあるなら、ボタンの隙間から見えるインナーの質感までマニュアル化する。


執念の数値化。

「お色気お姉さま」のキャラクターが履いている網タイツ。その網目の菱形の角度、肌の透け具合(デニール数)、そして膝を曲げた時の光の反射。小林はそれらをすべて「光学的数値」としてマニュアルに落とし込む。


日本中に散らばる、倒産寸前で時代遅れという烙印を押された服飾工房。

城島ファンドの資本提携先の日本各地のファンドという手先たちは、それらを「不良債権」として二束三文で買い叩いている。

かつて花嫁の白無垢を縫い、高級な絹織物を仕立てていた職人たちは、今やその技術を「アニメキャラの過激な衣装」を作るために動員されている。


「彼らにとって、縫っているものが『王室のドレス』だろうが『アニメの衣装』だろうが関係ないはずよ。……融資を止められ、明日食べるものに困る状況で、唯一差し出された食い扶持がこれだった。それだけのこと」


言葉は冷たいが、事実はさらに残酷だった。

この『研究所』から送られる完璧なマニュアル通りの注文があれば、富山の老夫婦も専門領域の壁を超えて「世界一リアルな幻想」を量産するマシーンになれる。


「一着、30万、50万……。それでも、世界の『本物』を求める富裕層オタクたちは、喜んで列をなすわ」


彼女は、富山から届いた絹のサンプルを指で撫でた。

その手触りは、かつての日本の栄光の残骸であり、同時に24社連合が世界中の「欲望」を吸い上げるための、最もセクシーで、最も冷徹な触手だった。


「……髪型の外はね有無で、コンバージョン率がこれほど変わるのね。興味深いわ」


小林は、連合指定の再生紙に印刷された「10行以上の比較表」に、冷徹な視線を走らせた。そこには、下卑た欲望が統計学という名の衣を纏い、整然としたフォントで女社長である彼女の前に並んでいる。


事務所の空気は、一見すれば「崩壊」していた。

ネット課のブースでは、若手社員が様々なサイトからR-18作品を狂ったようにスクロールし、特定の部位の描画密度をサンプリングしている。実地調査課の連中は、駅前の『ラジオ会館』や裏通りのショップから、まだ一般に流通しきっていない非公式のガレージキットを抱えて帰還した。


しかし、その実態は24社連合が誇る「需要捕捉システム」の最前線だった。


小林が認める「不埒な業務」の成果は、以下のマニュアルに集約されていく。


トレンドの逆算:

「今はロリよりセクシー」。この一言を裏付けるために、彼らは過去3ヶ月の特定キーワードの検索数、及び二次創作の「投稿ペースの加速度」を算出している。


造形スペックの決定:

髪型のパターン、原色系の使用比率。それらは「オタクの好み」という曖昧なものではなく、「網膜に与える視覚的インデックスの最適解」として数値化される。


「実地調査課からの報告。駅前のショップの委託品において、この『光沢の多い服装』と『外はね髪』の組み合わせが、販売開始から45分で完売。購入者の7割が外国人観光客です」


「セクシーであること」を宿命づけられた上場企業が、多額の広告費を投じてイメージを作っている間に、小林たちは「オタクの欲望」という最も純度の高い燃料を吸い上げ、それを地方の職人技というエンジンに直結させていた。


「世間は、私たちのことを秋葉原の変態集団だと思っているでしょうね」


小林は、電子データ化された『女スパイの網タイツの透過度(0.5刻み)』のグラフを閉じ、口角をわずかに上げた。


「いいわ、それで。私たちがマニュアル化しているのは『布』じゃない。……この世界から溢れ出している、行き場のない『愛着』という名の資本なのだから」


秋葉原の雑居ビルから発信される「欲望の数値」は、やがて城島ファンドの巨大なデータベースへと統合され、世界中の「セクシー」を定義し直すための絶対的な基準となっていく。


雑居ビルの別の一室では打って変わって真面目な雰囲気で打ち合わせテーブルで知恵を出し合う者たちがいた。


「このロンググローブはこの間買い取った南砺の職人に作ってもらえそうだ。」


「調達部、サイハイブーツのラインはどうなっている。合皮ではなく、あの特有の『艶』を出せる熟練の靴職人が必要だ。浅草の不良債権リストからまだ見つからないのか?」


「この装飾品・・・プラスチックは論外だ。光の屈折率が軽すぎる。これでは『推し』が現実(こちら側)に来たときの説得力が欠ける」


「それならガラスはどうだ?ガラス細工職人を工房ごと調達してもらおう。」


彼らはデザイン部のメンバーたち。

先ほどの不埒な調査部が抽出した『萌え要素』や『推し要素』を2次元の世界から3次元の世界へと次元を釣り上げさせる計画を立てる。


そして彼らが引いた図面を城島の手先たちが各地の個人商店および中小企業再建のカモフラージュ、つまり『ついでがてらに』買い叩いた職人たちに発信し、

実際のコスプレ衣装とする。


実は、すでに実験として3種類の衣装は販売している。

こんな大がかりな買収工作が伴うビジネスを事前確認もなしに走らせるなんてことをするわけがない。


もちろんただ依頼して試作品を作ってもらって、売れるか見て終わりではない。

既存の大手コスプレ衣装屋に一括注文した物と各種得意分野の町工場に一点物パーツとして組み合わせた物の2パターンで発注し、比較した。


その質感や仕事の丁寧さ。

それら数値化できないものをデザイナー部と調査部が舐め回すように調べ上げ、

調達部と技術部がコスト計算し、両者の行き過ぎな技術的要求を抑え込んだりと忙しかった。


当然、安価な大手の物の方が売り上げは大きい。

しかし、一点物は数点しか売れないし、利益率も数が少ないので大手品より悪い。

それでも評判は非常に良かったし、なんとかギリギリの黒字だった。


「これをどうビジネスにするか、私たちの手腕にかかっているということね・・・」


小林は結果を見て呟いた。


結果を見たこの会社と城島ファンドは職人一点物を『少ないが金になる。競合も居ないから差別化にもなる。なにより地方再生という大義が手に入る』と判断した。

日本の各地で、伝統や誇りを守ってきた職人たちが、自分たちが今何を作らされているのかもあまり理解せぬまま、秋葉原の「欲望の設計図」を形にしていく。

そのおぞましい計画が着々と進められていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ