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同じ景色

掲載日:2026/04/01

 君と僕は同じ景色を見ている。ただ時間軸が違うだけだ。


 そう書いてきたのは彼で、添付されていたのは海の写真だった。水平線が画面の真ん中を横切っていて、空と海の色がほとんど同じだった。どこで撮ったのかは聞かなかった。彼の故郷が海沿いの街だということは知っていた。


---


 彼とはSNSで繋がった。


 僕が書いている小説に感想をくれたのが最初だった。短い感想だった。「海の描写がいい。でも少し嘘がある」。嘘、と返したら、「波の音を『ざあざあ』と書いてる。あれは本物を聞いたことがない人の書き方だ」と言われた。


 腹が立った。腹が立ったけど、正しかった。僕は海のない県で生まれて、海のない県で育って、海のない県で小説を書いている。


「じゃあ本物はどう聞こえるの」


「教えてあげてもいい。資料がいるなら送るよ」


 それが始まりだった。


---


 最初の頃は本当に資料だった。


 海。港。漁船の係留ロープ。防波堤のテトラポッド。商店街のアーケード。錆びた看板。彼の故郷の風景が、一日に一枚ずつ届いた。


 僕はそれを見て小説を書いた。波の音を「ざあざあ」から書き直した。彼は「まだ少し嘘がある」と言った。でも前よりはましだと。


 写真の構図は上手かった。余計なものが写っていない。建物を撮るとき看板の文字が入らないようにしている。地名がわからないように。彼がどこにいるのか、特定できないように。


 住所を聞いたことはない。本名も知らない。アカウント名は「なぎ」だった。海が凪いでいる日の写真が多かったから、たぶんそこから取ったんだと思う。


---


 二週間目に、写真の中に影が写り始めた。


 防波堤の上に、人の影が伸びている写真。夕方に撮ったらしく、影は長かった。細くて、少し猫背で、右手に何か持っていた。スマホだと思う。撮っている自分の影だ。


「影入っちゃった、ごめん」と彼は書いた。


「いいよ。小説に使うかも」


「影を?」


「うん。主人公の影の描写がまだ書けてないから」


「変なやつ」


 彼は笑っている気配がした。テキストなのに。


---


 三週間目。写真が変わってきた。


 故郷の風景の中に、生活が混じり始めた。台所の窓から見える海。洗濯物の向こうの空。自転車のハンドル越しの坂道。食卓の上の魚の煮付け。


「これも資料?」


「資料。海沿いの街に住んでる人間の日常の資料」


 嘘だった。たぶん。資料と呼べるものではなかった。魚の煮付けの写真に資料価値はない。でも僕は保存した。


 彼の食卓を知った。彼の台所の窓の高さを知った。彼の洗濯物が風に揺れる角度を知った。


 小説にはどれも使わなかった。使えなかった。使ったら資料じゃなくなる。


---


 一ヶ月目。


 手の写真が来た。


 防波堤の手すりに置かれた左手。指は長くて、薬指の第二関節にペンだこがあった。爪は短く切られていた。手の甲に、薄く血管が浮いていた。


「これは何の資料?」


「手。登場人物の手を書くとき参考にして」


「僕の小説に手の描写はないけど」


「じゃあ入れてよ」


 しばらく返事ができなかった。手の写真を拡大した。ペンだこをしばらく見ていた。彼が何かを書く人だということを、その写真で初めて知った。


---


 五週間目。耳の後ろの写真が来た。


 髪を片手で持ち上げて、耳の後ろを見せている。小さなほくろが一つあった。


「資料?」


「資料」


「何の」


「ほくろの位置の参考」


「嘘つけ」


「嘘じゃないよ」


 嘘だった。でも僕は保存した。


---


 六週間目。鎖骨の写真が来た。


 Tシャツの首元が少し広くて、左の鎖骨が見えていた。背景は例の台所の窓で、海がぼんやり映っていた。


「資料」


「だからそれ資料じゃないだろ」


「資料だって。鎖骨の影の落ち方。夕方の光だとこうなる」


 彼がこれを撮っているところを想像した。台所の窓辺に立って、自分のTシャツの首元を引いて、スマホを構えている。その画がおかしくて、少し笑った。笑ったあと、保存した。


---


 七週間目に、彼が書いた。


「ねえ、顔は要らない?」


「いらない」


 即答した。自分でも驚いた。


「なんで」


「顔を知ったら資料じゃなくなるから」


 送信してから、もう資料じゃなくなっていることに気づいた。とっくに。台所の窓で気づくべきだった。魚の煮付けで気づくべきだった。影で気づくべきだった。


 彼からの返信は遅かった。十五分。


「じゃあ、もう一個だけ送っていい」


「何」


 写真が来た。


 彼の部屋の本棚だった。文庫本が並んでいた。背表紙が見えた。一冊だけ、背表紙がこちらに向いていなかった。表紙が見えるように立てかけてあった。


 僕の小説だった。


 SNSの投稿を印刷して、自分で製本したらしかった。表紙は手書きだった。タイトルの下に、僕のアカウント名が書いてあった。背表紙がないのは、手製本だから。何度も開いたのか、角がめくれていた。


 僕はスマホを伏せた。伏せて、天井を見た。天井には何もなかった。海もなかった。波の音もしなかった。


 スマホを持ち直して、打った。


「波の音、聞きに行ってもいい?」


 既読がついた。返事が来るまで三分かかった。


「来たら資料じゃなくなるよ」


「もうなってない」


 また間があった。一分。


「じゃあ来て」


 そのあとに住所が来た。初めて。地名を見た。知らない街だった。海沿いの、知らない街。


 次の文が来た。


「僕の影、本物はもっと猫背だよ」


---


 君と僕は同じ景色を見ている。ただ時間軸が違うだけだ。


 彼がそう言ったのは、僕が書いた海の描写を読んだからだった。同じ海を見ている。でも僕は文字で見ていて、彼は窓の外で見ている。同じ景色の、違う時間。


 僕はその景色を見に行く。時間軸を合わせに行く。


 切符を買った。海のない県から、海のある県への切符。片道だった。往復にしなかったのは、帰りたくなかったからじゃない。帰りの時間を決めたくなかった。


 鞄の中に、原稿がある。彼が「少し嘘がある」と言った海の描写を、全部書き直したやつ。波の音を、彼の写真だけで書き直したやつ。


 本物はどう聞こえるんだろう。


 隣で聞けたら、もう嘘にはならない。

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