第9話 決戦、響き渡るフルコース
ジュリアン様が去ってから数日後。アークス領の空は、見たこともないような不気味な紫色に染まっていました。
風の音さえも聞こえなくなり、鳥の羽ばたきも、人々の足音も、まるで泥に沈んだかのように消えていきます。
「……来たな。ソルスティスの禁忌、沈黙の魔獣だ」
城の物見櫓に立ったアラリック様が、鋭い眼光で地平線を睨みつけました。
霧の向こうから現れたのは、巨大な蜘蛛のような姿をした、半透明の怪物でした。
それは音を喰らい、周囲を完全な真空の静寂へと変えてしまう、伝説の災厄。
ジュリアン様は、私を連れ戻せないと悟り、この地ごと全てを沈黙の底へ沈めようと考えたのでしょう。
「閣下! 騎士たちの魔力が吸い取られています! 武器を振るう音さえ出せない……!」
カイル様が叫びますが、その声もまた、魔獣が放つ「静寂の波動」に掻き消されていきます。
騎士たちが次々と膝をつき、アラリック様さえも、耳を押さえて苦悶の表情を浮かべました。
かつての呪いが、魔獣の力に共鳴して再燃しているのです。
「……エレナ、逃げろ……。これは、俺たちの手に負える相手では……っ」
「いいえ。私にしか、できないことがあります」
私はアラリック様の手を握り、力強く首を振りました。
その時、背後から「ドカッ」という、この場に似つかわしくない力強い足音が響きました。
厨房長のギュンター様が、巨大な鉄鍋と、湯気が立ち上る数々の皿を抱えて現れたのです。
「お嬢さん、準備はいいですかな! アークスの存亡をかけた、最高の音色を出すフルコースですぞ!」
ギュンター様が差し出したのは、これまでの経験を全て注ぎ込んだ特製の料理でした。
メインは、アークスの活火山でしか獲れない『鉄殻甲羅』を持つ大蟹の脚。
それを、噛むたびに火花が散るという『雷鳴岩の塩』をまぶして、高温の油で揚げたものです。
私は迷わず、その巨大な蟹の脚を手に取りました。
魔獣が放つ沈黙の波動が、私の周囲の音を吸い取ろうと襲いかかってきます。
ですが、私は負けません。
この料理には、ギュンター様の誇りと、アラリック様たちの想いが詰まっているのです。
私は、鉄のように硬い蟹の殻を、全力で噛み砕きました。
——バキィィィィィィンッ!
その音は、これまでのどんな咀嚼音よりも高く、鋭く、そして重厚に響き渡りました。
魔獣が作り出した「静寂の壁」を、一瞬で粉々に打ち砕くような、魂の咆哮。
「……っ!? なんだ、この衝撃は! 体が、軽い……!」
アラリック様が目を見開き、その場に立ち上がりました。
私はさらに、添えられていた『響き氷』という不思議な果実を口に含みました。
これは口の中で弾けるたびに、周囲の魔素を震わせ、音を増幅させる効果があります。
——パキッ、パチパチパチッ、パキィィィィン!
蟹の殻が砕ける重低音と、氷が弾ける高音が重なり合い、私を中心に巨大な音の円陣が広がっていきました。
噛めば噛むほど、蟹の濃厚な旨味と、塩の刺激が脳を突き抜けます。
嚥下するたびに「ゴクッ」という心地よい音が、魔力となって周囲の騎士たちに注ぎ込まれていきました。
「凄まじいな……。エレナ様が食べれば食べるほど、俺たちの剣に光が宿っていくのが分かる!」
カイル様が、再び弓を手に取りました。
今度はその弦が、空気を切り裂く「ピィィン」という鋭い音を立てています。
「ガハハ! もっと食べなさい、お嬢さん! 次はこれだ、『轟音大根』のパリパリ漬けだ!」
ギュンター様が次々と皿を差し出します。
私はそれを一口ずつ、大切に、そして全力で咀嚼しました。
パリパリ、ポリポリ、バリバリッ!
小気味よい音がリズムとなり、戦場に勇壮な音楽を奏でます。
「皆、聞け! これが俺たちの勝利の音だ! 沈黙に怯える時代は終わった!」
アラリック様が大剣を掲げ、突撃の合図を送りました。
騎士たちは一斉に声を上げ、魔獣へと肉薄します。
彼らが振るう剣の風切り音、甲冑が擦れる音、そして鬨の声。
それら全ての音が、私の咀嚼音を核にして増幅され、魔獣を圧倒していきました。
魔獣は、自らが喰らうべき「音」があまりにも巨大で、熱いものであることに耐えきれず、ついにはその巨体を震わせて霧散していきました。
紫色の空は一気に晴れ渡り、そこには清々しいアークスの青空が戻っていました。
「……勝った。俺たちの、勝利だ」
アラリック様が、剣を収めて私の方を振り返りました。
私はちょうど、最後の一口だった『響き氷』を飲み込み、ふぅ、と満足げな吐息を漏らしました。
「……お腹いっぱいです。とっても、美味しい音でした」
私がそう言うと、周囲にいた騎士たちが一斉に笑い声を上げました。
「エレナ様、最高でしたぞ! あの蟹を噛み砕く音を聞いた時、俺の魔力は通常の三倍は膨れ上がりました!」
カイル様が興奮気味に言えば、ギュンター様も満足そうに頷きました。
「わしの料理を、これほどまでに見事に『奏でて』くれるとはな。料理人冥利に尽きる。お嬢さん、あんたこそが真の『響食の聖女』だ」
アラリック様が私の元へ歩み寄り、その大きな手で私の頭を優しく撫でました。
彼の表情には、公爵としての厳格さではなく、一人の男性としての深い愛しさが滲み出ていました。
「エレナ。あんたがこの地に来てくれてから、俺の世界は音で、そして光で満たされた。この戦いが終わったら、改めてあんたに伝えたいことがある」
アラリック様の真剣な眼差しに、私の胸が高鳴ります。
ですが、平和を取り戻したアークスの空の下、私たちはまだ気づいていませんでした。
全ての策を失ったジュリアン王子が、王都ソルスティスの中心で、自らが招いた「真の沈黙」に飲み込まれようとしていることを。
幸せな食卓を守るための戦いは、いよいよ最終局面へと向かっていました。




