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第8話 拒絶の響きと、凍りついた王子


アークス城の正門に、銀色の装飾が施された豪奢な馬車が止まりました。

それは私の母国、ソルスティス王国の紋章を掲げた、王家の馬車でした。

馬車から降りてきたのは、かつて私を「卑しい音を立てる女」と罵り、この地に追放した張本人。

王太子、ジュリアン様でした。


「……エレナ。迎えに来てやったぞ」


ジュリアン様の第一声は、相変わらずの傲慢さに満ちていました。

ですが、その顔を見て私は息を呑みました。

かつての輝くような美貌は影を潜め、肌は病的なまでに青白く、その瞳にはどす黒い隈が浮かんでいます。

彼が纏う空気は、以前よりもずっと冷たく、そして「沈黙」という名の淀みに支配されていました。


「ジュリアン様……。どうして、こちらへ?」


私はアラリック様の背後に隠れるようにして尋ねました。

アラリック様は私の肩を力強く抱き寄せ、冷徹な視線をジュリアン様に向けました。


「ソルスティスの王子が、我が領地に何の用だ。ここは、音が禁じられた貴殿の国とは違う。無作法な訪問は歓迎しないぞ」


「……黙れ、野蛮な辺境伯。僕はエレナに用があるのだ。エレナ、お前の『呪い』を解く方法が見つかった。特別に許してやる、王都へ戻り、僕の傍で大人しく暮らすがいい」


ジュリアン様はそう言って、細く震える手を私に伸ばしました。

ですが、その言葉とは裏腹に、彼の喉からは「ヒューヒュー」と苦しげな呼吸音が漏れています。

彼は、自分自身が沈黙の呪いに蝕まれていることに、まだ気づいていないようでした。


「……お断りいたします、ジュリアン様」


私ははっきりと、彼の目を見て言いました。

ジュリアン様の顔が、驚愕と怒りで歪みます。


「何だと……? この僕がわざわざ迎えに来てやったのだぞ! あんな汚らわしい咀嚼音を立てるお前を、誰が拾ってくれるというのだ!」


「俺が拾った。そして、二度と離すつもりはない」


アラリック様が、一歩前に出ました。

その威圧感に、ジュリアン様が怯えたように後ずさります。


「ジュリアン様、あなたは私に、音を立てるなと仰いました。でも、ここでは私の音は『福音』だと言っていただけるのです。私は、この場所が大好きです」


その時、ちょうどお昼時を告げる鐘が鳴りました。

厨房からギュンター様が、不機嫌そうな顔をして大きな皿を運んできました。


「おいおい、招かれざる客のせいで、せっかくの料理が冷めてしまうではないか。お嬢さん、閣下、お食事の時間ですぞ!」


皿の上には、アークスの極寒の海でしか採れない『氷晶ナッツ(ひょうしょうなっつ)』を、これまた硬い『鋼殻蟹こうかくがに』の身と一緒に和えた、特製の温サラダが乗っていました。


私は、ジュリアン様の目の前で、その氷晶ナッツを一粒手に取りました。

このナッツは、噛んだ瞬間に氷のように冷たく弾け、その後、中から熱い魔力が溢れ出すという不思議な食材です。


私は迷わず、そのナッツを口に入れ、思い切り噛み締めました。


——パキィィィィィン!


静まり返った玄関ホールに、耳を劈くような、それでいて清涼感溢れる音が響き渡りました。

続いて、蟹の殻を模した薄い衣が「サクサク、バリバリッ」と小気味よく砕ける音が重なります。


「……っ!? な、何だ、この音は……!」


ジュリアン様が両耳を押さえ、その場に跪きました。

彼の周りを取り囲んでいたソルスティスの騎士たちも、驚きのあまり武器を落としています。


「エレナ様、今朝よりも一段と良い響きですな! そのナッツが砕ける音を聞くだけで、わしの視界がキラキラと輝いて見えるようですぞ!」


ギュンター様が嬉しそうに声を上げました。

傍らにいた護衛騎士のカイル様も、深く息を吐き出して笑います。


「本当だ。エレナ様が噛み締める音を聞くと、心の中に溜まっていた重い澱が、一気に洗い流されるような気分になります。殿下、あんな音を『呪い』だなんて、正気とは思えませんね」


「……あ、ああ……。頭の中の、あの忌々しい沈黙が……消えていく……?」


ジュリアン様が、呆然とした顔で私を見上げました。

私の咀嚼音が、彼を苛んでいた「沈黙の呪い」を、ほんの一時だけ中和したのです。

彼は初めて、自分の国がいかに飢え、枯れ果てていたかを知ったようでした。


「エレナ……その音を、僕にも……僕にだけ聴かせてくれ。そうすれば、僕はまた眠れるようになる……!」


ジュリアン様が縋るように私の裾を掴もうとしました。

ですが、アラリック様がその手を冷たく振り払いました。


「自分の勝手で捨てたものを、必要になったからと奪い返す。そんなことが許されると思うな。エレナは、アークスの、そして俺の……大切な家族だ」


「……アラリック様」


私は、アラリック様の逞しい腕に手を添えました。

ジュリアン様は、私たちが交わす信頼に満ちた視線を見て、絶望に顔を染めました。


「帰るがいい、ソルスティスの王子よ。あんたが求める静寂は、あんたの国にいくらでもあるはずだ」


アラリック様の冷徹な宣告。

ジュリアン様は、自分の部下たちに抱えられるようにして、命からがら馬車へと戻っていきました。


走り去る馬車の音を聞きながら、私は最後の一粒の氷晶ナッツを飲み込みました。

喉を鳴らす「ゴクッ」という音が、私たちの勝利を告げるファンファーレのように響きました。


「エレナ、怖くはなかったか?」


アラリック様が心配そうに私を覗き込みました。

私は首を横に振り、最高の笑顔で答えました。


「はい。だって、私にはこの美味しい音と、アラリック様がいてくださいますから」


私たちの絆は、外からの嵐を撥ね退けるほど、強く、そして美味しく育っていたのです。

しかし、追い詰められたジュリアン様が、このまま大人しく引き下がるとは思えませんでした。

王都ソルスティスの闇は、私たちが想像するよりもずっと深く、歪んでいたのです。


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