第7話 禁忌の啜り音と、霧を払う龍の麺
アークス城下町の市場は、以前の静まり返った様子が嘘のように活気づいていました。
私がアラリック様の隣を歩いていると、あちこちから「エレナ様だ!」「聖女様、今日もありがとうございます!」という温かい声が飛んできます。
「以前は、市場でも誰も喋らず、ただ指差しだけで取引が行われていたんだ。だが今は、あんたの音がこの街の喉を震わせてくれた」
アラリック様は、嬉しそうに周囲を見渡しました。彼の足取りは力強く、その背中からは公爵としての威厳と、活力が溢れ出しています。
「私、こんなにたくさんの笑顔に囲まれるなんて、夢みたいです。王都ではいつも、影に隠れるように生きていましたから」
私がそう答えると、アラリック様は私の肩を優しく抱き寄せました。
「もう隠れる必要はない。今日は、この街で一番『勇気がいる食材』を扱う店へ案内しよう」
連れられてやってきたのは、市場の奥深くにある一軒の屋台でした。
店主は、かつて鉄血騎士団の最前線で戦っていたという、隻腕の退役軍人・ボロスさんです。
「ようこそ、閣下、聖女様! あんたのおかげで、俺の店もようやく『これ』を出せるようになりました」
ボロスさんが差し出したのは、深い鉢に入った料理でした。
中には、アークスの地下深くで育つ『双龍根』という植物を細く長く引き伸ばした、麺のような食材が泳いでいます。
上にはピリリと辛い『赤岩胡椒』と、とろとろに煮込まれた『土竜の角煮』が乗っています。
「これは『双龍麺』といってな。啜って食べるのが一番旨いんだが、アークスが沈黙に支配されてからは、誰もその音を立てる元気がなかったんだ」
ボロスさんは、懐かしそうに麺を見つめました。
「啜る……ですか?」
私は一瞬、体が強張りました。
王都ソルスティスにおいて、麺状のものを「ズズッ」と音を立てて啜ることは、最も卑しく、最も忌むべき禁忌とされていたからです。
「エレナ、怖がることはない。ここではその音が、龍の咆哮となって呪いを払うと言い伝えられている」
アラリック様の励ましに、私は意を決して箸を取りました。
黄金色に輝く双龍麺をたっぷりと持ち上げ、唇に当てます。
——ズズッ、ズズズズズッ!
私の喉が震え、激しく空気を吸い込む音が周囲に響き渡りました。
その瞬間、私の体中を稲妻のような衝撃が駆け抜けました。
「……っ! なんて、なんて力強い……!」
麺は驚くほど弾力があり、噛み切るたびに「プツンッ」という小気味よい音を立てます。
さらに啜り上げた際に絡みつくスープの「ジュルッ」という音が、私の耳を、そして周囲の空気を震わせました。
「すごい……! 見てくれ、街のあちこちに残っていた『沈黙の霧』が、エレナ様の啜り音に合わせて吹き飛んでいくぞ!」
ボロスさんが、空を指差して叫びました。
確かに、街の隅に残っていた灰色の淀みが、私の立てる音に弾かれるように霧散していくのが見えます。
「これだ……この音だ! 俺たちの魂を揺さぶる、最高の刺激だぜ! 聖女様、あんたの啜る音を聞いていたら、動かなかった俺の指が温かくなってきた!」
店の前に集まった人々からも、次々と歓喜の声が上がります。
「俺にもその麺をくれ!」「俺も一緒に音を立てたい!」
一人、また一人と、店先に座って麺を啜り始めました。
「ズズッ!」「ズズズッ!」
あちこちで龍の咆哮のような音が響き合い、街全体に活気が満ち溢れていきます。
「エレナ、これが見えるか? あんたが禁忌を打ち破ったことで、この街は完全に呪いから解き放たれたんだ」
アラリック様も、自身の麺を豪快に啜り上げました。その顔には、少年のような清々しい笑みが浮かんでいます。
「……おいしいです。皆さんと一緒に、こうして大きな音を立てて食べられることが、こんなに幸せだなんて」
私は最後の一滴までスープを飲み干しました。
その時、私の心の中にあった最後の「重石」が、スッと消えていくのを感じました。
しかし。
幸せな熱気に包まれるアークスの空の下、遠くからこちらを窺う不穏な視線がありました。
「……信じられん。あれほどまでに不潔な音を立てて、民が笑っているだと?」
それは、密かにアークス領へ潜入していた、ソルスティス王国の密偵でした。
王都を蝕む沈黙の正体が、実はエレナの喪失にあると気づき始めたジュリアン王子が、彼女を連れ戻すための機を伺っていたのです。
平和を取り戻した街に、新たな波乱の予感が漂い始めていました。




