第6話 音を忘れた王都、響きを取り戻した辺境
アークスの朝は、これまでにないほど爽やかな空気で始まりました。
昨夜、私の咀嚼音を聴きながら眠りについたアラリック様は、驚くほどすっきりとした顔で食堂に現れました。
「おはよう、エレナ。昨夜は……世話をかけたな。数年ぶりに、悪夢を見ずに朝を迎えることができた」
アラリック様の声には、以前のような刺々しさが消え、柔らかな響きが混じっていました。
私は少し照れながら、ギュンター様が用意してくれた朝食の席につきます。
「いいえ、お役に立てたのなら嬉しいです。アラリック様、顔色がとてもよろしいですね」
「ああ。あんたのおかげだ」
そんな会話を交わしていると、厨房からギュンター様が意気揚々と大きな皿を運んできました。
「さあ、お嬢さん、閣下! 今朝は自信作ですぞ。アークスの高地で採れる『太陽小麦』を幾重にも重ねて焼き上げた、『陽光の層生地』です!」
目の前に置かれたのは、薄い生地が何百層にも重なった、黄金色のパイのような料理でした。
表面には『結晶塩』が散らされ、中には『蜜林檎』に似た果実がたっぷりと詰まっています。
私は早速、その層生地にフォークを入れました。
それだけで「パリパリッ」と、繊細で小気味よい音が弾けます。
一口大に切って口へ運ぶと、異世界の食材ならではの驚きが待っていました。
——パリィッ、サクサクッ、パリサクッ……!
「……っ、この音! なんて軽やかなのかしら!」
噛むたびに、極薄の生地が口の中で弾け、まるで小さな光の粒が踊っているような音が鳴り響きます。
中の果実はとろけるように甘く、外側の生地は驚くほど香ばしい。
咀嚼する音が重なり合い、食堂の中に心地よいリズムを作っていきます。
「ほう……。今朝の音は一段と透き通っているな。エレナが噛むたびに、窓の外の霧が目に見えて晴れていくようだ」
アラリック様が感嘆の声を漏らし、自身もその層生地を口にしました。
「……本当だ、ギュンター。これは旨い。だが、俺が噛む音よりも、エレナが奏でる音の方がずっと魔力に満ちている。この音が響くたびに、体中の血が熱くなるのが分かるぞ」
「わっはっは! でしょう? お嬢さんの『響食』に合わせて、生地の層をあえて不均等に重ねてみたのです。噛む場所によって音が変わる、名付けて『五色の音色パイ』ですぞ!」
ギュンター様は自慢げに顎を撫でました。
傍らに控えていた護衛の騎士も、思わずといった様子で口を開きます。
「……失礼いたします。あまりに良い音なので、聞いているだけでこちらまで腹が鳴ってしまいました。エレナ様、その音が響くたびに、剣を握る腕の力が漲るようです」
アークス城がこうして活気に包まれている一方で。
私の母国、ソルスティス王国の王宮は、かつてない絶望的な沈黙に沈んでいました。
王太子ジュリアン様は、豪華な食卓を前に、苛立たしげにフォークを投げ出しました。
「……なぜだ。なぜ、何も味がしないのだ」
テーブルには、国中から集められた最高級の食材が並んでいます。
音一つ立てぬよう完璧に調理され、見た目も芸術品のように美しい。
しかし、ジュリアン様の口に入る料理は、まるで砂を噛んでいるかのように味気ないものでした。
「殿下、一口でも召し上がってください。このままではお体が……」
「黙れ! 静かにしろと言っているだろう!」
ジュリアン様は側近を怒鳴りつけました。
かつて彼が愛した「完璧な静寂」は、今や彼の精神を蝕む猛毒へと変わっていました。
エレナがいなくなった王宮では、誰もが声を潜め、物音を立てることを恐れています。
その結果、国全体が活力を失い、建物には『沈黙の腐朽』と呼ばれる不気味な灰色のカビが広がり始めていたのです。
エレナがかつて、無意識に立てていた咀嚼音。
それは、ソルスティスの王宮に溜まる「淀み」を浄化し続けていた、唯一の清涼剤だったことに、彼らはまだ気づいていません。
「……あの、咀嚼音がうるさい女がいなくなれば、全ては良くなるはずだった。なのに、なぜ耳鳴りが止まらないのだ。なぜ、この国はこれほどまでに冷え切っている……!」
ジュリアン様は、震える手で自らの声を確かめるように喉を抑えました。
しかし、彼の喉から出るのは、掠れた、力ない吐息だけでした。
一方、アークス城。
「エレナ、今日は領内の街へ行ってみないか? あんたの音を聞きたがっている奴らがたくさんいるんだ」
アラリック様の誘いに、私は大きく頷きました。
パイを最後の一欠片まで大切に食べ終え、「サクッ」という最高の音を響かせて。
「はい、喜んで! もっとたくさん食べて、この国をもっと元気にしたいです!」
私の笑顔と、満腹の幸せな音が、アークスの青空へ向かって高く、高く響き渡っていきました。




