第5話 月夜の甘い響きと、不眠の公爵
アークス騎士団が活気を取り戻した日の夜。
城の中は、昼間の熱狂が嘘のように静まり返っていました。
ですが、それはかつての「死の沈寂」とは違います。
遠くで夜番の騎士たちが交わす低い話し声や、松明がパチパチとはぜる音。
生きている音が微かに混じる、穏やかな夜でした。
私はなかなか寝付けず、手持ち無沙汰に城の廊下を歩いていました。
すると、公爵アラリック様の執務室から、微かな呻き声が聞こえてきたのです。
「……っ、またか。この耳鳴りは……」
開いた扉の隙間から見えたのは、机に突っ伏し、こめかみを押さえるアラリック様の姿でした。
昼間の凛々しさはどこへやら、その横顔には深い苦悩の色が滲んでいます。
「アラリック様? 失礼いたします」
「……エレナか。こんな夜更けにどうした」
彼は顔を上げましたが、その瞳はひどく充血していました。
聞けば、彼は領地を守る代償として、強力な「深淵の沈黙」の呪いを受けているといいます。
皆の呪いを吸い取ってしまうその体質ゆえに、静かな夜になると、呪いが「絶望の囁き」となって彼の耳を塞ぎ、眠りを奪うのだそうです。
「お疲れなのですね。何か、私にできることはありませんか?」
「いや……あんたには昼間、あれだけの騎士たちを救ってもらった。これ以上、負担をかけるわけにはいかない」
アラリック様は無理に微笑もうとしましたが、その指先が微かに震えています。
私は居ても立ってもいられず、厨房へと走りました。
そこには、明日の仕込みをしていた料理長のギュンター様がいました。
「ギュンター様! 夜分に申し訳ありません。アラリック様が眠れずに苦しんでおられます。何か、夜食にふさわしい食材はありませんか?」
「なに、閣下がまた不眠を……。それなら、ちょうどいいものがあるぞ。お嬢さん」
ギュンター様が貯蔵庫から出してきたのは、琥珀色に輝く木の実と、銀色の粉がまぶされた蜜でした。
「これは『月晶くるみ』だ。月明かりを浴びて育つ実で、この世のどんな石よりも硬いと言われている。これに『星雫の蜜』を絡めて焼き上げれば、極上の甘味になる」
私はギュンター様の手を借りて、その「月晶くるみの蜜がけ」を作りました。
熱々の蜜をくぐらせたくるみは、冷めると宝石のような硬い膜を作ります。
私はそれを持って、再びアラリック様の部屋を訪れました。
「お待たせいたしました。夜食を持ってまいりました」
「夜食……? こんな硬そうな木の実をか?」
アラリック様は訝しげに皿を見つめました。
私は彼の隣に椅子を引き、一粒のくるみを手に取りました。
「私が食べます。アラリック様は、ただその音を聴いていてください」
私は、琥珀色のくるみを口に放り込みました。
——カリィッ、パキィッ!
これまでの力強い音とは違う、繊細で、どこか澄んだクリスタルのような音が響きました。
厚い蜜の膜が砕け、中の香ばしいくるみが弾ける「サクサク」という軽快な音が続きます。
「……っ。なんだ、今の音は。頭の中に直接、清涼な水が流れ込んできたような……」
アラリック様が、驚いたように目を見開きました。
私は二粒目、三粒目と食べ進めました。
噛むたびに、夜の静寂を切り裂くような、高く心地よい響きが部屋を満たしていきます。
「美味しいです。このくるみ、噛む瞬間に少しだけ熱を持って、口の中で甘い星の香りが広がります」
「……ああ、聞こえる。いつも俺を追い詰める忌々しい囁きが、あんたがくるみを噛む音に掻き消されていく」
アラリック様の表情が、みるみるうちに解けていきました。
彼は机に背を預け、深く息を吐き出しました。
「不思議だ。あんたが食べ物を楽しむ音を聴いているだけで、どうしてこんなに心が落ち着くのか。まるで、暖かい毛布に包まれているような気分だ」
「それは、アラリック様がずっと、一人で戦ってこられたからですよ」
私は手を止めず、咀嚼音を奏で続けました。
カリカリ、ポリポリ。
蜜の甘い香りが、二人だけの空間に穏やかに漂います。
「……エレナ。もう少しだけ、近くにいてくれないか。その音が聞こえている間だけは、俺は『公爵』ではなく、ただの男に戻れる気がするんだ」
アラリック様は、そっと私の空いている方の手を握りました。
大きな、節くれだった、戦う者の手。
でも、その熱はとても優しく感じられました。
やがて、アラリック様の呼吸が穏やかになり、規則正しくなっていきました。
数分後、彼は繋いだ手を離さないまま、椅子に座った状態で安らかな眠りに落ちました。
私は残りのくるみを最後の一粒までゆっくりと噛み締めました。
ゴクッという嚥下音が、静かな部屋に優しく響きます。
「おやすみなさい、アラリック様」
彼の寝顔を見守りながら、私はこの世界で初めて「自分が必要とされている」という確かな実感を抱いていました。
その一方で。
王都ソルスティスのジュリアン王子の寝室は、完全な沈黙に支配されていました。
しかし、その沈黙は安らぎではなく、底なしの虚無でした。
どれほど高級な羽毛布団に包まれても、彼は謎の寒気と耳鳴りに襲われ、一睡もできずにいたのです。
「……なぜだ。なぜ、こんなに静かなのに、苛立ちが止まらない。あの忌々しい女がいなくなって、静寂を取り戻したはずなのに……!」
王子が失ったものの大きさに気づくのは、まだ少し先のお話です。




