第4話 響き渡る勇気、騎士団の目覚め
アークス城の朝は、重く垂れ込める霧の中から始まりました。
私は、アラリック様に用意していただいた清潔な寝室で目を覚ましました。
王都での針のむしろのような日々とは違い、ここには私を罵る声も、音を立てるなと叱責する視線もありません。
昨夜、ギュンター様が作ってくださった溶岩鳥の余韻が、まだお腹の奥に温かく残っています。
私は鏡を見て、自分の頬にほんのりと赤みが差していることに気づきました。
「おはよう、エレナ。よく眠れたか?」
食堂へ向かうと、既にアラリック様が待っていました。
彼は昨夜よりもさらに顔色が良くなり、その瞳には力強い輝きが宿っています。
私の姿を見ると、彼は椅子を引いて座るよう促してくれました。
「はい。あんなに深く眠れたのは、人生で初めてかもしれません」
「それは良かった。だが、今日は少し忙しくなるぞ。訓練場に騎士たちを集めてある。皆、長引く戦いと呪いのせいで、心も体も限界なんだ」
アラリック様の言葉に、私は緊張で背筋を伸ばしました。
私にできるのは、ただ食べることだけ。
それが本当に、屈強な騎士様たちを救うことになるのでしょうか。
訓練場へ向かうと、そこには数百人の騎士たちが整列していました。
しかし、その光景は異様でした。
誰一人として言葉を発さず、武器を整備する金属音さえも、霧に吸い込まれるように消えていきます。
彼らの肌は土色で、瞳からは感情の光が失われていました。
これが「深淵の沈黙」に蝕まれた人々の姿なのだと、私は息を呑みました。
「……閣下。あの方が、仰っていた『響食の聖女』様ですか?」
一人の若い騎士が、ふらつきながら前に出ました。
カイルという名のその騎士は、かつては優秀な魔弓使いだったそうですが、今は弦を引き絞る力さえ残っていないように見えます。
「ああ。カイル、そして皆も聞け。彼女の食事の音こそが、お前たちの魂を縛る沈黙を打ち砕く楔となるだろう」
アラリック様の宣言と同時に、ギュンター様が巨大なワゴンを押して現れました。
その上には、山盛りの料理が乗っています。
「今日のために用意したのは、アークスの難所『鳴き砂の崖』に自生する『鳴り石豆』のコロッケだ! これに『青葉ハーブ』を練り込んだ『空殻海老』を添えてある。さあ、お嬢さん。出番ですぞ!」
ギュンター様が、期待に満ちた目で私を見つめました。
騎士たちの、虚ろながらも縋るような視線が一斉に私に集まります。
私は深く息を吸い込み、ワゴンの前に用意された小さなテーブルにつきました。
まずは、鳴り石豆のコロッケを手に取ります。
この豆は火を通すと硬質化し、噛んだ瞬間に小さな爆発のような音を立てることで知られています。
私は大きく口を開け、そのコロッケに齧り付きました。
——ッパキィィィィィィン!
訓練場に、信じられないほど高らかで、透明感のある音が響き渡りました。
それはまるで、凍りついた湖の氷が割れる時のような、鮮烈な音。
続いて、衣が砕ける「ザクザクッ」という音が重なります。
「……っ、なんだ、この音は……耳の奥が、熱い……!」
カイル様が自分の耳を押さえ、その場に跪きました。
私の口の中で、鳴り石豆が砕けるたびに、心地よい振動が空気中を伝わっていくのが分かります。
私は次に、空殻海老を口にしました。
この海老は、空中の魔素を吸って育つため、殻が薄い水晶のように硬く、噛むたびに「シャリ、シャリリッ」と鈴を転がすような繊細な音を奏でます。
「……すごい。音が……色が、戻ってくる。風が草を揺らす音が聞こえるぞ!」
「俺の魔力が……指先に、熱が戻ってきた! おい、見てくれ、剣が握れる!」
騎士たちが次々と声を上げ始めました。
一人、また一人と、土色だった顔に血色が戻り、瞳に光が灯っていきます。
「なんて心地よい音なんだ。エレナ様が海老を噛み砕く音を聞くたびに、頭の中を霧のように覆っていた絶望が、洗われていくようだ」
最前列にいた年配の重騎士が、涙を流しながらそう言いました。
「本当だ。ただの食事の音なのに、高名な楽師の演奏よりもずっと、心が震える。ギュンター、お前の料理、こんなに旨そうな音がするものだったのか?」
別の騎士が、隣の仲間の肩を叩きながら笑いました。
ギュンター様は鼻を高くして、得意げに胸を叩きます。
「ふふん、わしの腕だけではない。エレナお嬢さんの『響食』があってこそ、この食材たちは本当の歌を歌い始めるのだ」
私は夢中で食べ続けました。
コロッケのホクホクとした甘み。海老のプリプリとした弾力と、殻が砕ける軽やかな音。
私が「美味しい」と感じ、音を楽しめば楽しむほど、騎士たちの活気が増していくのが手に取るように分かりました。
「エレナ。見てくれ、これが本来のアークス騎士団の姿だ」
アラリック様が、嬉しそうに私の隣に立ちました。
先ほどまで死の静寂に包まれていた訓練場は、今や驚きと歓喜の声で満ち溢れています。
武器を打ち鳴らし、お互いの生存を祝う音が、灰色の霧を吹き飛ばしていくようでした。
「私……嬉しいです。私の音が、誰かの迷惑じゃなくて、力になれるなんて」
私は最後の一口を飲み込み、ゴクッという音と共に、満面の笑みを浮かべました。
騎士たちは一斉に剣を抜き、空に向かって掲げました。
「聖女エレナに、栄光あれ!」という叫びが、アークスの空を揺らします。
その熱狂の渦の中で、私はアラリック様と視線を交わしました。
彼の瞳には、深い感謝と、そしてそれ以上の温かな色が混じっていました。
しかし、この歓喜の報せは、遠く離れた王都ソルスティスにも届こうとしていました。
エレナを失い、真実の「沈黙」が蝕み始めた王宮で、ジュリアン王子がどのような顔をするのか、この時の私たちはまだ知る由もありませんでした。




