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第2話 鉄血の公爵と、泥の中の救世主


「その音を、もう一度聞かせてくれ……」


目の前の男性——アークス辺境伯、アラリック様は、縋るような目で私を見つめていました。

右手で握られた大剣の先が、泥濘んだ地面に深く突き刺さっています。

その拳が微かに震えているのを、私は見逃しませんでした。


私は困惑し、手に持っていた食べかけの「石っころパン」を握りしめました。

王都ではあれほど忌み嫌われ、不潔だと罵られた私の咀嚼音。

それを「もう一度」と望まれるなんて、人生で初めてのことです。


「あ、あの……不快では、ないのですか? 行儀が悪く、獣のようだとは……」


私が恐る恐る尋ねると、アラリック様の後ろに控えていた二人の騎士が、驚いたように顔を見合わせました。

彼らもまた、アラリック様と同じく顔色が悪く、目の下には深い隈があります。


「不快なはずがあるか! 今の……その、ガリッという高い音だ。それが響いた瞬間、頭の中にこびりついていた不気味な囁きが消えたんだ」


アラリック様は一歩、私の方へ歩み寄りました。

その威圧感に、私は思わず後ずさります。

しかし、彼の瞳に宿っているのは敵意ではなく、喉が渇いた者が水を求めるような、切実な渇望でした。


「お嬢さん。今のパン、まだ残っているな? 頼む、俺たちの前で食ってみせてくれ。これは命令ではない……願いだ」


公爵ともあろうお方が、泥まみれの追放令嬢に対して「願い」だなんて。

私は断る理由も見つからず、震える手でパンを口元に運びました。


石っころパンは、このアークス領で採れる「鉄粒麦てつりゅうばぎ」を練り上げたものです。

焼き上がりは岩のように硬く、並の歯では太刀打ちできません。

けれど、私の「響食」という体質は、なぜかこうした硬いものを食べる時ほど、その真価を発揮するのです。


私は覚悟を決め、パンの角を思い切り噛み砕きました。


ゴリッ、バキッ、ボリボリッ……!


静寂に包まれた荒野に、小気味よい音が弾けました。

私の口の中で、鉄粒麦の繊維が砕け、結晶化した塩粒が弾ける音が響きます。


「っ……!」


アラリック様が、短く息を呑みました。

さらに後ろの騎士たちも、雷に打たれたように硬直しています。


私は夢中で噛み続けました。

パンから溢れる香ばしい麦の香りと、ほんのりとした甘み。

それを飲み干すと、喉の奥から「ゴクッ」という心地よい音が鳴ります。


「ああ……。信じられん。本当に、静かだ」


アラリック様が、その場に膝をつきました。

彼は重い兜を脱ぎ捨て、顔を覆いました。


「……閣下! 俺の腕の痺れも消えました。魔力が、指先まで通っています!」

「私もです! あんなに重かった頭が、嘘みたいに軽い……!」


騎士たちが歓喜の声を上げました。

彼らの顔には、先ほどまでの死相が嘘のように、生気が宿っていました。


私は呆然と、食べ終えた自分の手を見つめました。

ただパンを食べただけ。

それなのに、この人たちはまるで奇跡でも見たかのような顔をしています。


「お嬢さん。あんたの名前は?」


アラリック様が、立ち上がって私を見据えました。

兜を脱いだその素顔は、深い傷跡こそあるものの、彫りの深い、驚くほど整った美貌でした。


「エレナ・フォン・シュトラウスと申します。ソルスティス王国から……追放されて参りました」


「シュトラウス……。あの、音を嫌う偏屈な国の令嬢か。ふん、あいつらはとんでもない宝を捨てたようだな」


アラリック様は、自らのマントを翻すと、それを私の肩にふわりとかけました。

泥だらけで冷え切っていた体に、彼の体温が残る厚手の生地が染み渡ります。


「エレナ。あんたを、アークス城へ招待したい。……いや、護衛させてくれ。あんたのその『音』が、俺たちには必要なんだ」


私は驚きに目を見開きました。

追放された私を、公爵様が城へ。

それは、思いもよらない展開でした。


「ですが、私はただの追放者です。それに、食べるときにこんなにうるさく……」


「うるさい? 違うな。それはこの死にかけた領地を呼び覚ます、福音の響きだ」


アラリック様は私の手をとり、泥で汚れた指先を、痛いほど優しく包み込みました。


「今日から、あんたが飢えることは俺が許さない。世界中のありとあらゆる『いい音が鳴る食材』を、あんたのために集めてみせよう」


その言葉に、私のお腹が、またしても「ぐう」と遠慮のない音を立てました。

恥ずかしさで顔を赤くする私を見て、アラリック様と騎士たちは、初めて豪快な笑い声を上げました。


「ははは! いい音だ! さあ、行こう。城へ戻れば、ギュンターが作った最高の料理が待っているぞ」


アラリック様の手を借りて、私は彼が乗ってきた黒馬の背に乗せられました。

冷たい雨が降り始めていましたが、私の胸の中は、石っころパンを噛み砕いた時のような、確かな熱量で満たされていました。


城への道すがら、アラリック様は馬を並べながら私に教えてくれました。

この地を襲っている「深淵の沈黙」という呪いのことを。

音が消え、感情が枯れ、やがては魔力が尽きて動けなくなる死の病。


「俺たちは、もう何年も、自分の心臓の音すら聞こえないほど深い静寂の中にいた。だが、あんたがパンを噛む音を聞いた時、止まっていた時が動き出したんだ」


アラリック様の声は、低く、心地よく響きました。

その横顔を盗み見ながら、私は心に決めました。


もし私の咀嚼音が、誰かを救う力になるのなら。

私はこの国で、誰よりも美味しく、誰よりも素晴らしい音を立てて食べてみせよう、と。


やがて、灰色の霧の向こうに、武骨で巨大な黒石の城が見えてきました。

「鉄血の公爵」が治める、アークスの本拠地です。


そこには、これまでの私の人生では味わったこともないような、未知の食材と、そして私を必要としてくれる温かな食卓が待っているのでした。


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