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第1話 静寂を切り裂く、一粒の果実


「……その、卑しい音を二度と僕の耳に入れるな、エレナ」


冷徹な声が、水を打ったように静まり返った晩餐会会場に響き渡りました。

王太子ジュリアン様は、まるで汚物を見るかのような視線を私に向けています。

その隣では、彼の側近や令嬢たちが、扇で口元を隠しながらクスクスと忍び笑いを漏らしていました。


ここは「静寂の王国」と呼ばれるソルスティス。

高貴な者ほど音を立てず、優雅に振る舞うことこそが美徳とされる国です。

特に食事の席で音を立てることは、家畜以下の野蛮な行為として忌み嫌われていました。


「ジュリアン様、申し訳ございません。魔法具の調子が、その……」


私は震える手で、首元に触れました。

そこには、食べる際に出る音を完全に遮断する「沈黙の魔石」が埋め込まれたチョーカーがあるはずでした。

しかし、その石には無惨な亀裂が入っています。


原因は分かっています。

私の異母妹であるリリアが、さっき私とすれ違った時にわざとぶつかってきたのです。

その衝撃で、この繊細な魔石が壊れてしまったのでしょう。


「言い訳など聞きたくない。一国の王太子妃となる者が、平民どころか獣のような咀嚼音を響かせるとは。シュトラウス伯爵家の恥さらしめ」


ジュリアン様は、私が一口だけ口に含んだ「緋色の雫」という果実を指差しました。

この異世界において、最も瑞々しく、最も硬い皮を持つ高級果実です。


私がそれを噛み砕いた時、会場には「シャクッ」という、あまりにも鮮烈で軽快な音が響いてしまったのです。

その音は魔法的に増幅されたかのように、列席者たちの鼓膜を揺らしました。


「今この瞬間をもって、貴様との婚約を破棄する。さらに、その耳障りな呪いを持つ者を我が国に置いておくわけにはいかない」


ジュリアン様は、冷酷な宣告を続けました。


「エレナ・フォン・シュトラウスを国外追放に処す。行き先は、隣国アークス。魔物と泥にまみれた、野蛮な辺境だ」


周囲から「当然だわ」「あんな音、生理的に無理だもの」という声が上がります。

私はただ、床を見つめて唇を噛みました。


私には、生まれつきの特異体質がありました。

何かを食べると、その音が異常なまでに響いてしまうのです。

どれほどマナーを学んでも、どれほど優雅に動いても、口の中で食べ物が砕ける音だけは制御できません。

実家でも「呪われた娘」と呼ばれ、窓のない部屋で一人、音を立てない工夫をしながら食事をさせられてきました。


そんな私に、唯一許された外出。それが、音を消す魔法具を身につけての晩餐会だったのです。


「……承知いたしました。今まで、お見苦しいものをお見せして申し訳ございませんでした」


私は深く頭を下げました。

悲しみよりも、どこか晴れやかな気持ちがありました。

この息の詰まる「静寂の国」から解放される。

誰の目も、誰の耳も気にせずに、大好きな食べ物を口にできる。

そう思うと、胸の奥で何かが静かに熱を持つのを感じました。


しかし、追放先のアークス辺境伯領は、この世の地獄と呼ばれている場所です。

「深淵の沈黙」という呪いに侵され、土地は痩せ、人々は生気を失っていると聞きます。

そこで待っているのは、飢えか、あるいは魔物による死か。


「さあ、さっさと連れて行け! その不愉快な音が消えるだけで、空気が清々しくなる!」


ジュリアン様の号令で、私は衛兵たちに腕を掴まれました。

会場を去る間際、私はテーブルに残された「緋色の雫」を見つめました。

まだ一粒しか食べていない、あの果実。

本当は、もっともっと、美味しい音を立てて食べたかった。


馬車に押し込められ、王都の城門をくぐります。

太陽が沈み、辺りが暗闇に包まれる頃には、私はたった一人の侍女も連れず、馬車に揺られていました。


三日三晩、飲まず食わずで馬車は走り続けました。

ようやく止まったのは、空が重く濁った灰色の雲に覆われた、荒野の境界線でした。


「おい、降りろ。ここから先がアークス領だ」


御者が乱暴に扉を開けました。

外に出ると、空気はひんやりと冷たく、どこか鉄のような匂いが混じっています。

足元は泥濘んでいて、豪華なドレスの裾が瞬く間に黒く汚れました。


「あんたみたいな令嬢が、いつまで持つかね。せいぜい魔物に食われないよう気をつけるんだな」


馬車はそれだけ言うと、土煙を上げて去っていきました。

後に残されたのは、私と、小さなカバン一つ。


お腹が、ぐう、と鳴りました。

静寂の国では許されなかった、命の音です。


私はカバンの中から、道中でこっそり手に入れていた「石っころパン」を取り出しました。

アークス領の特産品で、文字通り石のように硬いけれど、噛めば噛むほど味が出るという保存食です。


周囲には誰もいません。

音を消す必要も、誰かに蔑まれることもない。


私は、その硬いパンを思い切り噛み締めました。


ガリッ、ザクッ、ゴリッ……!


静まり返った荒野に、私の咀嚼音が響き渡ります。

それは自分でも驚くほど、力強く、澄んだ音でした。


「……おいしい」


パサついているけれど、穀物の素朴な甘みが広がります。

咀嚼するたびに、体の中に不思議な活力が満ちていく感覚がありました。

まるで、音そのものがエネルギーに変わって、私を癒やしてくれているような。


「……そこにいるのは、誰だ?」


突然、背後から低く、威圧感のある声がしました。


私はびくりとして振り返りました。

そこには、黒い鎧を身に纏い、顔の半分を不気味な傷跡で覆った、大柄な男性が立っていました。


手には、血の跡がこびりついた巨大な大剣。

鋭い眼光は、まるで獲物を狙う獣のようです。


「……貴様か。今、この『死の静寂』の中で、妙な音を響かせていたのは」


彼の言葉に、私は息を呑みました。

やってしまった。

追放された先でも、私はこの「音」のせいで処刑されてしまうのでしょうか。


しかし、男性の反応は私の予想とは全く異なるものでした。


彼は、私が手に持っているパンと、私の口元を交互に見つめると。

信じられないことに、その鋭い瞳を僅かに見開き、震える声でこう言ったのです。


「……その音を、もう一度聞かせてくれ。今、俺の呪いが……一瞬だけ、消えた」


これが、私と「鉄血の公爵」アラリック様との、最初の出会いでした。


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