第50話 『海に出る ― 最初の反撃』
海風が血と焦げの匂いを運んでいた。
網の端に赤い染み。折れた柱。油の抜けた灯台。
泣きながら散らばった海藻を拾う少女。
老人は膝を押さえながら網を撚り直している。
赤備え衆は拳を握り歯を軋ませた。
「……殿。もう耐えられねぇ」
山県昌景が低く言った。怒りで声が震えている。
「兵がいるわけでもねぇ。軍港でもねぇ。
ただの“海を回す場所”ばかり狙われてる。
これが戦なんて言えるかよ……!」
真田昌幸が地図を広げる。
「目的は一貫しています。南蛮は“循環”を止めに来ている。
魚、塩、氷、乾物、油……全て海を動かす根っこです」
少年兵が叫んだ。
「殿!!海に出ましょう!!やり返しましょうよ!!」
赤備え衆が一斉に吼える。
「返させてくだせぇ!!」
「南蛮ぶっ潰させてくだせぇ!!」
信玄は港の奥を見た。
少女の手が震えていた。
老人は歯を食いしばって立ち上がった。
職人は折れた梁を抱えながら歩いた。
それは“止まった状態”だった。
しかし――完全には止まっていない。
信玄は静かに言った。
「……止まるとは、こういうことか」
昌幸が頷く。
「放置すれば、この国は海を失います」
「ならば奪い返す」
信玄はそう決めた。
その瞬間、港の奥から巨大な影が姿を見せた。
木の城そのままの巨船――海城。
昌景が吠える。
「赤備えぇ!!全員乗れぇ!!
索具班!補修班!水夫!火皿班!全部だ!!」
「おう!!」
積まれる道具は殺すためではなかった。
✔ とりもち弾
✔ 回転火皿
✔ 索具
✔ 水壺
✔ 大鉤
✔ 予備帆
昌景が嬉しそうに笑う。
「殿、これはつまり“海の無刀取り”ってわけだな!」
信玄はただ一言だけ返した。
「死人は出すな。沈めるな。
戦える状態だけ剥ぎ取れ」
「了解!!」
⸻
出航。
海城は波を蹴って港を離れた。
誰も止めない。誰も叫ばない。
少女は泣き顔のまま小さく言った。
「……帰ってきて」
信玄は微かに頷いた。
⸻
沖。南蛮艦三。
南蛮士官が双眼鏡を覗く。
「日本に軍港があるという報告はない……
来るはずが――」
視界に影が広がる。
城だった。
海を滑る鋼の城。
「……動く城……!?あり得ない!!」
海城は横付けではなく、
上を取る航路で侵入した。
信玄が指す。
「火皿、回せ」
回転火皿点火。
とりもち弾が唸りながら飛ぶ。
ベチャッ。
帆が固まり、索具が引きちぎれ、舵が動かなくなる。
南蛮士官が叫ぶ。
「砲門を開け!……動かない!?
とりもち……粘着……まさか兵器!?
これは……武器ですらない!!」
昌景が爆笑した。
「動かねぇ鉄の塊が何の役に立つってんだぁ!!」
反撃は一発も来なかった。
三隻、全て捕獲。
死者ゼロ。
⸻
捕虜を甲板に集める。
南蛮士官は震えながら叫んだ。
「なぜ殺さない!?海戦とは沈め合うものだろう!!
誇りはないのか!!」
信玄は振り返らず答えた。
「死体は流れない」
南蛮士官が言葉を失う。
「死は何も回さぬ。
我らが欲するのは海であって墓ではない」
信玄は軽く手を振った。
「繋いで連れて帰れ。
奪われた海は――
奪い返すまで返さぬ」
⸻
その夜。
武田は初めて反撃した。
これは報復ではなかった。
これは“流れの回復”だった。
文明戦争は
まだ始まったばかりだった。




