第46話 『基準が生む歪み ― 失敗する模倣者たち』
駿河の工房に、いつもとは違う種類の沈黙が落ちていた。
水車は回り、木槌は鳴っている。だが空気だけが、わずかに重い。
真田昌幸が、数枚の報告書を信玄の前に置いた。
「……始まりました」
その言葉だけで、誰もが意味を理解した。
「南蛮の模倣が、です」
山県昌景が腕を組む。
「早ぇな。で、どうなった?」
昌幸は感情を挟まず、事実だけを並べた。
「保存食を再現した船で、集団食中毒が発生」
「乾燥庫を拡張した港湾都市では、労働力が保存工程に吸われ、荷役が停止」
「海藻肥料のみを導入した農村では、土壌菌のバランスが崩れ、作物が枯死しています」
赤備え衆がどよめく。
「ほら見ろ!」
「無茶な真似しやがって!」
昌景も吐き捨てるように言った。
「言わんこっちゃねぇ」
「部分だけ盗めば、そうなる」
だが信玄は、報告書から目を離さない。
「……予測通りだ」
その声には、怒りも嘲りもなかった。
昌幸が続ける。
「彼らは悪意でやっているわけではありません」
「合理的に見える部分を、合理的に採用している」
「保存は食の問題」
「肥料は農の問題」
「航路は海の問題」
一枚一枚、紙をめくりながら。
「すべて、部門ごとに切り分けています」
信玄は、ゆっくりと頷いた。
「循環を“担当部署”にした瞬間、詰まる」
工房の外では、水が流れ、畑に行き、また戻ってくる。
誰の持ち物でもなく、どの部署でもない。
「我々は、問題を分けていない」
「流れとして設計している」
今川義元が、低い声で言った。
「だが……」
「武田を基準にしたことで、他国が自壊を始めておる」
・失敗を隠すための統制
・成果を急がせるための労働強化
・責任転嫁のための粛清
「基準が、高すぎるのではないか?」
しばしの沈黙。
信玄は、外を見たまま答えた。
「基準とは、救いでもあり、試練でもある」
「耐えられぬ国は、壊れる」
「だが――我々が壊しているわけではない」
昌景が歯噛みする。
「……助けねぇのか?」
信玄は首を振った。
「教えない」
一瞬、空気が張りつめる。
「だが、遮らない」
昌幸が理解する。
「失敗も含めて、現象は公開する……?」
「そうだ」
「正解も、誤答も、同じように見える場所に置く」
・技術を押し付けない
・思想を説明しない
・ただ、長期で安定した結果だけを維持する
「比較は、相手に任せる」
赤備え衆の一人が、ぽつりと呟いた。
「……逃げ場がねぇな」
信玄は、否定しなかった。
⸻
その頃、海の上。
一年航海に出たドミンゴは、相変わらず何も語らなかった。
「どうすれば同じになる?」
「何を積めばいい?」
「誰に従えばいい?」
問いは増えたが、答えはなかった。
彼はただ、保存食を配り、腐らぬ事実を示し、病なき日数を積み重ねる。
短い報告だけが、駿河に届く。
――彼らは、技術ではなく
――“国そのもの”を欲しがっています
信玄は、それを読み、静かに紙を畳んだ。
「段階が進んだな」
⸻
尾張。
織田信長は、南蛮の失敗報告を読み、眉をひそめていた。
「……基準ってのはな」
火奉行に向けて、低く言う。
「弱い奴を、先に殺す」
書類を積み上げ、命じる。
「急ぐな」
「武田を真似るな」
「尾張の循環を作れ」
信長は、火を制御する国の設計図を、初めて“自分のもの”として引き寄せた。
「同じ場所には立たねぇ」
「だが、同じ高さは目指す」
⸻
武田は、教えない。
だが、逃げ場も与えない。
文明は今、
追いつくか、壊れるか
その二択に立たされていた。
そして世界は、まだ気づいていない。
武田信玄が見ているのは、
勝者ではない。
――最後まで、壊れずに回り続ける構造だけだということに。




