第43話 『理は語られずして伝わる ― 噂を設計する国』
駿河の港は、静かだった。
南蛮船が一隻、潮に身を任せるように停泊している。
異国の帆布、異国の匂い、異国の言葉。
だが武田の兵も、民も、騒がない。
それが、まず異様だった。
「……本当に、誰も集まらないのだな」
ドミンゴは甲板から港を見下ろし、低く呟いた。
通常、南蛮船が来れば、好奇と警戒が入り混じり、人だかりができる。
だがここでは、荷役の人足が淡々と動くだけだった。
背後で、山県昌景が腕を組む。
「ドミンゴ殿」
「せっかく同胞が来たんだ」
「殿の凄さ、語ってやらなくていいのか?」
赤備え衆も頷く。
「そうだそうだ」
「保存食も、時間庫も、世界一だろ!」
ドミンゴは、しばらく黙ったまま、潮の流れを見ていた。
やがて、静かに首を振る。
「……語れば、嘘に聞こえる」
昌景が眉をひそめる。
「は?」
「奇跡を説明する言葉は、必ず誇張に聞こえる」
「それは信仰になる」
「信仰は、必ず疑われる」
そのとき、背後から低い声がした。
「正しい」
武田信玄だった。
「だから語るな」
全員が振り向く。
昌幸が思わず声を上げた。
「殿!?」
「語らねば、何も伝わらぬではありませんか!」
信玄は、港に視線を向けたまま答える。
「噂は、人から出すな」
「現象から出せ」
そしてドミンゴに向き直る。
「南蛮船に乗れ」
「だが――武田の名は一切出すな」
ドミンゴは一瞬だけ目を見開き、すぐに理解したように息を吐いた。
「……観測者、というわけですね」
「そうだ」
「見る者が、勝手に語る」
⸻
数刻後。
ドミンゴは南蛮船に乗り込んだ。
積まれているのは、わずかな荷。
干し魚、乾燥野菜、発酵した海藻、油漬けの肉。
そして、数字だけが書かれた補給表。
船長が眉をひそめる。
「……これだけか?」
「長旅には、あまりに少ない」
ドミンゴは淡々と答えた。
「三か月、補給不要です」
船内に、ざわめきが走る。
「冗談だろう?」
「修道院の保存でも無理だ」
ドミンゴは、それ以上説明しなかった。
⸻
航海が始まった。
日が経つ。
だが、異変が起き始める。
食料が、減らない。
正確には、減っているはずなのに、不足感がない。
腐敗臭が、しない。
甕を開けても、酸の匂いはあれど、腐りの兆しがない。
病人が、出ない。
長航海で必ず出る腹痛も、熱もない。
航海士が、ぽつりと呟く。
「……海が、近い」
「は?」
「距離は同じだ」
「だが、時間が縮んでいる」
誰かが、ついに尋ねた。
「ドミンゴ」
「これは、どこの国の技だ?」
ドミンゴは、少しだけ間を置いて答えた。
「日本の――内陸国だ」
それ以上は、語らなかった。
⸻
船が港に寄るたび、噂が生まれた。
「補給なしで動く船がある」
「食が腐らない」
「兵糧攻めが意味を失う」
だが奇妙なことに、
誰も国名を知らない。
誰も王の名を知らない。
知られているのは、
“ありえない現象”だけだった。
噂は、勝手に増殖した。
⸻
遠い南蛮の地。
航海士、商人、修道士が集まり、議論する。
「火力ではない」
「宗教でもない」
「国家そのものが、時間を制御している」
結論は、静かに一致した。
「侵略は不可能」
「接続すべき文明だ」
⸻
数か月後。
ドミンゴは再び駿河に戻った。
信玄の前に跪き、深く頭を下げる。
「殿……」
「私は、何も語っていません」
「ですが……世界が、勝手に騒ぎ始めました」
信玄は、いつも通り静かだった。
「それでいい」
一拍置いて、続ける。
「文明は、説明すると小さくなる」
夜。
尾張では、織田信長が酒を含み、笑った。
「なるほどな……」
「名前も知られず、海を制したか」
火と速度の覇者は、確信する。
――あれは、敵ではない。
――時代そのものだ。
武田の国は、
今日も静かに、
“語らぬまま”世界を揺らしていた。




