第42話 『時を食べる国 ― 保存食という未来兵站』
駿河の蔵が、異様な匂いを放ち始めていた。
甘く、青く、そして――腐敗の兆しを含んだ匂いだ。
「殿……」
山県昌景が、腕を組んで唸る。
「勝って、畑も蘇って、魚も獲れて……」
「なのに、これかよ」
蔵の奥では、籾を詰めた俵の一部が湿り、野菜籠には白い斑が浮き始めていた。
農民が、恐る恐る口を開く。
「豊作なのに……」
「余らせて、腐らせるのが……一番、怖いです」
武田信玄は、何も言わず一つの大根を手に取った。
切り口はまだ白い。だが水分が多すぎる。
「……これは“食料不足”ではない」
その一言に、全員が顔を上げる。
「“時間不足”だ」
真田昌幸が、はっと息を呑んだ。
「時間……?」
信玄は蔵を見渡し、静かに続ける。
「戦国は、奪う時代だった」
「だが奪った食は、時間を越えられぬ」
「腐るとは――時間に負けることだ」
昌景が頭を掻く。
「殿、つまり……?」
「国は兵で守るものではない」
「“時間を保存できる国”が、最後に勝つ」
その日、信玄は宣言した。
「保存食ラボを立ち上げる」
「兵站ではない。“未来庫”だ」
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海沿い、風の通る場所に木組みの施設が建てられた。
赤備え衆が荷を運び、干し棚を組み、甕を並べる。
「殿!」
「俺ら、戦より忙しいっす!」
昌景の叫びに、信玄は淡々と答える。
「戦より重要だ」
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第一系統:乾燥 ― 風と太陽
山風が抜ける高台に、風乾棚が設けられた。
魚は開かれ、野菜は薄切りにされ、海藻は縄に掛けられる。
「水を抜けば、腐敗は止まる」
「敵は菌だ。剣ではなく、風で斬れ」
昌景が干し魚を手に取り、目を丸くする。
「……軽い」
「これ、兵が背負えるな」
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第二系統:発酵 ― 時間を味方に
甕の中では、麹と糠、刻んだ海藻が混ぜられていた。
「腐る前に、別の生き物に変える」
「それが発酵だ」
昌幸の目が輝く。
「保存と栄養が同時に上がる……」
「しかも、味が増す」
魚醤もどきの甕を覗き、ドミンゴが震えた声を出す。
「修道院でも……ここまで体系化した保存はない……」
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海塩と木灰が混ぜられ、白い粉となる。
「塩は水を奪う」
「灰は、腐敗菌の生きる場を壊す」
義元が頷く。
「昔の塩漬けとは、次元が違うな……」
「これは……理だ」
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油に沈む魚、蜜に浸かる果実。
「時間は、空気で腐る」
「空気を断てば、時は止まる」
赤備え衆が顔を見合わせる。
「殿……」
「これ、兵糧攻め……成立しませんよね」
信玄は答えない。ただ一つ、静かに告げる。
「成立させぬために、作っている」
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完成した保存食は、蔵ではなく“時間庫”と名付けられた。
・各村に三か月分
・山、海、城下に分散配置
・誰が欠けても、国は飢えぬ
農民が、涙を浮かべて言う。
「戦が来ても……」
「逃げなくていいんですね……」
義元は、空を見上げた。
「兵糧攻めで国を落とす時代は……終わったな」
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世界への視線
夜。
信玄は、干し棚の影に立ち、海を見ていた。
「船は、距離ではなく時間で沈む」
「世界へ行くには――時間を食わねばならぬ」
背後で、昌幸が息を呑む。
「殿……」
「これは、内政ではありませんね」
「準備だ」
「世界と戦うための」
遠く尾張では、織田信長が火を制御し、
駿河と甲斐では、時間が保存され始めている。
文明とは――
どれだけ遠くへ行けるかではない。
どれだけ長く、生き延びられるかだ。
武田の国は、
ついに“時間”を味方につけた。




