第41話 『海は畑に還る ― 海藻肥料という国家兵器』
駿河湾沿いの村は、戦後とは思えぬほど静かで整っていた。
家屋は焼けていない。田畑も踏み荒らされていない。
民は逃げず、鍬を持ち、畑に立っている。
だが――作物だけが、どこか鈍かった。
「枯れてはいない。だが、伸びきらん」
農民の言葉に、武田信玄は無言で頷き、畑に膝をついた。
土を掴み、指先でほぐす。
黒さはある。
水もある。
鉄分も、甲斐から運び込んだ改良土で十分に補われている。
それでも、土が“重い”。
「……循環が止まっているな」
ぽつりと呟いた言葉に、山県昌景が首を傾げた。
「殿、戦で荒れてもねえのに、循環ですか?」
「戦は関係ない。人が動かなくなったのが原因だ」
信玄は立ち上がり、海を見た。
駿河湾は穏やかで、青く、潮の流れも安定している。
その浜辺に、褐色の海藻が静かに打ち上がっていた。
そこへ、今川義元が歩み寄る。
「……昔はな、嵐の後にあれを集めて畑に鋤き込んだ」
「塩は抜くが、それでも作物はよく育った」
信玄の目が、わずかに細くなる。
「理由は分かっておったか?」
「いや。ただ“海の恵み”だと」
その瞬間、真田昌幸が跳ねるように声を上げた。
「褐藻だ! カリウム、ヨウ素、微量金属!」
「発酵させれば窒素も固定できる!」
昌景が目を丸くする。
「待て待て、また難しい話になってきたぞ」
信玄は笑わず、ただ頷いた。
「よし。設計に入る」
その日のうちに、駿河沿岸に新たな施設が作られた。
・海藻の種類ごとの仕分け場
・真水を流す塩抜き水路
・水車で回る低温攪拌槽
・甲斐発酵水を加える発酵槽
赤備え衆が汗だくで働く。
「殿、これ兵器ですか!?」
「畑用の施設にしては規模おかしくないっすか!?」
信玄は淡々と答える。
「国家兵器だ」
「人を殺さず、国を強くする」
義元はその言葉を聞き、静かに目を伏せた。
「……駿河は、こういう戦い方を知らなかった」
数週間後。
同じ畑に、再び信玄は立っていた。
土は、明らかに変わっている。
軽く、柔らかく、握るとふわりと戻る。
苗は太く、葉は濃い緑を帯びていた。
農民が信玄の前で、深く頭を下げる。
「戦が終わったのに……」
「前より、畑が強くなりました」
信玄は首を振る。
「違う。戦を“奪わなかった”からだ」
昌幸が感極まったように呟く。
「海の栄養が、土に戻り、作物になり、人を支える……」
「完全な循環ですね……」
昌景は腕を組み、感心したように唸る。
「殿の戦は、終わってから強いな……」
夜。
信玄は一人、浜辺に立ち、波を眺めていた。
「海は奪うものではない」
「返せば、必ず返ってくる」
遠く尾張では、織田信長が火を制御し、
駿河では、海が畑へと還り始めている。
文明の競争は――
もはや、敵を焼く速さではない。
どれだけ循環を設計できるか。
その静かな戦いが、始まっていた。




