第39話 『火と環境 ― 二人の覇者、同じ地平に立つ』
霧が、富士川河口を覆っていた。
朝の海は凪いでいるはずなのに、視界は白く閉ざされ、音だけがやけに遠くまで届く。
水車の軋む音、風見が回る低い唸り、測量柱に当たる波の規則正しい拍。
そのすべてを、武田信玄は“聞いて”いた。
「……来たな」
信玄がそう呟いた瞬間、見張り台から声が飛ぶ。
「殿! 前方、霧の中に人影! 軍勢ではありませんが……先頭に、あの――」
山県昌景が血相を変えて駆け寄る。
「信長です! 織田信長が、本人で来ております!」
「首を取れ」と言いかけた昌景の言葉を、信玄は手だけで制した。
「違う。
あれは戦いに来た男の顔ではない」
霧が割れ、少数の供を従えた一団が現れる。
旗は最低限、武装も控えめ。
そして何より――誰一人、火縄銃を持っていなかった。
先頭に立つ男が、ゆっくりと歩み出る。
織田信長。
「通してくれ」
その声に、威圧も演出もない。
ただ、事実だけがあった。
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信長が通されたのは、本陣ではなかった。
兵の列でも、武具庫でもない。
潮位計、風向計、水路模型、そして中央に据えられた――回転火皿。
信長の視線が、自然とそこに吸い寄せられる。
(兵が少ない……だが、隙がない)
誰もが“役割の位置”に立っている。
守るためではなく、測るための配置。
信長は悟った。
(ここでは、俺はもう撃てん)
やがて、二人は向かい合った。
「武田信玄」
信長が、先に頭を下げた。
「俺は負けた」
一切の言い訳がなかった。
「だが、滅んではおらん」
信玄は頷く。
「存じております。
殿は、火を失っただけです」
信長が、薄く笑う。
「だから来た。
火を、どう使うべきかをな」
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二人の間に、静かな緊張が走る。
「火力は正義だ」
信長が言う。
「速さは力だ。迷えば、負ける」
「火は道具です」
信玄は即座に返す。
「環境は土台。急げば、壊れる」
視線が交わる。
「俺は、世界を焼いてでも変える男だ」
「私は、世界を変えずに勝つ男です」
沈黙。
互いが、互いの正しさを理解している沈黙だった。
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信玄は、回転火皿の前に信長を導く。
「これは?」
「連射火砲です。
ですが――」
信玄は、筒に詰められた弾を見せた。
「とりもち、です」
信長の眉が動く。
「殺さぬ、弾か」
「はい。足を奪い、武器を封じ、戦意を折る」
「……撃たぬのか?」
「撃てます。
ですが、撃ちません」
信玄は、真っ直ぐに信長を見る。
「殿ほどの火を持つ者が
“殺さぬ火”を知れば
この国は、百年生き延びる」
信長は、初めて言葉を失った。
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やがて、信長は静かに言う。
「俺は、家臣にはならん」
「承知しております」
「だが、敵でもない」
それは同盟ではなかった。
降伏でも、取引でもない。
「俺は“観測者”として関わる」
・情報を流す
・技術を見せ合う
・戦わぬが、競う
「俺は火を磨く。
お前は環境を磨け」
信長は笑う。
「どちらが未来を長く生かすか――
時代に選ばせよう」
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立ち去る直前、信長は振り返った。
「武田信玄。
俺がもし……
火を捨てたその時は」
一瞬の間。
「その国に、俺の居場所はあるか?」
信玄は即答した。
「ございます。
炉の管理を、お願いすることになるでしょう」
信長は、声を上げて笑った。
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霧の向こうへ、信長の一団が消える。
赤備え衆が、呆然と立ち尽くす。
「殿……敵、帰りましたが?」
昌景の問いに、信玄は答える。
「いや」
ゆっくりと、海を見据えて。
「未来が一つ来て、帰った」
――火と環境。
二つの文明は、ついに同じ地平に立った。
次は、交わるか。
競うか。
それとも――融合するか。
時代は、まだ答えを出していない。




