第38話 『火を捨てる男 ― 信長の選択』
尾張・岐阜城。
敗軍の将が戻った城とは思えぬほど、城内は静まり返っていた。
怒号も、処罰もない。
あるのは、張り詰めた空気と――主の沈黙だけだった。
織田信長は広間の中央に座し、机の上に積まれた報告書を一枚ずつ繰っていた。
「誰が悪いか、は要らぬ」
顔を上げぬまま、淡々と言う。
「負けた理由は一つだ。
武田が強かった。それだけで十分だ」
家臣たちは言葉を失った。
敗北を、これほど明確に、そして感情抜きで認める主を、誰も見たことがなかった。
信長は続ける。
「怒りたい者は怒れ。
だが、俺の前では要らぬ。
次を見る」
⸻
信長は命じた。
戦の全記録を集めよ、と。
・進軍三日間の湿度変化
・夜霧の発生時刻と濃度
・火縄銃の不発率
・兵の疲労と行軍速度
感想や推測は排し、数字だけを並べさせた。
「……見事だな」
信長は、薄く笑った。
「奇襲でも妖術でもない。
環境を、兵器にしただけだ」
紙の上に並ぶ数値を指でなぞる。
「湿度が上がる刻限。
霧が溜まる谷筋。
火縄が最も弱る地点」
一つ一つが、偶然ではない。
「……いや」
信長は独り言のように呟く。
「“環境を組んだ”のか」
その瞬間だった。
信長の中で、敗北は“理解”へと変わった。
(ああ……同じだ)
自分と、同じ種類の男がいる。
力ではなく、理で世界を動かす者。
⸻
信長は、自国を否定しない。
鉄砲は強い。
速度もある。
火力は、時代最先端だ。
だが――
湿度に弱い。
硝石に依存する。
物流が詰まれば、何もできぬ。
「織田は、燃やす国だ」
静かに言う。
「だが、武田は――
燃やさせない国だ」
火は速い。
だが、火は環境には勝てない。
「このまま進めば……」
信長は盃を取らず、ただ天井を見上げた。
「俺は、時代に焼かれる」
⸻
「再戦の準備を」
家臣の一人が言いかけた瞬間、信長は即座に遮った。
「無駄だ」
一刀両断だった。
「次は、もっと負ける。
条件が揃うほど、な」
沈黙。
「倒す、という発想を捨てる」
それは、降伏でも、妥協でもない。
「俺は……見に行く」
家臣たちが息を呑む。
「武田信玄が、何を見ているのか。
何を捨て、何を残しているのか」
⸻
信長は密かに、駿河の噂を集めさせた。
――火砲は撃たれなかった。
――民は焼かれていない。
――商いは先に戻った。
――今川義元は、生きている。
「勝ち方を、急がぬ男か……」
信長は確信する。
「だから、勝ち続ける」
夜。
城の奥で、信長は独り盃を置いた。
「武田信玄は、俺の敵ではない」
はっきりと、言い切る。
「あれは……
この国が生き残るための“答え”だ」
火を捨てるわけではない。
「火の、使い道を変える」
信長は南蛮商人に命じた。
「武田に伝えろ。
俺は戦ではなく――
“理”を見に行く、と」
炎は消えない。
ただ、その向きが変わっただけだ。
火を急ぐ男は、
初めて立ち止まり、
時代を見る側へ回った。
――次は、交わる。
武田信玄という“環境”と。




