第37話 『火を急ぐ者 ― 信長、動く』
尾張・清洲城。
織田信長は、広げられた商人の訴状を一枚ずつ見下ろしていた。
怒号も、苛立ちもない。ただ、異様な沈黙が座に満ちている。
「……駿河が、遅い?」
家臣の一人が恐る恐る口を開く。
「は。遅い、というより……読まれております。
潮待ち、風待ち、積み替えの刻限。
すべて、武田方の船が“最適な時”を先に取るのです」
信長は、ふっと鼻で笑った。
「関所を置いたわけでも、港を閉じたわけでもない。
それで商いが詰まる……か」
――力ではない。
――これは、“理”だ。
信長は即座に理解していた。
「兵で奪った国なら、兵で奪い返せる。
だがこれは……国の使い方そのものを変えられている」
さらに報告が続く。
硝石の入りが遅れている。
火縄の質が落ち始めた。
南蛮商人が、駿河を経由する取引を優先している。
「殿」
重臣が言う。
「武田は、戦をせずに我らの“時間”を削っております」
信長は頷いた。
「火は速い。
だが――燃やす前に、燃料を断たれれば終わりだ」
だからこそ、決断は早かった。
「攻める」
即断だった。
交渉は不要。
理解し合えば、もう手遅れになる。
「今叩かねば、武田は“戦う必要すらない国”になる」
⸻
三河・遠江方面。
織田軍は、いつもの速度で進軍を開始した。
鉄砲隊を前面に押し出し、短期制圧を狙う――
合理的で、正しい戦い方。
だが。
一日目。
火縄が、妙に湿る。
二日目。
夜霧が濃く、距離感が狂う。
三日目。
乾燥地だと思われた丘陵で、発砲不良が続出する。
「……おかしい」
現場の指揮官が首をひねる。
雨は降っていない。
補給も届いている。
敵襲もない。
それなのに、
銃だけが、言うことを聞かない。
武田軍は、姿を見せなかった。
奇襲もない。
夜襲もない。
挑発すらない。
ただ、
風向きが噛み合わない。
湿度が読めない。
霧が、必要なときだけ立ちこめる。
織田本陣。
報告が積み上がる。
「撃てません」
「進めません」
「兵が疲れているわけでもないのに……」
信長は、静かに笑った。
「……なるほど」
彼は、盤面を見ていなかった。
環境そのものが、盤面だったのだ。
「これは戦ではないな」
誰に言うでもなく、信長は呟く。
「火を使う前に、
すでに負けている」
彼は知っている。
自分は間違っていない。
判断は正しく、決断も早い。
――ただ、
相手が一段、先にいた。
「撤く」
即座に命が下る。
⸻
甲斐。
武田信玄は、進軍中止の報を聞いても表情を変えなかった。
「来られぬのだ」
山県昌景が、歯噛みする。
「殿!
撃たせもしねぇで終わりですか!」
信玄は首を横に振る。
「撃たせれば、恨みが残る」
真田昌幸が、静かに続けた。
「……条件だけが、残りましたね」
海城は、動かない。
回転火皿も、撃たない。
だが――
物流は戻らない。
時間も、戻らない。
今川義元が、深く息を吐いた。
「信長は……もう来ませぬな」
「来ぬ」
信玄は断言する。
「賢い男ほど、次は戦わぬ」
⸻
尾張・岐阜。
信長は、独り盃を置いた。
「武田信玄……
あれは敵ではない」
そして、はっきりと結論づける。
「時代そのものだ」
火は、速い。
だが――
環境を制した者に、火は届かない。




