第36話 『海城、完成す ― 殺さぬ火』
夜明け前の駿河湾。
霧の向こうで、海そのものが低く唸った。
――否。
唸っていたのは、海ではない。
海城だった。
鋼の骨格。
蜂の巣のように組まれた内部構造。
そして船底で、絶え間なく回り続ける海流エンジン。
帆はない。
櫂もない。
それでも巨大な船体は、音もなく前へ進んでいた。
「……進んでおるな」
今川義元が、震える声で呟いた。
「風もなく、櫂も使わず……
それで、これほど静かに……」
信玄は答えない。
ただ、船底から伝わる一定の振動に耳を澄ませていた。
「海が動かしている。
我らは、乗っているだけだ」
昌幸が、思わず笑みをこぼす。
「殿……
これはもう船じゃありません。
移動する構造物です」
昌景は腕を組み、豪快に笑った。
「ははっ!
城がそのまま殴り込みに行くってわけですな!」
義元の目から、一筋の涙が落ちた。
「……駿河は……
この海で、もう一度立ち上がれる……」
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◆
甲板中央。
鋼製の円盤が、低く据え付けられていた。
それが――
回転火皿式連射火砲。
信玄が設計し、第31話で構想された機構が、ついに実体を持った瞬間だった。
海流エンジンの回転が、歯車を介して減速され、
一定の間隔で火皿を回す。
人が行うのは――
照準だけ。
「つまり……」
昌景が目を丸くする。
「狙ってさえいりゃ、
勝手に撃ち続ける……?」
「正確には」
信玄は淡々と訂正する。
「同じ角度、同じ間隔、同じ力で、だ」
ドミンゴは顔色を失っていた。
「連射を……
人の技量から切り離した……?
それは……」
「だが」
信玄は静かに言う。
「殺さぬ」
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◆
信玄は卓に材料を並べた。
・松脂
・漆
・米糊
・石灰
・麻繊維
「燃えない。
だが、冷えれば固まる」
昌幸が、はっとする。
「……粘着性を維持したまま……
衝撃で、絡みつく……!」
「鎧の隙間」
信玄は続ける。
「関節。
足。
武器」
昌景が顔をしかめる。
「当たったら……」
「動けない」
信玄は言い切った。
「生きたまま、な」
ドミンゴは、背筋を震わせた。
「……非殺傷……
だが、完全制圧……」
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◆
的は、鎧兜を着せた木人形。
回転火皿が、低速で回る。
――ガシュ
――ガシュ
――ガシュ
乾いた音。
弾は燃えず、爆ぜず、
ただ――貼りついた。
次の瞬間。
人形の足が、甲板に縫い止められる。
腕が、胴に貼り付く。
刀は、手ごと動かなくなる。
人形は倒れない。
だが――一歩も動けない。
赤備え衆が、言葉を失った。
「……殺してねぇ」
「なのに……終わってる……」
昌景が、低く唸る。
「殿……
これは……戦じゃねぇ……」
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◆
信玄は、回転火皿を見つめながら言った。
「殺せば、恨みが残る」
「焼けば、土地が死ぬ」
そして、静かに続ける。
「動けなくすれば――
戦は、終わる」
昌幸が、深く息を吸う。
「……支配構造だけを……
壊す……」
ドミンゴの独白が、夜に溶けた。
「……この国は……
戦争の定義を……
書き換えた……」
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◆
夜の海を、海城は進む。
回転火皿は沈黙し、
海流エンジンだけが、静かに回っている。
殺さず。
焼かず。
壊さず。
それでも――
誰も、逆らえない。
それが、
**科学国家・武田の“海の顔”**だった。




