◆ 第32話 『潮を読む男 ― 海図と海流の科学革命』
富士川河口。
昨日まで静かな海だった場所が、いまや巨大な建設工房と化していた。
赤備え衆が材木を担ぎ、鍛冶衆が鉄板を打ち、南蛮の職人たちが奇妙な器具を運んでいる。
潮風と鉄の匂いが混じり、甲斐にはなかった“海の工学の空気”が満ちていた。
信玄は、潮の変化をじっと眺めていた。
ドミンゴが横で首をひねる。
「タケダ殿……先ほどから、潮の動きばかりを……?」
信玄は、足もとに刺した長い棒――“潮尺”を指した。
「潮は上下する。だが……“揺れているだけ”ではない。規則だ。」
今川義元が目を細めた。
「……潮の癖なら、我らも心得ておりましょう。満ち引き、干満……」
信玄は静かに言った。
「その根にあるのは“月の引力”だ。」
その場の空気が止まった。
昌景「げ、月の……なんでござるか……?」
ドミンゴは息を詰まらせた。
「……引力……? ま、まさか潮が……天の力で……?」
信玄は淡々と棒の影を指した。
「潮は昼夜だけではない。月の満ち欠けと角度で周期が変わる。
つまり――“読める”。」
義元の手が震えた。
「潮の高さを……予測できると申すか……?」
「できる。だから今日から潮の高さと流速を“時刻ごと”に測り、記録する。」
昌幸はその言葉に完全にスイッチが入った。
「で、殿! それはつまり、海が……数式に!!」
信玄の口元がわずかに上がる。
「数式になるとも。」
昌景が鳥肌を押さえて叫ぶ。
「海まで数字で動かすおつもりか……殿は海神か……!」
信玄「神ではない。理だ。」
その言葉は波より重く、全員の胸に沈んだ。
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信玄は広げた地図の端に“海”を描き始めた。
「陸は測りつくした。次は海だ。」
昌幸が勢いよく手を挙げる。
「殿! 陸と同じく三角測量を……!」
「そうだ。視点を基準にし、沖に立てた旗の角度を測る。
そして――“水深”も取る。」
赤備え衆は声をそろえた。
「水深……って、どうやって……」
信玄は長い棒を海へ向けて突き出した。
「こうだ。」
次の瞬間――
赤備え衆5名が、全力で海に突っ込んだ。
「寒ッ!!」
「潮強ッ!! 流される!!」
「おい! その棒返せ!!」
昌景が怒鳴る。
「赤備えよ! 海にも突撃するでない!!」
結局、全員ずぶ濡れで戻ってきた。
だが――彼らの棒の先には、しっかりと“深さの目印”が刻まれていた。
信玄はそれを受け取り、海図へ水深を書き込む。
ドミンゴが信じられぬものを見るようにつぶやく。
「南蛮では……海はただ“危険”とされておりました……。
しかしタケダ殿は……海を、“測れるもの”と……」
信玄「測れぬものなどない。
ただ、まだ誰も測っていないだけだ。」
その言葉に、南蛮一行は息を呑んだ。
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ドミンゴは革の巻物を広げた。
「タケダ殿、我らの船の理……すべて、開示いたします。」
巻物には、船体の外板の曲げ方、重心の位置、帆柱の強度計算が細かく描かれていた。
昌幸は震え声で言った。
「こ……これは……すべて“理”で動く船……!」
信玄は素早く目を走らせ、頷く。
「よくできている。だが――ここに武田の技術を加える。」
信玄は別の図を重ねた。
・水流抵抗の減る船底形状
・鉄骨の補強方法
・蜂巣構造の内部空間
ドミンゴの口から声にならない声が漏れる。
「南蛮が百年かけて編み出した理に……
たった一日で“別の理”が重ねられていく……!」
信玄は宣言した。
「海城の試作船を作る。まずは“小型鉄船”だ。」
義元の顔が輝く。
「海の戦が……変わる……!」
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赤備え衆が、鉄の“胴体試験片”を抱えて海へ向かった。
昌景
「おい、落とすでないぞ! 殿の理の塊じゃ!!」
赤備え
「了解!! ……よっこら――」
ドボン!!
一同「沈んだーーー!!」
信玄はすぐに角度を調整し、空気室を追加する。
二度目の投下。
ドボン…
……ぷかぁっ!!
赤備え衆
「浮いたァーーーーーッ!!!」
昌景は叫んだ。
「殿!! 鉄が海に浮きましたぞ!!
これは……海突撃の時代――」
信玄
「だから突撃はしないと言っておる。」
だが笑いながら言ったため、みなさらに盛り上がった。
ドミンゴは涙目でつぶやく。
「……鉄が……空気で……浮く……。
タケダ殿……あなたは海の理をも……作り変えている……」
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夕暮れ。
海図
潮流データ
鉄の浮力実験記録
それらが机に積み上がっている。
義元は海に目を向けたまま、静かに言った。
「……駿河は……この海で生きてきた。
だが今日ほど、海が“道”に見えた日はない。」
ドミンゴは震える声で言う。
「タケダ殿……日本で、いや東の世界で……
ここほど理が積もる地はありません。」
信玄は海面の揺れをじっと見つめた。
「次は、“動く海城”だ。
海を完全に読んだ者だけが――世界を動かせる。」
赤備え衆
「――応ッ!!」
その瞬間、沖合に“大潮のうねり”が立ち上がった。
まるで未来へ誘う波のように。




