第29話 『鉄を選ぶ谷 ― 甲斐選鉱場計画始動!』
甲府の空は、まるで鉄を孕むかのような重い鈍色に染まっていた。
信玄はその下で、巨大な甲斐国図を前に腕を組んでいた。
「鉄は流れる……ならば、受け止める“器”が必要だ」
静かな声に、真田昌幸の肩がピクリと跳ねた。
「器……と申しますと……まさか谷全体を……?」
信玄はふっと笑い、筆で地図の一点を示した。
「そこだ。谷川の“曲がり角”。水の力が弱まり、砂が溜まる地形……そこに人工池を掘る」
ドミンゴが目を見開く。
「殿……この構造……まさか……南蛮の“沈降池”を……!」
「似ているな。しかし、甲斐ではもっと自然の力を借りる」
昌幸は地図に目を近づけ、息を呑んだ。
「谷に池を設け、鉄砂だけを沈め……
水を上流へ“戻す”……逆流の仕組み……!」
赤備え衆は、いつものように理解したふりで叫ぶ。
「水が突撃して鉄だけ捕まえるってことか!?」
「鉄を洗う戦場だな!!」
信玄「……ほぼ間違っておらぬが、突撃はやめよ」
甲府に柔らかな笑いが広がった。
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◆ 山県昌景、谷に立つ
その日のうちに、信玄は赤備え衆、昌景、昌幸、義元、ドミンゴを連れて谷へと向かった。
前日の豪雨で水かさが増した川が、濁流となって轟いている。
信玄は川辺の砂をすくい、手のひらで転がした。
「見よ。昨日見たものと同じ黒砂だ。鉄が流れてくる証だ」
昌幸は全身を震わせた。
「殿……自然が……鉱山が……生きておる……!」
昌景は拳を握りしめ、真剣な表情でうなった。
「殿! つまりここに“鉄の陣地”を作ればよいのですな!」
「陣地ではなく“選鉱場”だ」
「選鉱突撃場ですね!!」
「……まあ、やることは突撃と掘削かもしれぬが……」
信玄の妥協に、なぜか赤備え衆が歓声をあげた。
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◆ 南蛮が震えた瞬間
谷の地形を観察し終えると、信玄はその場に棒を突き刺し、地面に線を引き始めた。
「谷のここに堰を作る。水をここへ逃がし、鉄砂だけを沈める。沈んだ鉄は、人の手で集める」
ドミンゴが両手で顔を覆った。
「こ、これは……ヨーロッパで坑夫が数十年かけて考える仕組みを……
タケダ殿は景色を見るだけで……!」
義元がドミンゴの肩を叩く。
「タケダ殿はな、海も山も“器”として見ておられる。
国土そのものを……道具にしてしまう御方よ」
ドミンゴは震えながら言葉を絞り出した。
「殿……甲斐は……自然がそのまま製鉄所……?
そんな国、世界に存在しません……!」
信玄は静かに空を見上げた。
「鉄は国の骨だ。骨なき国は、巨大船も、海城も作れぬ」
その言葉に、昌幸が震える声で続ける。
「殿……つまり……巨大船、鉄の道、鉄の砦……
すべての“未来の国具”が、ここから生まれると……!」
赤備え衆はすでに妄想全開だった。
「鉄の大砲!!」
「鉄の馬!!」
「鉄の赤備え!!」
「最後のは重すぎて動けぬだろう……」
信玄のツッコミに、谷の風が笑うように吹き抜けた。
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◆ 甲斐選鉱場、動き出す
数日後。
甲府に戻った信玄は、巨大な紙を広げた。
そこには谷の地形、川の流れ、堰の位置、沈降池の配置……
細密な設計図が描かれていた。
昌幸が息を飲み、義元は目を細め、ドミンゴは青ざめる。
信玄は筆を置き、言った。
「ここに“甲斐選鉱場”を造る。
谷を丸ごと、鉄を選ぶ器とするのだ」
赤備え衆は最敬礼しながら叫ぶ。
「谷に突撃ぃぃ!!」
「母なる谷を掘れぇぇ!!」
義元は深く頷いた。
「殿……これで甲斐は“鉄の母国”となりましょう」
ドミンゴは震える手で胸の十字を切った。
「タケダ殿……私は宣言します。
貴国こそ、世界に恐れられる“鉄の王国”となる……!」
信玄は静かに笑った。
「まだ始まりにすぎぬ。
鉄が流れ、鉄を洗い、鉄が国を育てる……その時、戦の形も国の形も変わる」
夜風が甲府を吹き抜けた。
その風は確かに運んでいた――
新しい国の匂い、鉄の革命の予兆を。
こうして、甲斐の大地はゆっくりと――
しかし確実に、“鉄の王国”へと変貌を始めたのである。




