第27話 『黒き土の薬 ― タンニン鉄液と根の理』
富士川工房の裏手に広がる茶畑は、朝の風にざわめいていた。若葉が朝露を反射してきらめき、山の端から差し込む光が茶の香りを温めるように漂っている。
その静けさを破るように、真田昌幸が息を切らしながら駆けてきた。
「殿っ……! 土の研究に“兆し”がございます!」
信玄は茶葉の観察をしていた手を止め、顔を上げた。
「ほう、兆しか。面白い。案内せよ」
昌幸に続き、山県昌景、今川義元、そして南蛮人ドミンゴたちが集まってくる。
茶畑の一角、ふだんと同じはずの土が――明らかに異様な色をしていた。
その部分だけ、土の表面が黒く締まり、まるで濡れた絹のように艶を持っている。
昌景がしゃがみ込み、土を掬い上げた瞬間、目を丸くした。
「お、おい……なんだこれ! 締まってんのに、柔けぇ……?」
「締まって柔らかいとは何だ、それは」
金山衆が笑うが、信玄は膝を折り、指で静かに土を撫でた。
「……鉄の動きだな。土の中で鉄が、茶の渋と結びついている」
義元が呟く。
「茶の渋……まさか……?」
信玄はわずかに頷いた。
「行くぞ。工房で試す」
◆
工房に戻ると、信玄は大釜に茶葉を大量に投入した。火を強めると、濃い茶の渋が充満し、南蛮人たちは思わず鼻を押さえた。
「タケダ殿……これは……どこかで嗅いだ香り……南蛮では“タンニン”と呼ぶ成分に似ています」
「タンニンか。覚えておこう」
信玄は静かに釘を一本、煮詰まった茶の中へ落とす。
瞬間――液が漆黒に染まった。
「ひッ!?」
昌景が飛び上がる。
「お、おい殿!? 呪いの薬じゃねぇだろうな!!」
「呪いではない。鉄と茶が結びついた証だ」
信玄は黒く染まった液体をすくい、光に透かして見つめた。
「これを土に施せば、鉄が“根の道標”となる。根が吸い、太く、速く伸びる」
南蛮技師たちはざわめいた。
「鉄を……作物のために……?」
「南蛮でも聞いたことがない……!」
義元が関心を隠さぬ表情で言った。
「信玄殿。鉄と土を結ぶ発想……まるで医の理のようですな」
「国を治すには、土から治せ。昔よりそう言うだろう」
◆
信玄はすぐさま畑の試験区画へ向かった。農民たちが驚いた顔で並ぶ。
「この黒き液を、苗の根へ少量ふりかけよ。土が締まり、根が道を掴む」
「殿……こんな黒い汁、ほんに大丈夫で……?」
「理は嘘をつかぬ。
土の中には道がある。その道を整えてやるだけだ」
農民たちは恐る恐る黒い液を撒き始めた。
その横で、赤備え衆がなぜか仁王立ちしている。
「殿! 我らも土の突撃に加勢いたします!」
「土に突撃とは何だ。やめておけ」
だが赤備え衆は我先にと畝に液を撒き始める。
「見ろ! オラの畝、黒光りしてるぞ!」
「俺のん、鉄の匂いがすっぞ! 勝った!」
「勝負ではないと言っておるだろう……」
信玄は頭を抱え、義元は笑いを堪えた。
◆ 三日後
朝露が消えかかる頃――昌幸の叫び声が畑に響いた。
「殿ッ!! 根が……太い! 白い! 伸びておりますぞ!!」
掘り起こした苗は、確かに通常よりも明らかに根が太く、白く伸びている。
まるで力強い白蛇が土を駆け巡った跡のようだった。
ドミンゴが震える声で言った。
「……鉄が……土の中で……“動いた”のですか……?
タケダ殿、これは南蛮でも見たことがない……!」
義元は根を手に取り、深く息をついた。
「海も土も……殿はすべて“理”で結ぶのですね」
「海城の帆布も縄も木も、皆 土から育つ。
土の理なくして、海は取れぬ」
夕陽に染まる黒い土が、未来を示すかのように光っていた。
◆
信玄は空を見上げた。
「土が整えば鉄が育つ。鉄が育てば、巨大船の骨も強くなる」
昌幸が目を輝かせる。
「殿……次は、鉄の……?」
「うむ。――“鉄の流れ”を制する」
ドミンゴは息を吞んだ。
「タケダ殿……あなたはどこまで理を広げるのです……?」
「国が揺るがぬよう、根を張るだけよ」
こうして――武田家の“土の革命”は本格的に幕を開けた。




