第26話『海の理(ことわり) ― 大海原への第一歩』
富士川河口には、朝靄がゆっくりと流れていた。
濡れた砂地が陽を受けて銀色に光り、遠くでは波が寄せては返す。その静けさの中に、ひとり佇む男がいた。
今川義元である。
潮風を胸いっぱいに吸い込みながら、彼は目を閉じた。
――駿河の海。
かつて自分が守るはずだったはずの海。
今は戦に荒れ、多くが失われた。
そのすぐ後ろで、蹄の音が響く。
「待たせたな、義元殿」
馬を降りた武田信玄が淡い笑みを浮かべる。山県昌景や真田昌幸、金山衆、そして南蛮技師ドミンゴ一行が続いた。
「……この潮の匂い、懐かしい」義元は呟く。
「信玄殿、本当にここに“海の工房”を?」
「うむ。海の国・駿河を再び立てるには、そなたの海の理が必要よ」
その言葉に、義元の胸が熱くなった。失いかけた誇りが、静かに息を吹き返す。
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■ 海の工房 ― まだ何もない土地から始まる未来
湿地を歩くと、木材や鉄材が山のように積まれ、作業台が並び始めている。
昌景が指を差した。
「殿、昨日届いた南蛮材です」
信玄は頷き、広げられた巨大な巻物――船の設計図へ歩み寄る。
その図を見た瞬間、義元の表情が固まった。
「……これは……なんだ……?」
「でけえ……城かよ……?」昌景が素で驚く。
描かれていたのは、キャラベル船を遥かに上回る巨艦。腹の部分は鉄骨の格子に支えられ、二重底、区画防水、可変帆――まるで未来の船だった。
「信玄殿……これは“海城”ですか?」
義元の声は震えていた。
「うむ。潮と争わず、風を“面”で受ける構造だ」
信玄は帆の角度を指でなぞる。
「二つの舷側に“理”を通す。すると船は海の道を走るように進む」
南蛮技師たちがざわつく。
「こんな構造、我らの国でもまだ……」
「帆の可変軸など、理論だけのはず……!」
その反応を見て、義元は確信した。
――この男、本気で海を獲りに来ている。
「信玄殿……駿河の海を、再び……?」
「うむ。そなたと共にな」
義元の胸に熱いものが込み上げた。
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■ 海の理と科学 ― 義元の経験が繋がる
信玄は羅針盤を取り出す。
「南蛮の羅針盤は優秀だ。だが偏角が足りぬ。
駿河・三河・伊豆の潮と星のズレを計らねばならん」
「潮の癖なら心得ております」
義元は自然に言葉が出ていた。
「この海域は満ち潮で船が北へ引かれます。逆風でも“流されて進む”のです」
「流されて進む……それだ」
昌幸が目を見開く。
「潮の“癖”が分かれば、海底地図が作れる……!」
南蛮勢はまた顔色を失った。
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■ 火薬と鉄 ― 海と戦を繋ぐ改良
次に信玄は火縄銃を手に取った。
「湿気に弱い。海では使い物にならん。
火皿を革と油で覆い、“黒煙封鎖戦”でも火が消えぬようにする」
「黒煙……封鎖戦での……!」
ドミンゴは震えた。
金山衆が精製した硝石を見せると、信玄は言った。
「硝石の純度が上がれば、火薬はもっと軽く強くなる。
海城の防衛用砲も作れるの」
義元
「……ここまで見据えているのか……」
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■ 木と鉄の理 ― 船体構造の核心
昌景が問う。
「殿、海城に鉄をどれほど使うのだ?」
「骨組みは鉄、外殻は木。
格子のように組めば、軽く、強く、浮く」
「木と鉄の格子……!」
義元は驚いた。
「海では波の衝撃を逃がせる……理に適う……!」
ドミンゴ
「タケダ殿……あなたの国は、本気で大海へ……」
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■ 土の理へ至る ― “次回の伏線”
近くの試験畑を見て南蛮技師が言う。
「土を……混ぜ分けているのか?」
「殿の“根の研究”だ」昌幸が笑う。
義元が土を手に取ると、信玄が言った。
「船も鉄も縄も帆布も、全部“土の理”から生まれる。
次は“茶と鉄で作る黒き土の薬”を試す」
「土の薬……? まさか海まで土で……」
義元は呆然とした。
信玄の頭の中では、海と土と空気が一本の線で繋がっているのだ。
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■ 夕暮れ ― 海城誕生の第一歩
夕日が海を赤く染める。
その中で、巨大船“海城”の骨組み図が風に揺れていた。
ドミンゴが深く頭を下げる。
「タケダ殿……我らはあなたと《理の同盟》を結びたい」
「よかろう。互いの理を積めば、互いに強くなる」
義元はそっと潮風を吸い込む。
「……信玄殿。
駿河は……再び“海の国”へ戻れるのですね?」
「うむ。そなたと共にな。
海の中心は、甲斐と駿河が作る」
その言葉に、義元の頬を一筋の涙が伝った。
波の音が静かに響く。
それは、海城誕生の鐘のように――新しい海の時代の始まりを告げていた。




