第22話『南風の剣 ― 海の底を読む者たち』
駿河湾に夜の帳が降り、潮の匂いが濃く漂う。
だが、その空気には妙な“ぬくさ”が混じっていた。
海道観測塔の羽根が、冬のはずの南風を受けて、ゆっくり、しかし止まらずに回っている。
「……また南だ」
塔の前で腕を組む影。赤備え隊長、山県昌景である。
日頃は猛将として鳴らす彼も、今日ばかりは眉間に皺を寄せていた。
「この季節に南風……。
信玄公……これは“敵の奇襲”より怖い風ですぞ……!」
ちょうどそこへ、信玄が静かに歩み寄った。
夜の灯りに照らされた瞳は、塔の揺れをじっと見つめ続けている。
「……海が“下”から変わっておる。」
山県は固まった。
「……下、でござるか?」
「そうだ。」
信玄は塔の記録板に指を滑らせるように触れる。
「潮の匂い。風向き。波聴石の震え。
これらが同じ方向を指しておる。
――海底で“何か”が起きておる。」
背後で聞いていた義元が、驚愕に目を見開いた。
「信玄……海の底の異変まで読めるというのか?」
「読むのではない。“海が語っておる”だけよ。」
信玄は夜空を見上げ、すぐに決断した。
「――明日、海底を“描く”。海道国家には海の地図が要る。」
山県が真っ先に反応した。
「海の……地図!? 海の底を絵に!?
殿、海の底に突撃はできませぬぞ!」
「突撃はせぬ。
音だ。波だ。流れだ。
海は“音”で深さを教える。」
信玄は指で地面を叩き、
「石を落とす。返ってくる“音”を聴く。
それで海底の形がわかる。」
山県はぽかんと口を開けた。
「……海が喋るでござるか……?」
「喋るとも。」
義元が息を飲む。
「これは……海国再興の技。今川に光が戻る……」
◆
翌朝。
山県昌景を先頭に、赤備えが浜に整列していた。
網の代わりに石袋を担いだ赤備えの姿は、どう見ても戦支度に見えない。
赤備えA
「隊長、俺ら……今年石投げ三回目ですよ……?」
山県
「黙れ! 国のためなら槍でも石でも投げるんだ!」
信玄(満足げ)
「石は万能だ。戦場でも海でも役に立つ。」
真田昌幸が板と筆、波聴石を抱えて走ってきた。
「準備できました! さぁ“海の音測り隊”の出陣ですぞ!」
◆
小舟が一定間隔で海へ出る。
赤備えが石を落とし、昌幸が反響を記録し、義元が匂いの変化を見る。
南の沖へ来た時だった。
石を落としてから、反響音が返ってこない。
山県が眉をひそめた。
「……昌幸。今の音、遅くないか?」
昌幸
「遅いどころではありません! ここだけ……異様に深いです!」
赤備えたちがざわつく。
赤備えB
「え、何これ……海の中に“穴”?」
山県
「巨大な“落とし穴”のようだ……」
信玄は、舟の上で風と波を見ながら静かに言った。
「これは潮を乱す“海底の谷”だ。
この季節に南風が吹くのは……その谷が潮を引き寄せておる。」
義元
「海底の谷が……風まで動かすというのか……!」
信玄
「海は陸以上に“流れ”で形を変える。
海底の谷は、潮の道筋を変えるほどの力を持つのだ。」
◆
港へ戻ると、信玄は海図の上に点を記す。
「このままでは――
駿河の港に“逆流の潮”が押し寄せる。」
義元が青ざめた。
「な、なんと……!」
山県
「殿ッ! それは津浪のようなものでは……!」
「そこまでではない。
だが港の船を壊し、浜を荒らすには十分だ。」
信玄は立ち上がり、杭の図を示す。
「海の流れを弱める“潮返し杭”を打つ。
潮の向きをずらし、逆流を防ぐ。」
山県が長槍を掲げるように声を張った。
「赤備え! 杭打ちも突撃も同じだ!
殿がおっしゃるなら海でも山でも突き立てるぞ!」
赤備え全員
「オオッ!!」
◆
杭打ちが始まり、浜は大工と武者が混じる奇妙な戦場の様相を呈した。
赤備えが槍のように杭を抱え、掛け声とともに打ち込んでいく。
「いけぇええッ! 潮を斬れぇッ!」
潮返し杭は、次々と海流を割り、逆流を弱めていく。
◆
夕刻。
観測塔の羽根が再び南を向いた。
信玄は夜の海図を見つめてつぶやく。
「……だが、この南風は“序章”だ。
海はまだ何かを隠しておる。」
昌幸
「殿……まさか、まだ何か……!」
信玄
「ある。
“海流の分岐”。
海道国家の未来を決める大きな潮だ。」
観測塔が夜風を受けて軋んだ。
まるで、海の奥底から何かが呼んでいるかのように。
――海道国家計画、第三段階へ。
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