第2話 『甲斐・技術改革、始動す』
翌朝。
武田館の中庭には朝靄が立ちこめ、まだ冷たい空気が漂っていた。
そこに――病み上がりどころか、昨日死ぬはずだった“武田信玄”の姿があった。
信玄(鋼一)は空を見上げ、肺に空気を吸い込む。
「……よし。痛みは引いているな。原始的な環境でも、まだやれる」
隣に控える山県昌景と馬場信春は、恐る恐る声をかける。
「し、信玄公……本当にご快復を……?」
「まだお身体を動かすには早いのでは……?」
だが、鋼一は涼しい顔で手を振った。
「問題ない。むしろ動き回らねばならん。甲斐の衛生状態は想像以上に悪い。放置すれば、病は蔓延し、組織は崩壊する」
家臣たちは口をあんぐりと開けた。
昨夜まで汗と痰で死にかけていた男とは思えない。
「……殿は、まるで別人のようでございますな」
昌景のつぶやきに、鋼一は軽く笑う。
「“視点”を変えただけだ。戦の天才でなくとも、国を強くする方法はいくらでもある」
その言葉に、家臣たちはますます困惑の色を濃くする。
だが、鋼一は構わず歩き出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
向かった先は――甲斐の城下。
屋台、鍛冶場、道ばたの村人たち……。信玄(鋼一)はそのすべてを鋭く観察していた。
(水質は悪い。皮膚病の比率が高い。井戸の蓋は……開けっ放しか。これはまずいな)
目についた井戸へ歩み寄り、周囲を見渡す。
「この井戸、水が腐りかけている。動物が落ちたか、汚れた手で触られたか……」
村人たちがざわつく。
「な、なんでわかるだ……?」
「見ただけで……?」
鋼一はひょいと井戸の蓋を取り、自分の袖を裂いて即席の“濾過布”を作り始めた。
「井戸をそのまま使うな。まず澱を濾してから煮沸して使え」
きょとんとしている村人たちへ、続けて言う。
「汚れた水は腹を壊し、体力を奪い、病を広める。兵も農も衰える。国力が落ちる」
あまりにも理路整然とした説明に、村人も家臣も黙り込む。
馬場信春が小声で言った。
「信玄公……そこまで衛生にお気を配りとは……」
「戦場を支えるのは民の暮らしだ。まず守るべきは“国の体力”だ」
鋼一は真剣な面持ちで続けた。
「甲斐の最大の弱点は“インフラ”だ。まずは水と衛生環境を徹底的に整える」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の午後。
信玄(鋼一)は家臣たちを大広間に集めた。
「これより、甲斐を“技術で強くする”ための改革を始める」
家臣たちがざわつく。
「技術……?」
「はて、工芸のことにござるか?」
「戦のことではなく……?」
鋼一は頷き、巻物を広げた。
「まず、甲斐全土で“衛生改革”を行う。井戸の管理、用水路の改善、汚水の処理。これらの不備が国力低下の最大の原因だ」
家臣たちは、あまりに初耳の概念に顔を見合わせる。
しかし鋼一の声には確信があった。
「兵は鍛えれば強くなる。だが――疲弊した民からは強い兵は生まれん」
その言葉は、戦場を知る家臣たちにぐさりと刺さった。
「さらに、新たな工房を作る。鉄の精錬技術を上げ、武具の質を底上げする。これは必須だ」
昌景が驚いた声を上げる。
「鉄の質を……上げられるのですか!?」
「できる。炭の焼き方、炉の温度管理、空気の送り込み。少し改良するだけで強度は段違いになる」
鋼一は手早く図を描き、現代科学を“中世の言葉”に落とし込むように説明していく。
「……なるほど、炉に風を送り込むための“ふいご”をもっと強力に……!」
「水車で動かせば、人手もいらぬのでは……?」
家臣たちの目が輝き始める。
鋼一は内心ほくそ笑んだ。
(よし、“技術の楽しさ”に気づいたようだ。あとは、このワクワクを国全体に伝えていけばいい)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夕刻。
信玄(鋼一)は一人、庭に出て風に当たった。
遠く、薄紅の空に雲が流れてゆく。
(……この世界に来た理由はまだわからない。だが、やるべきことは明確だ)
鋼一は空を見上げ、小さくつぶやく。
「国を変える。信玄が夢見た天下を、“技術”の力で取る」
その目は、戦国の虎ではなく――
未来を設計する科学者のものだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日、信玄は早くも次の行動へ移る。
「水車技術班、井戸衛生班、鍛冶場改良班――三つの班を作る!」
「は、班……!? なんと新しい……!」
「それぞれ十名ずつ選抜しろ。甲斐を“技術国家”へ変える第一歩だ」
家臣たちは走り出し、城下は早くもざわめき始める。
その動きは、のちに語られる――
“甲斐 技術改革元年”の始まりであった。
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