第19話『駿河、息を吹き返す ― 黒煙のあとの国造り』
黒煙作戦から一夜が明けた。
駿河の大地はまだ薄く霞み、焦げた匂いが漂っている。だが、戦の怒号は消えていた。
武田の軍勢が勝った──そう呼ぶには、あまりにも静かすぎる夜明けだった。
信玄は本陣で扇子を閉じ、静かに命じた。
「黒煙塔、すべて停止せよ。これより駿河を“息”で満たす」
送煙塔の羽が止まり、黒煙が徐々に薄れ始める。
風洞班の者たちが井戸水を撒き、残った煤を地へ落とした。
やがて、黒いモヤがゆっくりと晴れた。
駿府の民が恐る恐る家から顔を出す。
幼子を抱えた母が、周囲を見回して震えた声で言う。
「……殺され……ない……?」
その不安を払うように、赤備えの山県昌景が澄んだ声で叫んだ。
「この駿河は、武田が守る! 民は害せぬ! 略奪も焼き討ちも断じて許さぬ!」
兵ではない。
“治安官”としての赤備えだった。
彼らは街道を巡り、敗残兵を拘束し、略奪を防ぎ、負傷した民を背負い運んだ。
姿勢は威圧的ではなく、むしろ丁寧で、民の不安を取り除いていく。
昌景は、負傷した老人を手当てしながら呟いた。
「戦は終わった。これよりは……民を守る戦だ」
その光景に、駿府の町はようやく震えを止めた。
◇
一方、真田昌幸はすでに次の作業へ移っていた。
かつて黒煙の三角地帯を描いた巨大地図を広げ、河川・風道・街道を一本一本なぞる。
「殿。この地形……黒煙作戦の“配置図”としてだけでなく、行政区分としても使えます」
「ほう?」
「煙の回廊は、そのまま物流路に。
三角地帯の境界は、治安維持の区画として機能します。
駿河は……新しく作り変えられますぞ」
信玄は map を見つめ、ゆっくり頷いた。
「戦は国を壊すためにあるのではない。作るためにある。……やってみせよ、昌幸」
「はっ!」
その後、駿府の街角では、赤備えが交通整理を行い、風洞班が煙除けの簡易風除柵を設置。
混乱していた市は徐々に落ち着き、商人たちが店を再開し始めた。
「なんと……あの武田の軍が……街を直している……?」
民の目は驚きに満ちていた。
◇
その頃、駿府城の奥深くでは、今川義元が一人、崩れた軍の報告を見つめていた。
そこへ信玄が訪れた。
「義元殿」
「……来たか。討つならば今しかないぞ」
「討たぬ。義元殿、駿河を荒らす者を止めていただきたく参った」
「……なに?」
信玄は静かに続けた。
「略奪を始めた敗残兵が多い。民は怯え、国が死ぬ。
そなたの声があれば、彼らは止まる」
義元は、驚愕と……わずかな安堵の色を見せた。
「……武田が、我が民を救うと……?」
「勝つとは、国を拾うことよ。民は宝だ」
義元の手が震えた。
敗北ではなく……国造りの違いを突きつけられた気がした。
◇
一方、駿河の山中では、敗走した今川家臣団が集まっていた。
「駿府を奪い返せ!」
「夜襲で一太刀浴びせるだけでよい!」
その中心にいたのは朝比奈泰朝である。
だが、兵は散り散り。
まともな軍勢になっていなかった。
彼らは無謀な夜襲を決行しようとした──その瞬間。
山の奥から、高坂昌信が「地響き探知器」の計を持って現れた。
「来るぞ。足音、五十。地面の震え方で武装の重さまで分かるわ」
信玄が薄く笑う。
「戦場の技術は……治安にも使える。面白いな」
武田軍は先回りし、夜襲は未然に阻止された。
「な……なぜ我らの動きが分かるッ!?」
「地が……喋っておる……のか……!」
敗残兵たちは恐怖して散っていった。
◇
翌日、信玄は駿河全土へ「安堵状」を発布した。
・家は守る
・田畑も守る
・財産も奪わぬ
・武田は略奪しない
・働く者には保護を与える
特に漁村の復興を最優先にする、と宣言すると──
「今川でも北条でもない……武田が……助けてくれるのか……」
「戦なのに、何も奪わない……?」
民は次々と戻り始めた。
漁船が海へ出た。
鍛冶場の火が再び灯った。
市場に人があふれた。
駿河は、戦後とは思えぬ速さで息を吹き返した。
◇
復興した街を見下ろしながら、義元が静かに言った。
「……戦に敗れたわけではない。
国造りに……敗れたのだな、我は……」
信玄は何も言わなかった。
ただ遠く、三河と海道へと続く地図を見つめていた。
その眼には、戦ではなく“未来”が映っていた。
「黒煙が消え、風が戻り、光が満ちる。
武田の科学は、戦場を越え……国そのものを動かし始めていた」




