第18話 『駿河制圧戦 ― 黒煙の回廊を駆ける』
駿河一帯に、重い黒煙が垂れ込めていた。
まるで大地そのものが息を潜め、何かを待っているようだった。
その煙の海を、ひと筋の“赤”が切り裂く。
武田が誇る赤備え――山県昌景の軍勢である。
兵らの顔には濡れ布、目には視界確保の透明板。
いずれも、武田の科学者たちが生み出した新装備だ。
風向きは鏡通信塔より逐一報告され、昌景はそれを地図上の光で確認しながら進む。
「我らの敵は、兵ではない……“空気”だ。しかし――殿が空を味方に付けた」
昌景が槍を掲げると、赤備えの足並みが揃った。
風の回廊――黒煙の“薄い筋”を進軍する武田軍は、まるで霧の迷路を知り尽くした猟犬のようだ。
対する今川軍は、煙の中で完全に迷っていた。
「見えぬ……! どっちが前だ!?」「隊が……分かれた!? どこへ行った!」
伝令は煙に飲まれ、味方の位置すら把握できない。
城に籠る今川義元は、駿府を覆う黒煙を見下ろし、沈痛な眼で呟いた。
「……これでは……我が軍が存在しておるのかすら、わからぬ……」
そこへ、鏡通信塔から赤備えへ電光のような報告が走る。
「前方、三十間先の右側に敵五十! 煙の影に潜伏中!」
昌景は迷いなく指示を飛ばす。
「突撃せよ! 煙流れが変わる前に叩き潰す!」
黒煙の外から飛び込んできた武田槍隊の勢いに、視界を奪われた今川兵は抵抗する間もなく崩れた。
ほどなく第二の光信号が届き、昌景は次の標的へ向けて駆け出す。
この“回廊戦”こそ、信玄が設計した戦略の本質だった。
黒煙で戦場を区切り、孤立した敵を一つずつ殲滅する――現代軍事そのものだ。
「殿は……敵を見ずして勝っておられる……」
真田昌幸は、軍議の地図を見つめながら震えた。
その頃、本陣の信玄のもとへ、風洞班より報告が届く。
「海風弱まり、山風は南下。煙流れ、変わります!」
「よし。――一の塔、煙量を五分増やせ。三の塔は回転を落とし、敵の逃げ道を南へ絞れ」
扇で地図を叩く信玄の指示により、送煙塔が次々と動き出す。
煙が道を閉じ、別の場所では道が開く。
戦場そのものが、信玄の意のままに形を変えていく。
「殿……戦場を……手のひらで転がしておられる……」
高坂昌信は、思わず息を呑んだ。
やがて、今川軍は完全に総崩れになった。
本隊、側面隊、後衛――どこも煙で孤立し、互いの位置が分からない。
逃げようにも、煙の空白地帯は信玄が“誘導した進路”である。
義元は、崩れた軍の残骸を見て決断した。
「岡部、駿府へ戻れ。儂は……ここを離れぬ。
城だけは……必ず守る」
しかし、それすら信玄の計算に含まれていた。
(義元を駿府に釘付けにできれば、城を包むだけよ)
さらに鏡通信塔が、駿府へ続く“煙の裂け目”を発見した。
「赤備え、駿府へ!」
昌景の声に、軍勢が炎のように疾走する。
駿府城下――煙の向こうから赤備えが現れた瞬間、今川の兵の心は折れた。
視界を奪われ迎撃できないまま、次々に取り囲まれ、武器を捨てていく。
昌景はあえて大声で叫んだ。
「降伏を受け入れる! 無益な流血は要らぬ!」
虐殺ではなく“無力化”――これこそ科学戦である。
その最中、義元が騎乗して前に現れた。
「今川義元、いざ――!」
だが突き進む赤備えの空気まで読んだ動きは、もはや“武”の域ではなかった。
義元は煙の流れに乗せられ、何度も進路を塞がれ、思わず叫んだ。
「……これは軍ではない……戦ではない……
“科学”そのものだ……!」
崩れゆく駿府城を前に、義元は馬から降り、静かに刀を収めた。
そこへ、黒煙の回廊を進んで信玄が姿を現す。
「義元殿。兵を失わず、城を焼かず、国を壊さず……
これほど穏やかな落城があるか?」
義元は苦笑し、首を垂れた。
「……風は……貴殿の味方であったか……」
こうして駿河は落ちずして落ちた。
刀ではなく、風と煙と光――科学によって静かに塗り替えられたのである。




