第17話 黒煙奔流 ―― 駿河封鎖作戦、発動
駿河国は、ざわめいていた。
武田軍が迫っているわけではない。だが――敗走兵の噂、食糧不足、そして「武田信玄復活」の報が民心を激しく揺らしていた。
「南風が吹かねぇ……今年は妙だ」
「海沿いが、まるで息をしておらんようだ……」
漁師たちの声が、駿府にも届く。異様な静けさ。
それは偶然ではない。季節風の変化を信玄が予測し、“南風が弱まる期間”を狙っていたのだ。
駿府城の一室で、今川義元はふと空を見上げた。
「……風まで武田に味方したというのか」
その瞬間、運命の扉が開いた。
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甲府・躑躅ヶ崎館。
「殿、ご覧ください。風洞班がまとめた駿河の“風道図”にございます」
畳の上に広がる巨大な地図。富士川・安倍川・興津川――三つの流れが三角を描く。
信玄は扇でその三角形をなぞり、静かに言った。
「……駿河は、風の逃げ場が少ない。
ならば煙を流し込み、大平野そのものを“牢獄”にしてしまえばよい」
「煙で……国を封じる、と……?」
「毒は要らぬ。ただ、刺激臭と湿気だけで良い。兵は歩けぬ。弓も鉄砲も使えぬ。視界も奪える」
真田昌幸が息を飲んだ。
「殿……これでは駿河が丸ごと、お手の中ですぞ……!」
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富士川沿いで、巨大な塔が組み上がっていた。
木と鉄でできた丸太風車。その裏に、黒煙を送り込む太い管。
信玄の改革で進化した水車技術と風洞実験の結晶――“送煙塔”である。
「殿……これは、まさしく……煙を“押し出す”機械にございます」
「うむ。五基を稼働させ、一斉に黒煙を南へ押す。煙は上へ逃げぬ――海風が弱いこの時期ならな」
信玄は風を読み、季節を読み、地形を読んでいた。
「駿河の平野は……逃げられぬ“器”よ」
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やがて、その時が来た。
甲府より送られた合図の鏡光が送煙塔の頂で一斉に輝く。
職人たちが車を回し、黒煙が地を這うように南へ押し出された。
駿河側――。
「なんだ……この黒い霧はッ!?」
「目がッ……喉が……ッ!」
黒煙は毒ではない。
しかし刺激が強く、視界を奪い、涙と咳を止められぬ。
弓は湿り、鉄砲は火がつかない。
兵は陣形を組むことすらできず、ただ狼狽して崩れていった。
駿府城のやぐらで義元が立ち尽くす。
「……これは……戦か?
いや……国そのものが……敵に殺されてゆく……」
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一方、武田陣。
「殿、“回廊”が完成いたしました」
鏡通信が駿河の煙の流れを読み取り、煙の薄い“安全通路”が作られていた。
そこは赤備えだけが突撃できる“科学の道”であった。
信玄は扇を閉じ、つぶやく。
「……駿河を操作する」
その目は盤面を見る棋士そのものだった。
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黒煙が街道へ流れ、農村に流れ、人々は逃げた。
だが逃げれば逃げるほど煙が追いかけてくる地形だった。
「殿! 脱出路が……ございませぬ!」
「どこへ行こうにも……煙が!」
岡部元信でさえ狼狽する。
義元は、静かに悟った。
「……これは……国を奪われる戦よ……
武田は……国を丸ごと掴んだのだ……」
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黒煙が駿河中央で“逆三角形の封鎖帯”を完成させた頃。
信玄は軍議で立ち上がり、扇をぴたりと閉じた。
「黒煙の奔流は整った。
これより駿河は分断される。
――反撃ではない。制圧である」
「赤備え、突撃の準備万端にございます!」
「行くぞ。
科学合戦・第二段階――“駿河制圧戦”開始だ。」
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鏡通信が一斉に点灯する。
地響き探知器が今川軍の逃走ルートに光を灯す。
黒煙の壁が迫り、赤備えが“煙の回廊”へと突撃する。
風が鳴り、煙が走り、光が道を示す。
戦国は今――科学によって塗り替えられようとしていた。




