【第16話 駿河の黒煙 ―― 科学反撃の狼煙】
駿河国・丸子の渡し。
夕暮れの空を、沈んだ色の軍勢がゆっくり横切っていた。
「……も、もう無理だ……」
「敵の姿を見ていない……なのに……仲間が倒れていく……」
今川軍の敗残兵たちは、まるで亡霊のような足取りだった。
煙に焼かれ、音に震え、見えない槍に怯え続けた――“理解不能の戦場”。
それが、彼らの心を完全に折っていた。
その中心で、馬上の今川義元は唇を噛んでいた。
鎧の袖が震えている。
「……あれは……戦ではない。
武田は、戦場そのものを……作り替えておる……」
義元の声は、風に消えそうなほど弱かった。
隣を行く岡部元信は、主君を支えつつ前方を睨んだ。
「殿、まずは駿府へ戻りましょう。
敵は追ってきませぬ。武田は“戦の速度”までも計算しておりましょうゆえ」
義元は目を閉じた。
武田信玄――いや、“如月鋼一”という謎めいた頭脳。
彼らの使う風、音、光、熱のすべてが理解できない。
(戦が……まるで術比べ、いや……自然が敵に味方しておるようであった……)
義元は震える息を吐いた。
『妖術軍』と恐れる兵もいた。
『最新技術』と推測する重臣もいた。
だが――義元には、どちらも正解に思えた。
武田は、人智の外側にいる。
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■駿府城下 ―― 黒い噂が広がる
翌朝、駿府城下ではとんでもない噂が飛び交っていた。
「甲斐では天狗が兵を焼くらしいぞ!」
「山が鳴いたんだと。馬が一斉に倒れたとか」
「武田の軍勢は光だけで通信するんだと……」
義元はその声を聞き、奥歯を噛みしめた。
「……妖術ではない。あれは……理の力だ。
武田は“自然”を操る軍になりつつあるのだ……」
しかし、家臣の多くは信じられない。
「風で煙を操る?」「光で合図?」「音で馬を殺す?」
理解が追いつかない。
追いつかないうちに――駿河は追い詰められつつあった。
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■一方その頃、甲斐では
甲斐・要害山。
山頂の管制塔で、武田信玄は風向図を眺めていた。
馬場信房が報告する。
「殿。冬型の気圧配置が強まっております。
海風が甲斐に逆流しづらく、“南風に乗る”戦術が格段に扱いやすくなりました」
信玄が目を細める。
「――攻めの風、か」
真田昌幸が地図を広げる。
「駿河は平野が広く、風が抜けやすい。
山中で使った“煙・熱・音”の戦術が、そのまま平野にも通用します」
高坂昌信が続ける。
「鏡通信は甲府から身延、富士川まで連結済み。
もはや、駿河の海沿いまで信玄公の目が届きます」
信玄は静かに言った。
「――黒煙を使う」
室内の空気が、わずかにざわめいた。
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■黒煙工房 ―― 新兵器の誕生
黒煙工房では、水車の回転音が低く響いていた。
火薬局の技術組が真っ黒な粉末を煽っている。
「殿の命で“黒煙の素”の量産、始まりました!」
風洞班が乾燥を担当し、湿度を調整。
メタルラボが散布用の“煙送り機”を仕上げる。
山県昌景が唸った。
「黒煙を風で送る……谷でやったそれを、平野で?
だが……駿河は広いぞ?」
信玄は迷いなく答える。
「広い土地ほど、煙は“壁”になる。
逃げ場が多い平野だからこそ――
我らは“平野そのもの”を封鎖できる」
山県の目には、驚愕と興奮が宿っていた。
「……殿。
つまり駿河の土地を丸ごと“閉じ込める”と?」
「そうだ。煙の壁で分断し、赤備えで叩き、
光通信で全軍を動かす。
――科学突破戦術の完成だ」
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■駿河側 ―― 追いつけぬ絶望
今川義元は、城内で焦りに満ちていた。
「工房を作れ! 煙よ、火薬よ、何でもよい!
武田の真似をせねば勝てぬ!」
しかし、駿河は何もかもが遅かった。
・湿気で火薬が使えない
・鉄砲は錆び、弓弦は切れ
・“風向き”を読む技術さえない
岡部元信は、主君の震える手をそっと押さえた。
「殿……。
このまま武田が攻めてくれば、駿府城はもちませぬ。
退く……という選択肢もございます」
「退けば家が終わる……
留まれば滅ぶ……」
義元は声を失った。
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■甲斐 ―― 黒煙の幕が立ち上がる
黒煙の試験散布。
甲府盆地に、巨大な黒い帯が立ちこめた。
民衆はざわついた。
「……これが信玄公の新兵器……?」
「空が……黒い川みたいに……」
その黒煙を、信玄は山頂から見つめる。
「駿河の平野なら……この黒煙は“壁”となる」
馬場信房が言う。
「黒煙で敵を分断し、赤備えが突破する……
殿、まさに“科学反撃戦”の完成ですな」
信玄は扇を閉じた。
「いや――まだだ。
これは序章にすぎぬ。
次は、駿河そのものを“動けぬ大気牢”に変える」
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■ラストシーン ―― 駿河封鎖作戦の始動
信玄は作戦図に黒煙の渦を描き、
そこから南へ一本の線を引いた。
「殿……これは、駿河全土を封鎖なさるおつもりで?」
真田昌幸が息をのむ。
「封鎖など甘い」
信玄は低く、静かに言った。
「――駿河を“脱出不能の空気の牢獄”とする。
武田が攻める時代が、いま始まる」
その言葉に、館の空気が震えた。
そして――
駿河へ向けて、黒煙の狼煙が上がった。




