第15話「科学の檻 ―― 駿河侵攻・第二波『閉じ込めの陣』」
谷に朝日が差し込む頃――その光は、地獄のような光景を照らしていた。
今川軍三万。そのうち何千が煙で倒れ、何千が馬から振り落とされ、隊列はもはや“軍”という形を成していない。
谷の両側で崩れ落ちる兵たちを、冷たい風が容赦なく舐めていく。
「……退け……退くのだ……!」
義元の声は震えていた。煙に濡れた甲冑が、きしりと音を立てた。
「殿、どこへ退きましょう!? 後ろも前も……!」
岡部元信が叫ぶが、その声も混乱した群衆にかき消される。
谷の中央には黒煙の壁、谷の出口には風に乗せられた火炎の筋。
足元の地中には埋められた共鳴壺が不気味な唸りを発し、馬は狂ったように跳ね回る。
岡部は周囲を見渡し、呟いた。
「……これは包囲ではない。
“逃げ道をすべて計算されている”……!」
義元は歯を噛みしめるしかなかった。
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山岳管制塔。
武田信玄――いや、如月鋼一は、風向盤が安定して北を指すのを見届けると、馬場信房を呼んだ。
「風は固定された。次は――“熱”だ」
「熱……? 火薬を爆ぜさせるのか?」
「いや。“熱風”を送る」
信玄は、谷へ向かう巨大な送風筒の列を指差した。
水車技術で作られた巨大送風筒、その内部を貫く火薬路が並んでいる。
「火薬の爆炎だけを風で拾い、熱だけを谷へ送る。巨大な乾燥箱のようなものだ。
――“送風火薬路”、起動せよ」
信玄の命に、馬場が赤旗を振る。
直後――。
どおおおおん!!
谷の巨木が揺れるほどの爆裂音と共に、送風筒が轟音を発した。
吹き出すのは濃密な熱風。
まるで見えない龍が谷を駆け抜けるように、熱が敵陣を襲う。
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今川鉄砲隊は、一瞬で崩壊した。
「なっ……銃身が熱い!? 持てぬ!!」
「火縄が……乾いて……いや、湿って……? わからん!!」
熱と湿気が同時に襲いかかり、火縄銃は完全に不発。“鉄砲も弓も使えない軍隊”へと成り果てた。
義元は叫ぶ。
「どこから熱が来る!! 焚火もないだろう!!」
「殿! 火は見えませぬが、熱だけが……!」
完全に理解の範囲を超えていた。
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その時――谷の底で、大地が揺れ始めた。
ごごごごご……!
山県昌景が高台から叫ぶ。
「“地雷の道”、起爆準備! 発動!」
谷の地中に埋められたのは、火薬でも鉄片でもなく――
“衝撃波だけを生む音響爆裂壺”。
地を叩くような衝撃と共に、谷底が脈動した。
ドンッ! ドドドドッ!!
「ひっ……地震だ!!」
「馬が……!! 暴れる!!」
馬の悲鳴、兵の悲鳴、崩れる隊列。
谷はもはや“歩ける土地”ではなかった。
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管制塔。
信玄は静かに扇を開いた。
「……よい。総仕上げだ」
馬場が息を呑む。
「武田の……科学砲を?」
「音、風、光、熱。すべてを合わせる。
人は、身体より先に心が折れる。
――折れた敵を、我らで仕留める」
信玄が赤い扇を振る。
瞬間、三方向の鏡反射板が一斉に太陽光を谷へ向けた。
赤い閃光が線となり、煙の中を斬る。
続いて、山県隊の槍投射器が火を噴いた。
風に乗った槍が一直線に、逃げ惑う敵陣へ突き刺さる。
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今川軍は完全に恐慌状態に陥った。
「助けてくれぇ!!」
「敵が見えねぇ!! 光だけが襲ってくる!!」
「音……風……熱……ああ……どこへ退けば……!」
だが、退路は全て武田が計算し封鎖している。
義元はついに膝をついた。
「……武田信玄は……見えぬ兵で……我を討つ気か……」
岡部が肩を支える。
「殿……これは数では勝てぬ戦。
敵は……戦を“作って”おるのです」
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その頃――。
高台で信玄が中央を指した。
「敵は壊れた。
赤備え、風上より下れ」
山県昌景は、狂気じみた笑みを浮かべた。
「承知!! 赤備え、前へ!!」
山が――揺れた。
朱甲冑の騎馬集団が、一斉に谷へ突撃を開始したのだ。
火の線、風の道、煙の壁。
その全てが、赤備えのために“整えられて”いた。
「う、うわああああ!!」
今川軍は、もはや戦う力はなかった。
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日が暮れ、谷に静寂が戻る。
熱風は止み、煙も薄れていく。
信玄は谷を見下ろし、静かに呟いた。
「……終わる。第一段階はな」
馬場が問う。
「では次は……?」
信玄は、南――駿河の方向に扇を向けた。
「第二段階。“包囲転換”。
敵の侵攻を、そのまま逆方向へ返す。
――武田が、駿河へ攻め込む番だ」
その言葉が、静かに、しかし確実に戦の流れを変え始めていた。




