第14話「封鎖戦 ―― 風と火がつくる“科学の檻”」
夜明け前の山岳管制塔には、張り詰めた空気が漂っていた。
風向盤が、ごう、と揺れた。
馬場信房がそれを見て息を呑む。
「……風が、完全に北へ変わった!」
信玄――如月鋼一は、目を閉じて静かに頷いた。
「檻が閉じた。ここからは“逃げ場のない空間”だ。
今川は、もう戻れん」
塔の外で凍える兵たちが、風の変化に身を震わせる。
だが、信玄の計算どおりだった。
谷に吹き上がっていた南風は夜の温度差と山の陰で反転し、
今川軍が最も深く入り込んだ瞬間、
最悪の北風に切り替わった。
――自然の力で敵を閉じ込める。
それこそが信玄の「科学戦 第一段階」だった。
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甲斐側の谷口では、馬場隊が手早く乾燥藁の山に火をつけていた。
ばち、ばちばち――。
北風が一気に炎を押し広げる。
竹管を束ねた送風筒が風を拾い、猛烈な勢いで煙を谷に押し返す。
「よし……! 全部、敵側へ流れ込んでいく……!」
馬場は火の粉を浴びながら叫んだ。
さらに側壁を走る幸隆隊が、谷の斜面に沿わせて設置した長い“火薬縄”に火を入れる。
ぱち――ぱちぱちぱちぱち――!
爆ぜるような連鎖音が谷全体に響き渡り、
その火は赤い蛇のように尾を引き、谷の中段を一直線に駆け抜けていった。
谷は完全に、火と煙の“迷路”と化した。
「もはや……ここは生きて帰れる場所ではないな」
内藤昌秀が静かに呟いた。
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谷の内部。
湿った濃煙が敵軍の前方に溜まり、風に押されて逆流してくる。
「ぐっ……息が……吸えん!!」
「煙が全部こっちに戻って――!?」
馬が喉を鳴らし、狂ったように暴れ出す。
地面は熱で揺れ、鉄砲は湿って火縄が使い物にならない。
叫び声と咳、馬の悲鳴が混じり、隊列はもはや軍の体を成していなかった。
そこへ――。
どおおおおん!!!!
谷の奥で、埋設していた火薬壺が一斉に爆ぜた。
「ひ、火矢か!? いや……見えん……! 敵はどこだ!!」
「姿が……一人も見えんのに、攻撃だけが……!」
兵たちの顔から、戦意という言葉が消えていく。
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山岳管制塔。
信玄が風の流れを確認し、ゆっくりと右手を上げた。
「……ここから攻撃に転じる。
山県、馬場、幸隆――三方から“風に乗せた火”を放て」
山県昌景は、深い笑みを浮かべた。
「この瞬間をずっと待っていた」
狼煙台から合図の赤旗が振られた。
直後、三方向から一斉に――
火の矢、火薬玉、煙幕玉 が放たれる。
北風がそれらを拾い、谷の内部へ押し込んでいく。
赤い炎が風の筋を走り、黒煙が渦を巻き、
谷の空気は一瞬で赤黒い地獄絵図となった。
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報告が怒涛のように飛び込む。
「殿ッ! 鉄砲隊全滅です!!」
「騎馬も倒れ、隊列が……!」
「火矢が風に乗って、あらゆる方向から……!」
義元は地図を握りつぶさんばかりに震えた。
「……妖術……?
いや、こんな……こんな戦、聞いたことがない……!」
だが決断せねばならない。
「撤退だ! 谷を抜け、平地へ出ろ!!
武田は姿を見せぬ……だが、姿を見せた時は、終わりだ!!」
その判断は正しかった。
ただし――遅すぎた。
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谷の出口へ殺到する今川軍。
二日間の混乱で、兵も馬も疲弊し切っていた。
その瞬間。
――ぼうっ。
煙が風に裂かれ、視界が開ける。
そこには整然と並ぶ騎馬武者たち。
槍は磨き上げられ、甲冑は科学製の圧倒的な光沢を放ち、
全員の目は冷たく前を向いていた。
信玄の扇が静かに広がる。
「……上げよ」
山県の旗が振り上げられ、
武田騎馬軍が一斉に前進した。
「ひ……ひぃ……
あれが……科学の武田軍……!」
今川兵たちは震え上がった。
ここまで、一度も姿を見せず、
風と火と煙だけで敵を崩壊させた武田軍。
ようやく姿を現したのは――
敵が完全に弱りきった最終局面だった。
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谷を見下ろす高台。
信玄は煙の奥に後退する今川軍を見つめた。
「――第一波は終わりだ」
馬場信房が近づく。
「では……次は?」
「第二波。“包囲転換”だ。
風と地形を利用し、今川を南――駿河へ押し返す。
科学強制転回 を行う」
山県昌景が目を見開いた。
「……敵の侵攻が、そのまま逆侵攻に変わる……?」
「そうだ。
攻めてきた敵の勢いを、科学で“反転”させる。
――武田が駿河へ攻め込む番だ」
信玄の声が風に乗り、谷へこだました。
風向きの変化とともに、戦の“流れ”そのものが変わろうとしていた。




