第11話 『空気の戦 ―― 風洞、乾燥、煙、匂いの科学』
甲斐の山々を渡る風は、まだ冷たかった。
だがその風を、信玄はじっと見つめていた。まるで何かを書き記すように。
「殿、また妙なところを見ておられる…」
山県が囁くと、馬場が苦笑して頷く。
次の瞬間、信玄は振り返り、巨大な木枠を指さした。
木と布で作られた、謎の筒状の装置である。
「次は“空気”だ。」
その場にいた家臣全員が同じ顔になった──
「はい?」
信玄はずかずかと木枠の中へ入り、布を軽くはためかせた。
布の揺れが風の流れを示し、筒の中で淡い曲線を描く。
「風は見えぬ。だが、見えぬゆえに戦で最も使える。」
「槍の形も、矢羽の角度も、鎧の隙間も……
風を読めば、すべてが速く、強くなる。」
家臣たちは息を飲む。
この男は、次から次へと“戦国に存在しない科目”を導入する。
「殿、風など読んで何になるのですか?」
山県が恐る恐る問うと、信玄は笑った。
「風は……兵そのものだ。」
その言葉にはまだ意味がわからなかった。
◆
信玄は次に、城下に造られたばかりの“乾燥小屋”へ案内した。
土間に藁が敷かれ、壁には細長い風穴が空いている。
内部には、干し飯、干し野菜、魚の干物、味噌玉──
あらゆる食材が吊られていた。
山県が鼻をひくつかせる。
「これは……食料庫ですか?」
信玄は首を振り、乾燥した干し飯を手に取った。
「これは兵站の革命だ。
武田の弱点は保存食。行軍が短いのはそのせい。」
干し飯を砕くと、指で簡単に潰れる。
軽く、カビもなく、味も良い。
「空気を操れば、食料は腐らん。
乾燥は“見えぬ火”だ。兵を動かす燃料にもなる。」
馬場が感心したようにうなる。
「空気だけで……軍勢が強くなる……!」
「見えぬものほど、効くのだ。」
信玄は次々と小屋を見せる。
湿気対策を施した倉庫。
ほのかに風が通り、矢が乾燥している弓具室。
火薬局の“乾燥炉”では、湿度を抑えて爆薬が安定していた。
信玄
「空気を制する者は、爆ぜも、火も、矢も制する。」
◆
その後、信玄は焚き火をいくつも並べた広場へ移動した。
農民も家臣も、忍び衆も、距離を取る。
「殿……何をするおつもりで?」
信玄は薬草、木片、油を袋から取り出す。
ひとつずつ焚き火に投げ込むと、
白い煙、黒い煙、刺激のある臭い煙が立ち上った。
「煙は“動く壁”だ。」
信玄は棒を使って煙の流れを示す。
「風さえ読めば、敵の眼も鼻も奪える。
煙を晴らす者は戦場を晴らし、
煙を操る者は戦場を覆う。」
忍びが白煙を焚く。
次の瞬間、風がふっと向きを変え、煙が横へ鋭く流れた。
信玄は笑う。
「読めばわかる。敵がどこから動き、どこで止まり、どこで乱れるか。」
さらに信玄は匂い袋を取り出した。
薬草と獣の匂いを混ぜたものだ。
「獣道に撒いておけ。敵の馬を誘導できる。」
山県が思わず口を開く。
「空気ひとつで……敵兵を操るのか!」
「風は戦場の地図。
これを読む者が、戦場を描く。」
◆
その日、信玄は空気の知識を体系化し、
正式に『空気局』を創設した。
役割は多岐にわたる。
風向観測、湿度調整、乾燥糧食、倉庫の防腐、
煙の調合、匂い誘導、火薬乾燥、矢具の品質管理──。
馬場
「……殿はいつの間に、風の神に……!?」
信玄は笑って胸を張った。
「風は誰のものでもない。
ならば武田のものにすればよい。」
◆
その夜。
空気局が本格始動して間もない頃だ。
三条家の忍びが密書を抱え、息を切らして駆け込んだ。
「報告! 駿河にて、異様な動き!
今川が“風読みの術”なるものを学び始めたとのこと……!」
「風読み……まさか真似を?」
「さらに──
我らの赤き田(光合成細菌)を“妖術”と断じ、討つべしとの声が上がっております。」
家臣たちがざわめく。
「今川が……!」
信玄はゆっくりと風洞装置へ歩み寄り、
布の揺れをじっと見つめた。
「……風が変わる。」
その瞬間、外で強い南風が吹き始めた。
風洞の布がバンッと跳ねる。
信玄は背を向けずに言った。
「来るな。
駿河の風が……甲斐へ向かっている。」
そして静かに付け加える。
「ならば良い。
次は“風の戦”で迎え撃とう。」
―こうして、武田vs今川
“科学戦争”の幕が上がるのだった。




