第21話:不器用な愛
気晴らしに勉強しようと思っていたのに。
ノートを開いたまま、手が止まっていた。
ペン先が紙に触れたまま、何も書けない。
真っ暗な部屋の中、机のライトに照らされた動かないシャープペンシルの影がノートに伸びる。
時計の針の音だけが何の音もしない部屋に大きく響いていた。
手に巻きつけられたハンカチを見ると、ほのかの言葉が何度も心の中で繰り返される。
『やっと人を信じてみようって前に進み出したんでしょ?』
そうだ。俺は前に進み始めたんだ。
今までとは違う新しい自分になるために。
あいつは俺の背中を押してくれた。
こんな俺の事を支えてくれた。
そして戦おうと勇気づけてくれ、俺も戦うと決めた。
だからこそ俺はここで立ち止まる訳にはいかない。
俺はペンをノートの上に置くと机の隅に置いてあったスマホを手に取った。
連絡先を開き、一つの名前を睨む。
雨宮冬馬——俺の兄貴だ。
兄貴に連絡を取る事なんてこれまでまったくなかった。
親に反抗し続けた俺とは違い、兄貴は親父に従って立派な医者として働いている。
人付き合いも上手く、周りからも人気があって。
何もかもが俺とは正反対の人間。
だから俺は家を出てからは兄貴に連絡を取らなくなっていた。
きっと俺の気持ちは分かってもらえないと思っていたから。
でも今は違う。
事情を話せばきっと味方になってくれるはずだ。
小さい頃からただ1人、俺に優しくしてくれた人だから。
しばらくスマホを睨んだ末に俺は発信のボタンを押す。
コール音が無限のように長く感じた。
「拓人か
珍しいな」
電話に出たその声は昔聞いた優しい声だった。
俺が親父に怒られた時に慰めてくれた心地良い声だ。
兄貴の優しかった笑顔が俺の脳裏をよぎる。
「兄貴……」
俺は話すのを躊躇った。
俺の話を兄貴は本当に理解してくれるだろうか。
昔のように優しく元気づけてくれるだろうか。
「どうした?
前よりも随分と暗い声だな」
俺を気遣うような明るい声。
その声に俺の心は震えた。
話をする勇気と覚悟ができた。
「親父が……
俺を転校させるって……」
「は?
どういう事だ?」
兄貴の声に力が入る。
それは昔俺が親父に怒られた時に話を聞いてくれたのと同じだった。
この人なら俺の思いを分かってくれる。
俺はゆっくりと今日の三者面談の事を話した。
時折思い出しては怒りが沸いて声が強くなってしまったりしたが、兄貴は冷静に相槌を打って話を聞いてくれた。
「なるほどなぁ
親父らしいと言えば親父らしいな」
話を聞き終えて漏らした兄貴の声には怒りを感じられた。
この人は今でも俺の味方だった。
そんな思いが俺の心を安らげる。
「兄貴……
俺転校したくないんだよ
今の学校で卒業したいんだ」
自分の言葉に力を籠める。
ここでなんとしても兄貴を味方につけて親父の考えを変えさせたい。
俺の言葉に兄貴は黙ってしまった。
その沈黙が永遠のように感じられてくる。
さすがに兄貴でも親父には逆らう事はできないのか。
スマホを持つ手に力が入る。
電話の向こうから聞こえる小さなテレビの音が煩わしかった。
「……親父ってさ、実はお前の事大好きなんだよな」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
突然の兄貴の言葉に俺は持っていたスマホを落としそうになる。
あの親父が?
俺の事を何も知ろうとしないあいつが?
「親父さ、拓人の話をするといつも言葉に力が入るんだよ
会うたびに拓人は元気だろうかってさ」
知らなかった。
俺の事なんてまったく興味がないと思ってた。
三者面談に来た時だって俺をまるで物を見るかのような目で見ていた。
俺は言葉が出なかった。
「たぶん今回もお前をそばに置いておきたいんだと思うわ
自分が追い出した手前、何か理由が欲しかったんだろうな」
「ふざけるな!」
兄貴の言葉に思わず俺は怒鳴ってしまった。
俺の事が好きだからそばに置いておきたい?
そんなの自分の勝手じゃないか。
そのために俺の人生を狂わせようって言うのか。
怒りのあまりに机を殴りそうになった。
「落ち着けよ、拓人
お前が怒る気持ちも分かるから」
兄貴の冷静な声に俺は自分を取り戻す。
だけど親父もそれならそうと素直に言えばいいじゃないか。
追い出しておいてまた呼び戻そうなんて勝手すぎる。
「だいたい親父は不器用なんだよ
本当はお前の事をもっと褒めたいはずだ」
「あの親父が俺を褒める?
そんなの気持ち悪すぎる」
その言葉に兄貴は電話の向こうで笑っている。
だけど俺にとっては笑い事なんかじゃない。
「兄貴、親父に話をしてくれないかな?
兄貴の話ならきっと親父も聞いてくれると思うんだ」
電話の向こうの相手に祈るようにお願いをする。
これがダメならあとは強行手段しかない。
幸い家から毎月振り込まれてたお金は何かの時のためにと残している。
それを使ってほのかと一緒に海外に行ってもいいかもしれない。
「分かったよ
この後すぐに親父に電話するから」
兄貴の答えは実にあっさりしたものだった。
もう少し何か言われる覚悟もしていたから拍子抜けだ。
でもこういう優しさを持った人だからこそ、周りにも人気があるのだろう。
俺の心は兄貴によって鎮められた。
「お前の言い分も分かったし、俺からしっかり言っておくよ
そんないきなり転校とか言ったら拓人だって迷惑だろうって」
嬉しかった。
ここにも俺の事を守ってくれる人がいた。
俺は決して一人じゃなかった。
「お前だってもうすぐ受験だろ?
親父の事は俺に任せてお前は勉強に集中しろ」
そう言って優しく俺を諭す兄貴。
そうだ、俺は受験があるんだ。
こんなところで振り回される訳にはいかないんだ。
「……ありがとう、兄貴」
すごい久しぶりに俺は兄貴に礼を言った。
小さい頃以来だと思う。
それだけ今の兄貴は俺にとって最強の味方だった。
「弟を守るのは兄の役目だからな
じゃあ後は俺に任せておけ」
「分かった……ありがとう」
そう言って電話を切る。
静寂に包まれた部屋の中で思わずベッドに飛び込んでいた。
兄貴ならきっとうまくやってくれる。
そうすれば俺は転校せずに済む。
ベッドで左右に転がり喜びを噛み締めた。
「そうだ……
ほのかに連絡しよう」
俺は起き上がると机に投げたスマホに再度手を伸ばす。
さっきまで使っていたスマホにはまだ暖かさが残っていた。
これは俺が自分の運命に向かって立ち向かった証だ。
ふと窓の外を見ると、いつの間にか雪がシンシンと降り始めていた。
そんな白い世界の中に、少しだけあたたかさを感じた。
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