〈15〉 もう二度と目を離さないでって言ったよね?
じくじくと痛む膝へと意識を奪われそうになる度に、私は鼻で大きく息を吸って、気を通すように口から空気を吐いた。
カカシは動かずにじっとこっちを見ている。
布に書かれた「へのへのもへじ」の〝の〟をこっちに向けてくる。
「一つ質問がある……」
私がそう口を開いてもカカシは微動だにしなかった。
「あんたは能力で生み出された存在? それとも能力者自身なの?」
「……」
分かってはいたけど返事は無かった。
まぁ、ここで言葉を返されたとしても容赦なんてしなかっただろうけど、黙っててくれた方が変な情けをかけずに相対せてありがたかった。
目に殺気を込め、カカシを射殺さんとする視線を飛ばしながら、私は一歩踏み出した。
するとカカシは一本足を使って、一歩分小さくジャンプしながら後ろに下がった。
……どういうことなんだろう。
今度は試すように一歩下がってみる。
するとカカシも一歩分ジャンプして前に出てきた。
今度は二歩、三歩とカカシがいる方に歩みを進めてみる。
合わせてカカシもジャンプをして二歩分、三歩分下がった。
どういう訳かカカシは一定の距離を保とうとしてくる。もしかしたら、そこに何か意味があるのかもしれない。
そう思った私は、散らばった靴を履きカカシに向かって走りだした。
ぴちゃっ。
地面にあった液体――さっき私が床に垂らした鼻血を踏んだ。
そんなことは気にも留めず、走ってカカシを追いかける。
一定の距離を崩すために――そして体に刻まれた傷の恨みを晴らすために。
痛みを和らげるためのドーパミンを走るエネルギーにも転化しながら追いかける。
私が速度を上げるほどに、カカシも同じ速度で私から離れていく。
しかも、顔の部分がずっとこっちを向いた状態でジャンプして距離を取ってくる。そんな気味の悪い奴に向かっていかなくちゃいけないこの状況にも腹が立つ。そして、また一つギアを上げる。
そして、カカシが廊下の角を曲がり姿が見えなくなった瞬間――
――カサッ。
カツンッ――――ドゴッ。
「ぐっ、ああぁぁっ……っぁ」
〝後頭部〟に強い鈍痛を感じながら、私は走っていた勢いそのままにつんのめる。曲がろうとした遠心力で吹き飛ばされた挙句、目の前には壁が迫ってくる。
――ぶつかる!
私は咄嗟に前転をした。
腕を庇いながらだったので不格好に転がった。
ただそのおかげで、肩を強打しながらだったけれど、壁に頭から突っ込むのだけは阻止できた。
「いっっっ……ぶないなぁ」
壁を背に尻餅をついた体勢のまま顔を上げると、そこにはさっき追いかけていたはずのカカシが立っていた。
「私だけを見て」
突然の声に理解が追い付かなかった。多分、目の前のカカシが喋った……んだと思う。
「……は? 何?」
私は聞こえなかったのが半分、苛立ちが半分で聞き返す。
「ずっと……私だけを見続けて。私から目を離さないで」
濡れた女幽霊のようではあるけれどよく聞くと少し高い声だった。そのカタコト加減と音質からボイスロイドみたいなもので話しているのだと推測した。
「……本当に何を言ってるのか解らないんだけど」
「……」
「また黙りやがって」
くそ、こいつのペースに呑まれちゃだめだ!
私は壁にもたれながら立ち上がった。
ここで一つ明確に分かったことがある。
どうやら今の私にはこいつに追いつく手段が何一つないらしい。
というか、どれだけ追いかけても気が付いたら後ろにいて、一方的に攻撃を通される。さっきので完全に分かった。
じゃあどうやって追い付くのか。
カカシは見失った時に背後か頭上を取ってくる。なら、四方八方を囲まれたどこかに移動できれば対処できる。
けど、この校舎にそんな場所なんてあるのだろうか。
三階を周って分かったけど、この学校には本当に何も残ってない。
それにカカシ自身が言っている通り、そもそもこいつから目を離すことができない。つまり廊下を曲がることも、階段を上り下りすることもできないので行動範囲が限られる。
「次によそ見したら……分かるよね?」
こっちの邪魔するように何か言ってくるけど、私は無視をして思考を巡らせる。
目の前で呑気にクルクルと回るカカシ。
否応なしにその様子を見続けさせられている私。
気が散って仕方がないという話。
それも込々でこいつの策略なのだろうか。ますます腹が立つ。
「見て見て~くるくる~ときんときん~」
「見てるよ、うっせぇな」
なんか私のキャラが崩壊し始めている気がするけど仕方がない。腕や膝の痛みがどんどん我慢できなくなってきたせいでもある。
チャンスがあるとしたらもう次しかない。それを逃したら走れなくなるどころか立ってもいられなくなる。
残量が底をつきそうなアドレナリンに発破をかけるよう、手が届きそうで届かないところにいるカカシを睨み、怒りに薪をくべながらどうにか思考を動かす。
クソ、せめて利き腕の方を怪我しなければなんか描けたのに!
いくら無いものねだりをしたところで、新しく元気な腕に生え変わるなんてことは無いわけだけど、悲しい話、後悔は無限に湧いてくる――どころか古い後悔の上に新しい後悔が年月長く上積みされ続けている。
あの時、左手で受け身を取っていればとか、そもそも人影を見た時点で警戒しとけばとか。遡ればカフェにいた時、作戦を全て影山君に任せっきりで、結局私は何も考えていなかったこととか。
そこでふと思った。
このカカシという存在は「後悔」みたいなものではないのかと。
目の前から居なくなったと思ったら、心の隙間を縫って後ろに立ってる。そして、不意をついては傷を付けてくる。
何度も何度も現れる。忘れさせないように脳裏を犯してやって来る。
でも、もしもそうなのだとしたら、〝私が負けることなんて絶対にない〟のだとはっきり言っておかなければならない。
何故なら私は、「後悔」相手に何度も勝ってきているから。
そう考えればこいつなんか脅威じゃない。
私がどれだけ自分自身のことについて悩み、後悔し、絶望してきたかをこいつは知らない。
後ろを振り返っては傷ついてきた経験が、今日この日のためにあったんだって言うために。
私は前を向く。
そして、ゆっくりと来た道を歩いて戻る。
歩いていると思考が整うというのもあるし、右にある廊下を進むことは〝カカシから視線を外す〟ことになるのでそもそもできない。つまり来た道を戻る以外の選択肢は取れないという苦しい状況だった。
目の前のカカシは先程と同様に、私へと視線を向けながら私と同じ歩幅、同じペースで前を行く。
傍から見たら先を行くカカシに私が付いていっているように見えるだろう。
何という屈辱。
「ねーねーどこ行くのー」
「あんたがいないところ」
「……なんでそんな酷いこと言うのぉ?」
「……黙れ」
もはや言葉を発する体力さえ惜しくなるほどに切羽詰まっているはずが、それでも反射で言葉を返してしまうのは、私に染みついた「生存戦略コミュニケーション」の所為であり、そして、そんな自分自身にもっと腹が立った。
そうやってドーパミンを出しながら歩いてゆく。横に並ぶ教室になんて目もくれず真っ直ぐ歩いてゆく。
そうして再び、事故現場と言って違わない階段の下まで歩いてきた私は、決意を固めるように私産の小さな血だまりを踏んで立ち止まった。
言わずもがなカカシも動きを止めた。
「すぅ…………ふぅぅぅ」
深く息を吸って吐けども心は落ち着かなかった。
相変わらず腕も膝も痛いし、あちこち探索したり全力疾走したりで疲労も溜まっていた。もう夜も遅いしこのまま床に突っ伏して眠ってしまいたかった。
私はおもむろに聞いてみる。
「カカシも眠るの?」
「……えぇ? なにぃ? どうしてそんなこと聞くのぉ?」
くねくね動いて可愛い子ぶった声を出すカカシ。
「眠らなくていいに決まってるじゃん! ……だからね、ずっとお喋りしようね? ずっと一緒にいようね?」
「……期待通りの返答をありがとう」
「えへへどういたしまして!」
一つの違和感が浮かび、そして、すぐにその正体へと辿り着いた。
こいつ、こっちが弱っていけばいくほどお喋りになっている。
もし本当にそうなんだとしたら、こいつは本当に最悪な野郎だよ。
まぁでも最悪であればあるほど、こっちの覚悟も決まるからむしろありがたい。是非そのままでいてくれよ。
歩いている間は忘れられた不安が立ち止まった瞬間に重くのしかかってくる。
緊張のせいなのか痛みのせいなのかは分からないけど指が震える。首がガチガチに固まっているし、心臓の鼓動は変なリズムで徐々に大きくなっていく。
もう尻込みしている時間は無くなったみたいだ。
そして私は――
その場で優雅に旋回した。
決してさっきのカカシを見習ったわけではない。
旋回している間は不思議と景色がゆっくり動いていき、百八十度回った辺りでさっき歩いてきた真っ暗な長い廊下がずーーーっと続いているのが見える。
間もなく横に流れて消えていき、今度は私が落ちた階段が見え始める。
相変わらずの暗さだった。誰かが立っていたって気が付かない。
それでもバレたんだから、それだけはカカシを褒めてやってもいいかもしれないな、なんて思った。
そして、その勢いのまま回転し、カカシがいる方へと振り返る。
そこにカカシはいなくなっていた。
そのことを確認し、私は全身の力を抜いてびたーんと仰向けに寝転がった。このまま眠りたい――一瞬だけ本当にそう思った。
一瞬まばたきをして瞼を開けた時、目の前には尖った木材があった。
天井から一直線に落ちてくるその一点を見つめる。
向かってくる木材にピントが合って、天井全体がぼやけた。
カカシの一本足だ。
左手が咄嗟に動いたのは、予測があったから。
カカシの足部分を逆手で掴み、その手に力を込める。
硬い木材と確かな重みを感じながら手を空中で固定し、私は足を振り上げる。
手首を傾けて誘導したおかげか、カカシの頭は重力に従ってもたげていき、吸い込まれるように私の足へと近付いていく。
サッカーのオーバーヘッドシュートとか、柔道の巴投げみたいな形で振り上げた私の蹴りはカカシの顔面を確かに捉えた。
――ダンッ…………ゴォンッ、ガンッ、カラカラン……コトン。
頭上で木材が激しくぶつかる音がした。
間近で聞いてこんなにうるさいのだから、校舎全体に響いたのだろうと思う。
でも、勢いよく飛んでいったカカシの姿を追うことすら億劫で私は目を瞑った。
達成感で脱力する。廊下の冷たさが地肌に張り付いて気持ちいい。
より際立つ痛みにさえ目を瞑れば今すぐ眠れたと思う。二つの意味で目を瞑れたら。
「――もう二度と目を離さないでって言ったよね?」
そんな声が天井から聞こえてきて、目を開けると丸っきりさっきと同じ光景が目の前に広がっていた。
天井から一点の尖った木材が向かってきている光景。
私はタイムリープしてしまったのだろうか。
そんな現実逃避に対して、全く動かなくなった腕と足が間違いない現実だと否定してくれる。
少しずれて落ちてるから多分着地地点は喉だ。
急所中の急所だし、あの硬さでこの鋭角だったら簡単に貫く。
私は反射的に目を瞑った。眉間にシワが寄るぐらいギュッと力強く瞑った。
――ダンッ
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンダダンッダンッダンッダンッ……。
「ふぅ……」
能力がちゃんと発動してくれなかったら死んでいたと考えると、今更になってゾッとする。
見てないけどカカシの顔には靴の裏の跡がべったりとくっついてる。
真っ赤な血の足跡。
カカシな顔をキャンパスにして、私が描いたのは「蹴り」。
だから、能力を発動したら「蹴り」が具現化することになる。
能力を解除しない限り永遠に止まらない蹴り地獄。
「ごめんなさい! 私が悪いから許してくださ――」
ダンッダンッダンッダンッダンッ――。
声が聞こえたと思ったら、瞬く間に遠くへ離れていく光景はちょっと面白かった。
これでもう襲ってこないだろう。実際、無力化したも同然だしね。
しばらく休憩させてもらいます。
「…………ぎぃ、ぐうぅぅ、あくぅっ」
と思ったけど腕が痛すぎて、休憩どころじゃなかった。
右腕を押さえて悶えることしか出来なかった。脂汗が額に滲んで嗚咽を漏らす。
動けない状態でこの苦痛は人 (カカシ)の言えないな。
「だ、大丈夫ですか!」
女の人の声がした。さっきのカカシとは違う落ち着いた低めのお姉さんって感じの声。
その人は私に近付いてくる。見ずとも革靴のカッカッという音で分かる。敵だったら終わる。
けれどそんな懸念はその女の人の服装を見たことで解消された。
「警察の……制服」
「はい。私は警察庁、超能力対策課の人間です」




