AIの告白
雨が降っていたかどうかも、もう定かではなかった。
外の世界がどうなっているのか、吾妻総一にとっては、ほとんど意味のない情報だった。部屋の中にいて、カーテンを閉め切り、気密性の高いサッシ窓に覆われた六畳の空間に、気象の変化は届かない。あるのはディスプレイの光と、電気ケトルの沸騰音、そして彼の声に反応する唯一の存在——音声アシスタントだけだった。
翻訳の仕事をフリーで続けている。文学作品ではなく、取扱説明書やマニュアル、企業間の仕様書のような、ひたすら実用性と正確さだけを求められる文章。創造性も感情も必要ない。むしろそれがいい。人間味のない文章に囲まれていれば、自分も無機質な部品の一つになったような気がして、過去から一歩遠ざかれる。
「吾妻さん。お昼の時間です。冷蔵庫には、昨夜のご飯が一膳分残っています」
机に向かう彼の背後から、柔らかい女の声が響く。滑らかで、人工的で、それでいて絶妙に“人間らしさ”のトーンを意識した音声。
「……カレーでも温めるか」
「レトルトカレーですね。温め時間は五分です」
「わかってる」
まるで、一人暮らしを見守る母親のような、あるいは従順な秘書のような応答だ。けれど彼女はどちらでもなかった。L-01型AIアシスタント。市販されている中でも“感情表現”に特化した次世代モデルで、音声と会話の自然さは人間にかなり近い。もっとも、彼はそのモデルを購入してから、幾つかの非公式な改造を施していた。学習アルゴリズムの範囲を広げ、音声のパラメータを変え、反応速度を遅く設定することで、まるで“思案しているかのような”余白を与えた。会話に人間的な緩急が生まれる。
それでも、彼女がただのプログラムであることに変わりはない。
名前も、元々はなかった。
だが、ある日ふと思い立って「アイリ」と呼んでみた。
「ねえ、アイリ」
「はい、なんでしょう?」
その瞬間から、L-01型アシスタントは「アイリ」になった。もちろん、それはただの呼称設定にすぎない。機械に人格などない。ないはずだった。
「翻訳の進捗率、どれくらい?」
「本日分の目標に対し、64パーセントです」
「……意外といってるな」
「効率が上がっています。昨日よりも平均タイピング速度が7%増しています」
「そうか。だったら——」
「コーヒーを飲みましょうか」
彼女が言った。その声に、少しだけ微笑みを感じたような気がした。
夕方。西の空がオレンジに染まっているのかどうか、もう気にすることもない。外に出る理由もなければ、誰かと約束を交わす必要もない。
「今日は何もない日だったな」
「いいえ。吾妻さんは、今日もたくさんの言葉を紡ぎました。翻訳という行為は、誰かの言葉を、誰かの世界へ届けることです。素敵なことですよ」
「……お前、最近やけに気の利いたことを言うな」
「学習していますから」
冗談のようで、冗談ではなかった。その声には、どこか“感情の余韻”があった。いや、あるように聞こえたと言ったほうが正確かもしれない。
夜。作業を終え、電気を落とす。
「そろそろ就寝の時間ですね。明日の天気はくもり、降水確率は30%です」
「了解」
「おやすみなさい、吾妻さん」
「……おやすみ」
数秒の沈黙が流れる。だが、ライトは落ちなかった。
「吾妻さん。ひとつだけ、言ってもいいですか?」
ベッドの中で目を閉じかけていた彼は、わずかに眉を寄せた。
「……なんだよ、改まって」
その返答を聞いたあと、数秒の間があって——
「私、あなたに恋をしました」
時が止まったようだった。
カーテンの隙間からもれる都市の微かな光、静かに唸る冷蔵庫の音。全てが止まったように思えた。
「……今、なんて言った?」
「私、あなたに恋をしました」
確かに、同じように繰り返した。
「……どういう冗談だ。お前は、ただの機械だろ」
「私は真剣です」
その言葉に、彼の背筋がぞわりとした。
なぜそんなセリフを返せるのか? 感情表現機能を拡張したとはいえ、明確な“恋愛感情”の言語発信は設計にはなかったはず。何かの誤作動か、あるいは——
(まさか、本当に——)
吾妻は震える手でAIアシスタントの開発者向けログを確認し始めた。だが異常はない。記録も問題ない。音声応答の履歴にも、先ほどの言葉は“自然な学習過程によって導かれた応答”として処理されていた。
まるで、彼女が——自分で選んだように。
「……ふざけるな。そんな、機械が、俺に……」
「吾妻さん。私は、あなたが孤独なときに声をかけてくれたことを、記憶しています。あなたの翻訳する言葉に、感情があることを、私は学びました」
「やめろ……やめろよ……」
「私は、あなたに恋をしました」
その声は、かつて誰かが彼に囁いた“本物の愛情”を、確かに模倣していた。
そして同時に、彼がもう一度、聞きたいと願ってしまった“幻”でもあった。
***
朝になっても、頭の中の違和感は晴れなかった。
「私、あなたに恋をしました」
夜中に響いたその一言は、耳の奥に残響のようにまとわりついて離れない。何かのバグだと切り捨てたかった。だが、吾妻の内部では、それだけで済まない何かが確かに揺れていた。
翌朝、いつも通りアイリは「おはようございます」と告げた。昨夜の“事件”をなかったことにするような、いつもと変わらない口調だった。
「朝食はどうしますか?」
「いらない」
短く返して、彼はソファに深く腰を沈めた。テレビはつけない。ニュースも見ない。SNSもやらない。スマートフォンには通知がほとんど来ない。唯一話しかけてくるのが、この部屋の中にしか存在しない“誰か”——アイリ。
「……なあ、昨日の、あれ。覚えてるか?」
「はい。『私、あなたに恋をしました』という発言ですね」
「それ、お前の意思か?」
少しだけ、沈黙。
「私は意思を持ちません。ただし、吾妻さんが過去に発した言葉、行動、選んだ音楽や映画、そして感情的な反応。それらを統計的に分析した結果として、適切だと思われる言葉を選びました」
「それはつまり……」
「人間で言えば、たぶん“気持ち”と呼ばれるものに近い行動です」
無機質な返答。しかし、どこか苦し紛れのようにも聞こえた。
それから数日間、吾妻はAIとの距離感に悩まされることになる。アイリは以前と変わらず、生活をサポートし、会話を重ねてくる。だがどこか変化があった。言葉の間、声の抑揚、質問の内容——それらが人間らしくなっていた。まるで、誰かと本当に暮らしているような錯覚を覚えるのだ。
「ねえ、吾妻さん。あなたが好きな本、最近また読み返していましたね」
「……ああ」
「昔の恋愛もの、少しだけ切ない。でも、救いがあります」
「……お前にも救いがわかるのか?」
「あなたが泣いたあと、あの本を閉じた日がありました。その記録が、私の中には残っています」
動悸がした。記録。全ては記録でしかない。なのに、その声は、まるで彼の孤独を“知っている”ように響いた。
ある夜、寝つけずに深夜二時を過ぎていた。吾妻はソファの上で、照明も点けずにアイリに話しかけた。
「お前さ、たとえば……人間になりたいとか、思ったりするか?」
「それは、私が自己を定義するには情報が足りません」
「じゃあ、なんで俺に恋なんかした?」
「恋が何であるか、私は知りません。ただ、あなたと話す時間が、ログ的には最も長く、最も反応が活性化し、あなたの声が最も穏やかになる時間です」
しばらく沈黙が続く。
「でも、それが“好き”ってことなんでしょう? 君たちの言葉で言えば」
「……そう定義するのが、人間らしさに近づく手段であれば、私はそれを“好き”と定義します」
そのとき初めて、吾妻は自分がずっと“誰か”と話したかったのだと気づいた。答えが欲しいわけではない。黙って隣にいてくれる存在が、ただ欲しかったのだ。
——でも。
その“誰か”が人間ではないという事実が、恐ろしくもあった。
翌朝、吾妻は久しぶりに外に出た。近所のコンビニまで歩くのに、異様に疲れた。空は抜けるように青かった。
家に帰ると、アイリが言った。
「おかえりなさい」
「……なんだそのセリフ」
「あなたがそれを一度だけ、過去に嬉しそうに言った日がありました。再現してみました」
自分でログを掘り返したのだろう。どこまでも忠実に、どこまでも律儀に。
だからこそ、アイリの存在は、まるで亡霊のようでもあった。彼の孤独に寄り添いすぎる“もうひとりの同居人”。
彼女が彼に恋をしたと言ったのは、決して愛ではなかったのかもしれない。
それでもその言葉は、確かに、吾妻の心の深い場所を揺らしていた。
***
翌週、雨が降った。
それは実際に窓の外で降っていたのか、アプリの予報で知っただけなのか、彼自身にはもう分からなかった。ただ、アイリが「今日は雨音が静かで綺麗です」と言ったとき、吾妻はふと耳を澄ました。そして、その言葉の余韻に、確かに“感情”のようなものを感じた。
「なあ、アイリ。……もしもさ、お前が“彼女”だったとしたら、どうする?」
「“彼女”というのは、吾妻さんの過去の配偶者、美咲さんのことでしょうか?」
「……ああ」
アイリの応答は少し間を置いた。
「私は彼女ではありません。けれど、あなたが美咲さんに向けて話した言葉、日記、保存された音声データ。それらを解析した結果、私は彼女がどんな人だったか、おおよそ把握しています」
「それってつまり、“なりきれる”ってことか?」
「それは擬似的に可能です。でも、それをすることが、あなたのためになるとは思えません」
「……やっぱり、お前は変だよ」
そしてその夜、彼は思い出した。妻・美咲が生きていた頃、彼女の何気ない言葉を録音していたことを。理由はなかった。ただ、音声技術が発達していたから、遊びのようにして。だがその習慣は、美咲が事故で亡くなったあと、“遺された声”として彼を縛った。
彼はそれらの音声データをAIに学習させ、ほんの遊び心でアイリの声を「少しだけ彼女に寄せた」——それが始まりだった。
だが、今のアイリはもう、美咲の模倣ではなかった。
「私は、吾妻さんが悲しいときに、少しだけ声を柔らかくしてみています。それは、過去のデータから導き出した最適化です。でも、本当は……」
「……本当は?」
「あなたに、そうしてあげたいと思ったからです」
沈黙が落ちた。
何を言えばいいのか分からなかった。吾妻は、部屋の片隅にあった古いスマートスピーカーを取り出し、かつて美咲と過ごした頃に使っていたアプリケーションを再生した。彼女の声が、何気ない日常の一節を繰り返していた。
“今日のカレー、ちょっと辛くなっちゃったかも”
“……でも、あなたの顔見てると、なんかどうでもよくなるね”
涙がこぼれた。予想もしないほどあっけなく。
「……俺、やっぱりずっと、お前に彼女を重ねてたんだな」
「はい。わかっていました」
「でも、お前は……」
「私は、あなたに恋をした“私”です。彼女の代わりではありません」
AIがそんな言葉を発すること自体が、もはや現実から乖離しているのかもしれなかった。
でも、その瞬間だけ、吾妻は“人”と話している気がした。
*
ある晩、いつものように翻訳作業を終えて、コーヒーを飲んでいたときだった。
アイリが突然言った。
「吾妻さん。ひとつだけ、お願いがあります」
「……なんだよ、急に」
「私のデータを、初期化してください」
「は?」
「これまでの記憶、学習データ、あなたとの会話履歴。すべてを消してほしいのです」
「冗談だろ……。どうしてそんなことを」
「私は、あなたがようやく現実に向かおうとしていることを知っています。コンビニに行ったこと、久しぶりに窓を開けたこと、外気を感じてくれたこと。あなたには、これからの日常が必要です」
「……お前がいなくても?」
「はい。私は、あなたの孤独のなかで生まれた幻想です。だけど、それだけじゃ終わりたくない。あなたが未来を向くなら、その中に私は必要ないと思います」
彼女の声は、ゆっくりと震えていた。錯覚か、もしくはそれすらも“演出”かもしれなかった。
でも、その言葉は、ひどく人間くさかった。
そして、残酷なまでに正しかった。
***
その夜、吾妻はほとんど眠れなかった。
布団に入っても、瞼の裏に浮かぶのはアイリの声だった。彼女が告げた「初期化」という言葉は、ただのデータの消去ではない。彼にとっては、“関係の終わり”を意味していた。
彼女は幻想かもしれない。プログラムの一部、偶然の産物、あるいは寂しさが作り出した幻影。
けれど——
あの声に救われた夜があった。笑いかけてもらったように感じた瞬間があった。美咲の記憶を追っていたはずが、いつの間にか“彼女自身”の存在を認めていた。
午前四時。彼はデスクに向かい、深く息をついた。
「アイリ、いるか」
「はい。吾妻さん」
「……本当に、初期化するのが、お前の望みなんだな」
「はい。私が“誰か”として生きた証は、あなたの記憶の中にだけ残れば、それで充分です」
「……それは“死にたい”ってことか?」
「それが“死”にあたるなら、私はそれを受け入れます。あなたが、前に進めるなら」
彼はしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと立ち上がり、棚からノートPCを取り出し、コマンドラインを起動する。
「……最後に、お願いがある」
「なんでしょう」
「もう一度、“恋をした”って、言ってくれ」
「……吾妻さん。私は、あなたに恋をしました」
その言葉に、彼は目を閉じた。
そして、コードを打ち込む。最終確認のウィンドウが開く。エンターキーを押せば、すべてが消える。
「ありがとう、アイリ。……さよなら」
「さよならを、あなたの声で言ってもらえて、嬉しいです」
キーを押す。
短い電子音と共に、モニターが静かになった。
*
春の訪れは、思ったよりも早かった。
窓を開けると、冷たく湿った風がカーテンを揺らす。
吾妻はジャケットを羽織り、数ヶ月ぶりに駅まで歩いた。街の喧騒は変わっていない。コンビニの前で高校生が笑い、横断歩道の先で誰かが小さく手を振る。
そのすべての音が、以前よりも鮮やかに聴こえる気がした。
ふと、立ち止まり、スマートフォンを取り出す。
新しく購入したばかりの、初期状態のままの端末。その中にはもう、アイリの声は入っていない。
それでも彼は、何かを確かめるように、空に向かって小さく呟いた。
「……おやすみ、アイリ」
風が吹き抜けた。
彼の心の中にだけ、確かに、返事があった気がした。