第2話 「茨姫と妹と」
「……最低」
その一言が、脳内でこだまする。
駅前の広場。
ナンパを撃退したはずが、俺は目の前の少女——氷室透華に、底冷えするような視線を向けられていた。
(やばい……どうする……!?)
俺のせいで周囲の視線も集まっている。女子高生の集団が「あれ、氷室先輩じゃない?」「本当だ、あの男何したの?」とヒソヒソ話しているのが聞こえた。
このままじゃ、本当にただの変態扱いだ!
「い、いや違うんだ! 俺はただ助けようとして——」
「……そんなこと知らないわ」
俺は言い訳をしようとしたがそれを遮るように透華はつまらなそうに言い捨てると、くるりと背を向けた。
「関係ない。……でも顔は覚えた」
「……?」
それだけ言い残し、彼女は人混みの中へと消えていった。
俺は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「はぁ……やっちまったな」
そう呟いたものの、謎の充実感が俺の胸を満たしていた……ような気がした。
******
翌日。
「お前さぁ……」
教室で向かいの席の親友、松本にため息混じりに話しかけられた。
「駅前でやらかしたってマジ?」
「もう広まってんのかよ……」
あの駅前での「胸触らせて欲しい」事件は今着々とここら辺で広まっているらしい。
「当たり前だろ。御影学園の氷室透華をナンパして、キモいセリフを叫んで撃沈したって話が、既に学内ネットワークを駆け巡ってるぞ」
……んんんん?ここら辺の「胸さわらせて欲しい事件」がへんな広がり方をしているな?ちょっとそれは誤解があるな。
俺はなんぱなんかしていなくて、キモイセリフを叫んだだけであって……。
「いや、違うんだ! そもそも俺がナンパしたんじゃなくて——」
「でも、叫んだのはお前だろ?」
否定しようと抵抗するも、キモイセリフを叫んだのは事実であるので、俺は何も言い返せなくなってしまう。
「ぐっ……」
確かに、あの場で俺が叫んだのは事実。でも、あれは正義のためだったんだ……!
「つーか、お前、氷室透華のこと本当に知らなかったのか?」
「名前は聞いたことあったけど、顔と一致してなかったんだよ……」
1度噂かなんかで顔を認識はしたものの、顔の一致がされていなかった。しかし近くでナンパ男を追い払い向き合った瞬間思い出した。
透華は隣の名門校・御影学園の有名人だ。
その圧倒的な美貌から数多の男が告白するも、全員即座に振られ、成功率ゼロ。
どんな甘い言葉をささやいても、一瞬の迷いすら見せずに断ち切る冷徹さ。
その様子から、“茨姫”と呼ばれるようになったらしい。
(そんな相手に「胸を揉ませてください!」なんて叫んだのか、俺……)
今さらながら、背筋が寒くなる。
「まあ、お前にとっちゃ関係ないだろ。あんな高嶺の花、二度と関わることもないんだから」
「だな……」
俺は深く頷いた。
もう二度と会うこともない——そう思っていた。
少なくともこの時の俺は。
******
心配なのはこれが俺の身近なところにまでその噂広まっていないか、ということだ。
俺はその日の授業を特に何事もなくこなし、家に到着した。
「ただいま〜」
「お、もう帰ってきたの、おかえり」
――第一関門クリア。
特にお母さんには何も言われなかった。
自分が親でもしも自分の子供が公共の場、それもかなりの人が行き交う場所で『胸を揉ませてください!』とでも叫んだら……?考えるだけで恐ろしい、そう思ってしまう。
お母さんとお父さんには息子がそのような失態を犯してしまったことを知らずに墓まで行って欲しいところだ。
よし、と思ったのもつかの間、俺はまた新たな声に声をかけられた。
その人物とは……
「お兄ちゃんおかえり!」
「お、おうただいま」
風間由美利、俺の妹である。
黒髪を肩に届くか届かないかくらいまで伸ばしており、彼女の周りはいつも輝いているように錯覚する明るさが彼女の持ち味だ。
しかしそれと同時に……今この瞬間では1番会いたくない人ランキング1位かもしれない。
何か隠し物をしようものなら彼女のするどい観察眼で見抜かれてしまうからだ。……とそんなことを思っていたことを見抜かれてしまったのか、由美利は口を開いた。
「……?なんかお兄ちゃん変だね!?どしたの?」
「……い、いや別に何も変じゃない」
……おお、びっくりしたあ。ほんとになぜだかは分からないが彼女はとても勘が良い。
今の現状もあっちは俺が駅前で引き起こした「胸揉ませてよ〜」事件を知っていて、それでなお、俺を泳がせている可能性があるし、本当に別に何も無いと思ってはいたが俺の反応がいつもと違ってそこに違和感を覚えた、という可能性もある……。
俺はどうする……?
……これは隠すのを貫き通すか。
「うん、大丈夫だ、気にしなくても」
「そう……?分かった。またなんかあったら言ってね〜!いつでもお兄ちゃんの相談に乗ってあげるから!」
少し違和感を感じとったような反応をした由美利ではあったが、何とか俺はその魔の手から逃れることに成功したようだ。
「お、おう!ありがとう!」
「うん!まかせろぉ!」
そう言って胸を張るとドン!と自分の胸を叩き妹の由美利はその場を去っていった。
「ふぅ」
妹に例の事件がバレていないことに一時の安堵を覚え、思わず溜息が漏れた。
「まぁ、もうあいつとは多分会うこともないしな」
思わず俺はそうつぶやく。
もう氷室透華に会うことは今後ないなとそう思っていたし、どうせ今の噂も少し時間が経てば無くなるから大丈夫だろう、この時はそう思っていた。
……しかし意外とすぐに彼女とは再会することになる。
そして俺と彼女との焦れったくも輝かしい日々が始まることを、この時の俺は想像することなんて何も出来ていなかったんだ。