追いかけっこは終わらない
玉枝 日佐人は絶望していた。
ひとえに、前に立つ熊のような教師が告げた、最低最悪の呪文「ふたり組作ってー!」のせいである。
「今日の授業では、二人一組のチームを組んで模擬戦を行う。各々の能力を制御する訓練の一環だ。体力が有り余ってる高校生諸君、ここで存分に運動して、いい子になれよ! 上位のチームには褒美もあるぞー」
「やった! 熊ちゃん、愛してる!」
「熊谷な。あと先生を付けてくれな。社会に出たら、マナーにうるさい面倒なやつらがいっぱいいるから」
のんびりとクラスメイトを嗜める熊谷先生の頭には、ぴこぴこと動く丸い獣耳が生えていた。
熊谷先生は、熊のような教師ではなく、熊獣人の教師なのだ。
見た目に個性があるのは熊谷先生に限ったことではない。周りを見渡せば、狼の尻尾が生えている男子や、ライオン顔の女子、はたまた天使の羽を背負った神々しいクラスメイトまで、多種多様な生徒たちが楽しそうにはしゃいでいる。
(なんで俺、ここにいるのかなあ……)
熊谷先生の、強面には似合わぬ可愛らしい熊耳から目を逸らしつつ、玉枝は遠い目で山を見つめた。
この世界には、獣人と呼ばれる種族がいる。
古くには妖や獣憑き、はたまた超能力者なんて呼ばれることもあったらしいが、現代において区別はない。優れた五感、異能、獣混じりの見た目――人間をはみ出たものすべてが『獣人』だ。獣人と認定された者はすべからく、人並外れた身体能力や、特殊な能力を制御するため、幼少期からの訓練を受けなければならない。
この巫椎木学園のような、獣人を集めた閉鎖環境での訓練を。
「ん? どうした、玉枝。ペアが見つからないのか?」
ぽつんと立ち尽くす玉枝を見つけて、熊谷先生が気遣わしげに声を掛けてきた。その優しさが痛かった。
「玉枝は、ええと……たぬき? の獣人だったかな」
「俺もよく分からないんですけど、そういうことになってますね」
「ううむ……」
玉枝の頭から足先までをざっと見て、困惑したように熊谷先生は耳をぴくつかせる。
「見た目では分からないタイプなんだな」
「まあ、はい」
見た目も何も、玉枝は己が獣人だという事実さえ、半年前に初めて知った。両親は普通の人間だし、親戚にだってひとりも獣人はいない。いわゆる突然変異というやつだ。
玉枝は人より少しだけ手先が器用だった。早着替えも得意だし、簡単なマジックで場を湧かせたこともある。
けれど、それだけだ。
獣人の学園への招待状が届いたときはなんの冗談かと思ったし、入学後の面談で「騙しがうまいので、おそらくたぬきあたりの獣人でしょう」と適当にもほどがある評価を下されたときには、笑うことしかできなかった。
結果、入学して三か月経つというのに、ご覧のとおりの浮きっぷりである。
「困ったな。ほかにペアのいない生徒は……、ああ、夜刀!」
ぐるりと生徒たちを見渡した熊谷先生は、ひとりの男子生徒を見つけて破顔した。ぼっちの生徒を扱いかねた熊谷先生にとっても救いだっただろうが、玉枝にとっても、夜刀と呼ばれた生徒は救世主だった。
「あ……! や、夜刀くん、よろしく」
へらへらと笑いながら、玉枝はそそそ、と夜刀の隣に近づいていく。
「また一緒になったね」
声を掛ければ、今気づいたとばかりにのんびりと夜刀が顔を上げた。
さらさらの黒髪に、いかにも育ちの良さそうな、肌艶の良い整った顔。開けば切れ長だろう目は、しかし常に眠そうに細められている。……というより、授業中、いつも寝ているところしか見かけない。
イケメンというより変わりものという方がしっくりくる夜刀もまた、玉枝と同じく高等部からの入学生だった。美形とはいえ見た目は人間だし、能力を聞いても「俺のまわりにはよく雨が降る」と謎のことしか言わない、自称雨男のぼっち仲間だ。
そんな夜刀は、ゆっくりとまばたきをしたあとで、ぼんやりと口を開いた。
「玉枝はいつも最後まで余ってる。相変わらず、ひとり行動が好きなんだね」
「いや別に好きなわけじゃないんだけどね、あはは……」
うるせえよ、と思いながら、玉枝は頬を引きつらせた。余りものどうしで組むことが多いせいで顔馴染みにはなっているが、夜刀とは友だちでもなんでもない。むしろ、浮世離れした空気とイケメン顔が鼻につくので、近づきたくないというのが正直なところだ。しかし、こういう悪魔の宣告を受けてハブられたとき、玉枝にとって夜刀が最後の砦であるのも事実だった。
「頑張ろうね、夜刀くん。何するのか知らないけど」
「俺と一緒にのんびりしてたらいいよ」
「ダメでしょ。……ていうか、なんか、いきなり曇ってきてない?」
「俺のせいかな」
「雨男だもんね」
ほのぼのと話をしているうちに、「それでははじめ!」と威勢の良い掛け声が響いた。しまった何も説明を聞いていなかったと気づいたときには時遅く、クラスメイトたちはわらわらと訓練場に散っていく。
後に残されたふたりは、ぽつんと訓練場の中央に立ちながら、顔を見合わせた。
「…………それで、俺たちは、何をすればいいの?」
気だるげに夜刀が尋ねる。慌てて、玉枝は授業前に配られた資料を確かめた。
「えっと……、追いかけっこっていうか、デスゲーム? みたいなものだって。範囲は訓練場、制限時間は授業時間いっぱい。制服に泥がついたらアウトで、生き延びた時間が長いチームほど得点が高くなって――うわっ!」
資料を読み上げていたそのとき、不意に玉枝の足元が危うくなる。慌てて下を見れば、巨大な蟻地獄の巣がそこにあった。沈み込む砂が、玉枝の足をずぶずぶと飲み込んでいく。
「うわっ、くそ! 転ぶ! 転ぶって!」
「変わった穴だね。玉枝が作ったの?」
「そんなわけないだろ! いいから助けてよ、夜刀くん!」
「あれ、違うんだ。ふうん。……この学校は、たまに変なものがあるよね。面白いなあ」
「自然のものじゃないよ! 能力!」
のん気に感心している夜刀の腕を取っ手がわりに掴みつつ、なんとか足を引っ張り出した玉枝は、ばっと後ろを振り返る。
「ほら、あいつだよ、あいつ! 蟻地獄の有馬!」
「誰が蟻地獄だ! 俺は砂使いだって言ってるだろ!」
間髪入れずに言い返してきたのは、クラスメイトの有馬だった。取り巻きに囲まれて地団駄を踏む有馬は、入学した日からしつこく玉枝に絡んでくる内部生だ。明るい茶髪に、いかにも攻撃的な人相をしているが、額から生えた二本の触角がなんともいえない愛嬌を醸し出している。平々凡々を地で行く玉枝からしてみれば、この学園の生徒は皆個性的で羨ましい限りだ。
玉枝に指を突きつけて、有馬は勝ち誇ったように声を張る。
「ひれ伏せ、玉枝! いつもいつも逃げやがって! 今日こそ、この砂使いの俺様のすごさを認めさせてやる!」
「砂使い砂使いって、しょぼい穴ぼこしか作れないくせに何言ってるんだよ。有馬のせいで、俺のズボン、いつもじゃりじゃりだよ」
「なんだと、この野郎」
うんざりしながら言い返せば、有馬は顔を赤くしながら殴りかかってきた。乱暴者はこれだから嫌なのだ。
顔を引きつらせながら夜刀を引き寄せた玉枝は、ポケットから爆竹を取り出して足元に叩きつける。ぼふりと砂が舞い上がり、慌てたような声が上がる。
「玉枝! 道具は卑怯だろ、この不良!」
「だって俺、皆みたいに特別な能力なんてないもん」
「なんてやつ! くそ、目が!」
涙を流しながら喚く有馬を尻目に、玉枝は夜刀の手首を掴んで走り出す。
「行こう、夜刀くん」
「……うん」
心なしか嬉しそうに唇の端を上げて、夜刀は玉枝と並んで走る。手を離そうとした瞬間、見計らったかのようなタイミングで、夜刀は玉枝の手を逆に掴んできた。
なぜだ。
「え、あの」
「なに?」
「……いや、なんでもないよ」
「ん。頑張ろうね、玉枝」
なぜ手を繋いで走らないといけないのかとは思ったが、こうぽやぽやと返事をされるとどうでも良くなってくる。
全力で走っているというのに、夜刀の手の平はひんやりと乾いていた。その感触がなんだか気持ちがよくて、玉枝はついつい、手に力を込めてしまう。
その瞬間、舞い上がるような風が吹いたかと思えば、あたたかい小雨がぽつぽつと降り出した。今日の空模様はどうにも忙しい。
「なぁにお手手繋いで仲良く逃げてんだよ! 待てコラ玉枝ぁ!」
背後から有馬のがなり声が聞こえてくる。しばし追いかけっこをするように走り回っていたものの、埒があかないと気づいたのか、有馬は取り巻きに何事か指示を出したようだった。
何をする気かと振り向いた瞬間、何かに足を取られて、玉枝の視界はがくりと沈んだ。
「う、わっ!」
突然だったものだから、夜刀の手を離す気遣いもできなかった。足を取られた拍子に、玉枝は夜刀を道連れに転びかける。
「ごめっ」
「玉枝!」
咄嗟に玉枝を支えようとしたのか、夜刀は身を乗り出した。しかし、玉枝に触れる直前で、夜刀は眉をひそめて身をのけぞらせる。
ごおっととんでもない音がして、風の塊が玉枝の目の前を通り過ぎていった。
「……え?」
切れた前髪がはらはらと落ちていく。後ろを見れば、おそらくはそのカマイタチらしきものを出したであろう有馬の取り巻きが、なぜか自分でびっくりしたように固まっていた。
「せっかく、玉枝と遊んでたのに……」
悲しげな声が上から降ってくる。先ほどから曇っていた空は、気づけばにわか雨の直前のように真っ黒になっていた。ごろごろと唸り出す空を背負って、夜刀が悲しげに目を伏せている。
「え、あ……! 夜刀くん、ほっぺ! 血!」
「血? ああ……」
ぱっくりと裂けた頬を指先で拭って、夜刀は不機嫌そうに唇を尖らせた。慌てて駆け寄りながら、玉枝は責めるように有馬たちを睨みつける。
「何やってるんだよ! 人に向ける威力くらい、考えろ、この馬鹿!」
「いや、こんなつもりじゃなかったし!」
「つもりじゃなかったじゃ済まないよ。夜刀くんに謝れ!」
義憤に駆られて有馬たちに詰め寄ろうとしたところで、夜刀が玉枝の肩をそっと掴んで引き留めた。
「玉枝」
「あ、ごめん、夜刀くん。痛いよな? 早く保健室に――」
「ねえ、いつまで忘れたふりを続けるの?」
薄く微笑み、首を傾げる夜刀の顔は、艶やかで美しい。常であれば、イケメンは困った顔まで美しいのだなあと感嘆するところであるが、今の玉枝にそんな余裕はなかった。そもそも感嘆どころかまともに言葉を発することもできない。
「むー! ん!」
口の中に、夜刀の指が突っ込まれているからだ。
喉奥まで指を突っ込まれているせいで、苦しさに涙が湧いてきた。夜刀の指先からじわりと鉄臭い味が広がって、えずきそうになる。夜刀の腕を抑えても、夜刀は指を引こうとしない。それどころか、逃がさないとばかりに玉枝の後頭部を抑えてきた。
「や、ふぉう、ふん」
「俺の前で、俺じゃないやつにばっかり構ってさ。……趣味が悪いよ。気分が悪い。本当に忘れちゃった? 俺、夜刀なんて名前じゃないよ。たしかに体が変わるたびに見た目の名前は変わるけど、『俺』の名前はずっと同じなのに」
何を言っているのだ。
名簿も席札も見たことがあるが、両方たしかに夜刀と書かれていたはずだ。前々から変わり者だとは思っていたけれど、宇宙と交信しているタイプのやばいやつだったのか。
頬を引きつらせるが、夜刀は冷たく微笑んで、何かを待つように玉枝の目の奥をじっと覗き込むばかりだった。
答えずにいると、苛立ったように夜刀が目を細めた。
ゆらりと夜刀の周りの空気が歪む。こめかみのあたりから、枝分かれしたツノが生えていた。つるりと美しく光るそれは、玉枝の知るどの生き物のものにも似ていない。
夜刀の黒い瞳が、藍色に。そして藍から水色に。鮮やかに色を変えていく。まんまるの瞳孔が縦に伸び、トカゲのような縦長の瞳孔に変わった。人ならざるものの瞳でぎょろりと見据えられた瞬間、玉枝は本能的な恐怖に体を強張らせる。
「ねえ、どうして名前を呼んでくれないの。いつもの遊びかなって我慢してたけど、いい加減飽きてきたよ。あなたの遊びの趣味が悪いのはずっと前から知ってるけど、俺、これは嫌だな」
猛獣の前に立っているかのような威圧感に、がくがくと膝が笑いだす。
――この男は何の獣人だ?
黒い空が光り、ごく近くで稲妻が落ちる。
天候を操るほどの強い種族。
――そうだ、龍だ!
そう思った瞬間、ごくりと勝手に喉が動いていた。唾液と一緒に夜刀の血を飲み込んだ瞬間、玉枝の口の中に広がる血の味が一気に変わる。
鉄くさいだけだったそれが、甘露のように芳しく感じられた。まるで、乾きに乾いたところにようやく水を与えられたかのようだ。
(ああそうだ。転生するのに妖気も何もすっからかんにしてしまったから)
自分が何を考えているのかも分からないまま、玉枝は夢中になって血を啜る。口内に差し込まれた指に舌を這わせて、甘えるように夜刀の目を見上げながら、玉枝は与えられた甘露を堪能した。
ぴくりと夜刀が片眉を上げる。それと同時に、背後からうめき声が聞こえてきた。目だけで振り向くと、有馬たちが恐怖に我を失ったかのように、息を荒げてこちらを凝視していた。ぐるぐると唸る彼らは、さながら追い詰められた動物のように、玉枝たちに襲いかかってくる。
「や、夜刀……!」
ぐいと夜刀の体を押しのけようとすると、その瞬間、ひどく悲しげに夜刀は顔を歪めた。
「本当に……忘れちゃったの?」
美しい顔が悲痛に歪む様子に心が痛む。そのはずなのに、その顔を見られたことが、愉しくてたまらなかった。
「ねえ、九尾」
夜刀がそう囁いた瞬間、体中が疼いた。体の奥からぶわりと全能感が広がって、尻のあたりから、もふもふとしたボリュームのある何かが、いくつも生えては広がっていく感触がする。
頭の奥が恍惚と痺れていた。
目を見開いた有馬たちが、そのままぐるりと白目を剥いて倒れていく。横目でそれを見ながらも、玉枝の視線は目の前の美しい龍に据えられたまま、動かなかった。
映画の中の出来事を見ているかのように、すべての感覚がぼやけて遠い。それなのに、ぞくぞくと心を満たす嗜虐心だけは鮮烈だった。
衝動に争わず、九尾の狐は艶やかに微笑んだ。何千年と輪廻を繰り返しながらも睦み合ってきた愛しい龍を見つめて、九尾の狐はそっと手を伸ばす。
「悲しいか。傷ついたか。お前は寂しがりだものなあ? 何年探した? 見つけた俺が、お前のことなんてすっかり忘れて生きてるって知ったとき、どんな気持ちだった?」
傷つけると知った上で、わざと意地悪く言葉を紡ぐ。優しく生真面目な龍をからかって傷つけて遊ぶのが、九尾の狐は大好きなのだ。かわいいからこそいじめたくなる。
うるりと夜刀の瞳が潤むのを見て、九尾の狐は喜びも顕にそれをせせら笑う。
「ああ、最高だ! お前のそういう顔が、俺は大好きなんだ。久しぶりに見るとたまらない。前の世では逃げ切ったから、百年ぶりくらいかな?」
「違う。百二十と四年ぶり。あと、逃げ切ったんじゃなくて、隠れてたから見逃しただけ。二つ前の世で戦ったとき、ひどく傷つけてしまったから」
「へえ?」
かちんと来た。理由は忘れたが、百年前に大喧嘩をしたのは本当だ。夜刀と殺し合いをして盛大に負けたのも事実ではある。かといって、弱者扱いをされるのは癪に障った。相手は神に等しい龍とはいえ、九尾の狐とて何千年と生きてきた大妖怪だ。下に見られるのは我慢ならない。
「言うじゃないか。追い払っても追い払っても寄ってくるストーカー野郎のくせに」
わざと棘のある言葉を選んだが、今度は夜刀は取り合わなかった。代わりに愛おしそうに目を細めて、九尾の狐に手を伸ばしてくる。
「ずっと、ずっと会いたかった。九尾」
「そりゃどうも」
「あなたは、いつもそうだね」
夜刀は恭しく九尾の狐の手を取った。かと思えば、するりとその手を撫でながら、暗い声で呟く。
「――俺のことなんておもちゃだとしか思ってない」
「人聞きの悪い。ちゃあんと愛しているとも」
「……どうだろう。俺はあなたのことなら、誰より知っている自信がある。あなたと愛は、対極にある言葉だと思うな」
潤んでいたはずの夜刀の瞳は、先ほどとは打って変わってぎらぎらと暗く燃えていた。どうやら嘘泣きだったらしい。昔は実直なだけの龍だったのに、歳を重ねてずいぶん賢しい知恵をつけてきたものだ。
にい、と唇を歪めて、九尾の狐は夜刀の顎に手を掛けた。
「物欲しげな顔。高潔な龍が、ずいぶんと俗世に染まったものだ。……何が欲しい? 言ってみろ。頑張った褒美くらい、やってもいいぞ」
「名前を呼んで、九尾」
「名前ぇ? 夜刀くんって呼んでやっただろ」
「違う」
ぎりぎりと骨が軋むほど強く腕を掴まれた。ともすればそのまま骨を折られかねない容赦のなさに、背筋に冷たい汗が滲んでくる。夜刀をからかうのは楽しいが、からかいすぎると痛い目を見るのはこちらなのだ。
ひらりと尻尾を揺らして、九尾の狐は体を煙に化けさせる。夜刀の手からすり抜けて、九尾の狐は意地悪く背を向けた。
「俺の本当の名前。忘れてしまったの?」
「覚えてるよ。でも、呼んでやらない」
「どうして」
「お前、俺の真名を知ってるだろ。でもって、お前は俺より強いらしいじゃないか?」
先ほどの言葉を根に持ちながら、九尾の狐は夜刀に流し目を向けた。
「そんな相手と真名を交わすなんて、魂を繋ぐようなものだ。おお怖い! そんなことをして、俺をどうするつもりだ?」
「繋ぐだけ。何度生まれ変わっても、あなたにまた会いたいから」
夜刀の澄んだ眼差しは、ごく純粋に狐を慕っているように見える。
けれど九尾の狐は知っていた。この世に龍の執着ほど恐ろしいものはないのだ。
肩をすくめて、狐は笑う。
「こうしてまた会ったろう。同じ学園にいる。しかも今世は同い年だ。十分だろ? 俺はお前が大好きだよ。一緒に歳を重ねて、一緒に遊ぼう。な?」
「足りない」
ぼそりと呟かれた言葉に、狐は身震いする。
「……何が足りないって?」
「俺がいるなら、ほかはいらないでしょう」
夜刀はにこりと微笑んだ。その顔は嫌いだ。夜刀の過ぎる執着は、自由を愛する九尾の狐にとっては毒にしかならない。再度煙になって、伸ばされる手をかわそうとしたけれど、夜刀は九尾の狐の術をやすやすと破って、強く腕を掴んでくる。
「人の世の生き方は難しいから、地上ではあなたには敵わないね。でも、天に連れて行けば、いくら九尾でも逃げられない。……そもそもこうして何度も生まれ直すこと自体、煩わしいと思っていたんだ。あなたと過ごせる時間が減る」
「待て待て待て」
すっかり龍人の片鱗をさらけ出して囲ってこようとする夜刀を、九尾の狐は笑顔で押しのけた。
――思い出した。前回もこれで殺し合いになったんだ。
前回は命からがら死に逃げしたが、あんな無様な逃げ方は何度もしたくない。人差し指をぴんと立て、九尾の狐は夜刀に「こういうのはどうだ」と提案する。
「勝負をしようじゃないか」
「勝負?」
「お前、俺が欲しいんだろう」
「うん」
「なら、捕まえてみろ。簡単だろ?」
「どういうこと? ……っ!」
夜刀を見つめたまま、九尾の狐は指を鳴らした。あたりに立ち込めた白煙が、夜刀と九尾の狐を遮るように広がっていく。直球勝負では分が悪くとも、搦め手ならば負ける気がしない。
「油断したな、夜刀くん! 何も覚えてない俺を捕まえられるものなら、捕まえてみるんだな」
「待って、九尾!」
「やなこった」
煙に飛び込むように、狐はふわりと身を宙へと投げ出した。
なまじ子ども時代を知っているから情が湧く。愛し合った記憶があるから心を囚われかけるのだ。鳥になっても女になっても虫になっても爺になっても延々追いかけまわされて、九尾の狐もなんという相手に好かれてしまったのかといい加減そら恐ろしくなっていた。
何が恐ろしいって、請われるままに情に絆され、夜刀の束縛をうっかり受け入れてしまいそうな己が怖い。
九尾の狐は自由が好きだ。自由でなければ、それはもう自分ではないとすら思う。
「負かしてみろよ、俺のかわいい龍」
うたうように囁いて、九尾の狐は目を閉じた。記憶と力を、自らの奥深くにしまい込み、自分でさえ手が届かないようにかたく蓋をする。
何を言って、何をそんなにも高揚していたのかも忘れ去り――……やがて、玉枝はぱちりと目を開いた。
「……あれ?」
玉枝は地面に横たわっていた。隣を見れば、折り重なって倒れている有馬たちと、呆然と膝をついた夜刀が目に入る。
一体何事かと首を傾げて考える。
有馬に追いかけ回されていたところまでは覚えているが、何がどうしてこんなところで倒れているのかさっぱり分からない。転んで頭でも打ったのだろうか。髪を手ぐしで整えながら立ち上がり、玉枝はへらりと夜刀に微笑みかける。
「ごめん! 俺、転んだ? 心配かけてごめんね、夜刀くん」
「……ううん。大丈夫、だよ」
夜刀は気落ちした様子で目を伏せる。何やら落ち込んでいるらしい。イケメンはしょんぼり顔もきまるのが羨ましい。
降り注ぐ雨が、勢いをどんどんと増していく。俯いた夜刀の頬に水滴がとどめなく伝う様は、まるで泣いているかのようではないか。というより、本気で泣いているかもしれない。どうしたというのだろう。
かける言葉に困って空を見上げる。すっかり天気は雨模様で、真っ黒な空からは、バケツをひっくり返したかのような雨が降り注いでいた。
「夜刀くんの雨男パワー、なかなかだね」
にへりと笑いかけると、夜刀は何かを考えるように目を伏せた。ややあって、儚げな笑みを浮かべて「そうだね」と一言口にする。
「そういえばさ、夜刀くんはなんの獣人なの?」
「内緒」
「ケチだなあ。ヒントは?」
「諦めが悪い種族だよ」
「なにそれ」
けらけら笑うと、こちらを見つめる夜刀とぱちりと目が合った。いつも通りの眠たげな眼差しなのに、瞳の奥には、ぞくりとするような激しい感情が燃えている。
「俺、勝つから」
「お、おう。燃えてるね」
「絶対、勝つからね」
「なんだか知らないけど、分かったよ。でも、授業なんだし、気楽に行こうよ。夜刀くん」
玉枝は宥めるように夜刀の背を叩いた。
豪雨の中で、獣の尾を形どった空気がゆらりと蠢く。
追いかけっこは、終わらない。