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section 7 遠くの恋人

 9月3日、大きな荷物を抱えた由紀のバッグをひったくった蒼真は、

「しばらく東京を離れるんだろ、東京タワーに行こう。まず何か食べよう」

 八重洲口からタクシーで芝増上寺前で降り、イタリアンレストランに入った。

「由紀ちゃん、おめでとう! 頑張れ、泣いちゃダメだ。さあ、何か食べたいものはあるか? 何でもご馳走する」

 泣きべそ顔の由紀の額をコツンした。あたりは昼間の喧騒が徐々に消え去って、ワインで頬を染めた由紀はじっと蒼真を見つめた。

「どの大学に行くのか話してくれるか、そしてどこに住むのか、安全な所なのか? 質問ばかりで悪いが心配なんだ」

「留学先は英国王立音楽院(Royal Academy of Music)です。ロンドンの中心地にあって留学生が多い大学らしいです。学生数は芸大より少なくて800人かな。住むのは留学生専用の女子寮で、家具やピアノもあるそうです。父は、ヤセ我慢しないで無理だと思ったらすぐ戻って来い、大学だってやめてもいいんだと言ってます。頑張れるかどうかわかりませんが、小さい頃にいつも死にたいと泣いてたことに比べたら、まだ幸せです」

 その言葉を聞く蒼真は泣きたくなった。


 東京タワーの展望台に上り、光のウェーブに見える高速道路やビルのイルミをぼんやり眺めたが、ふたりに言葉はなかった。大きな柱の陰で蒼真は由紀を抱きしめて離さず、小さくキスして溢れた涙をごまかした。

「君が好きだ、本当だ。こんなに好きだと自分も知らなかった。ロンドンなんて行かせたくない、でもそれは僕のワガママだ。君が飛躍する邪魔はしたくない、だから元気で帰って来い、それが僕の願いだ!」

 国立駅で降りて由紀を部屋の前まで送った。

「君が選んだ道だ、応援するがはっきり言うと僕は寂しい。自分一人で考え込んで悩む前に、メールくれよ。そして話してくれないか。役に立たないかも知れないが、話せばラクになることだってあるよ。青葉小のチビが目の前にいるなんてすごく嬉しい、神様のイタズラかと思った。そうだ、向こうに着いて気が向いたらエアメールくれないか? ペンフレンドだ。今度会うときは絶対に恋人だぞ! ほら、涙を拭いて行って来い」

 蒼真は由紀を抱きしめて、頭を撫でた。

「頑張りすぎるな! いつでも戻って来い。僕は待ってる」

 蒼真は踵を返して振り向かずに立ち去った。廊下の暗がりで吉田は一部始終を聞いていた。


 ほどなくして蒼真は恵子と別れた。あの子が頑張ってるのに、性欲だけで好きでもない女をダラダラ抱く自分が恥ずかしくなった。「若い恋人が出来たの? 遊びなんだからいいじゃないの」としつこい恵子に、「気が変わった、俺は決めたんだ」と告げた。


 由紀から時々メールが届いたが、本当に大丈夫だろうか、毎日泣いてないか? 不安でどうしようもない蒼真は、由紀がいない部屋の前に立ちすくむことが幾度もあった。そんなある日、エアメールが届いた。

「蒼真さん、心配してくれてありがとう! やっと1カ月経ちました。この1カ月は地獄でした。今までと違うピアノを習っている私がいました。そんな毎日が続いたけど、少し元気になりました。ちょっとだけわかりました。勝手気ままに弾いてたけど、基礎がまったくなかったと知りました。

 今はたまに外へ出かけます。いろんな国からの留学生と友だちになりました。10月のロンドンは東京より5度は寒いけど最高です! 蒼真さん、会いたいです」

 手紙には写真が添えられて、バッキンガム宮殿に隣接するガーデン・カフェで友だちに囲まれた由紀がいた。手紙を読んで少しは安心したが、蒼真の寂しさはより深くなった。


 蒼真はまた由紀の部屋の前に来た。

「東月さんはまた来たの。石原さんはロンドンよ、ここにはいないのよ、知ってるでしょ。しっかりしなさいよ!」

 蒼真が握り締めているエアメールに気づいた吉田は、

「ちょっと話があるから入りなさい」


 吉田は茶を出して、蒼真を座らせた。

「石原さんがなぜ留学できたか知ってる?」

「コンクールで1位になったことしか知りません」

「彼女は心で弾くの。例えば、ドビュッシーの曲が彼女の手にかかると、違うドビュッシーになってしまう。つまりね、繊細な感性で感じ取り、それをハートで昇華してからピアノに向かう。だから聴衆や審査員の心に届いて1位になれたのよ。私はその感性がないから音大の教師になったの。テクニックだけなら、私が上よ。だけど、彼女の感性にはかなわない。音大の教師に必要なのは、譜面どおりに上手に弾くテクニックとゴマカシよ。

 私も心配してるの。石原さんはロンドンで悩んでると思う、自分のテクニックに絶望しているかも知れない。東月くん、部屋の前でグズグズ、メソメソしているヒマがあったらロンドンに行きなさい! 会って励まして支えなさい。そしたら恋人になれるわよ、そうでしょ」

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