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section 21 開花する夏

 風呂を使って客間に戻ると、何やら布が乱雑に散らばっていた。あれっ、布団がない、どこで寝ればいいんだろう? 由紀が立ち尽くしていると、

「散らかして悪いわね。由紀ちゃんの浴衣を縫ってる最中なの、だから蒼真の部屋で寝てくれるかな。蒼真には床で寝なさいと言っておいたわ」

 はあ?

 部屋に入ると蒼真は床に転がっていた。起こさないように静かにベッドに滑り込み、眠ろうとした矢先、蒼真がそろりと起き上がって口を塞いだ。

「声を出すな、母さんのイキな計らいだ。カンが鋭い母さんには僕たちの仲はバレてたんだ」

 由紀が薄紅色に燃えるまでキスして重なり、幾度もゴールを決めた。重なり合って同じ夢を見る俺は幸せだと、蒼真は思った。


 翌朝、恥ずかしくて両親の顔をまともに見られない由紀に母は、

「よく眠れた? ご飯食べたら出発よ。あそこは安心できる場所だから私も楽なのよ、デパートで遊んでくるから、たっぷり練習してね」

 待っていた店長は満面の微笑みを浮かべて案内した。しばらくショパンのエチュードを練習していた由紀が、

「あの~ ベートーヴェンのピアノソナタ23番“熱情”の譜面はありますか? もしあったら買わせてくださいませんか、いつか挑戦したいと思ってました。“熱情”の3楽章はこのピアノでしか弾けません、挑戦させてください!」

 すぐ譜面を持って来た店長が背後から覗くと、由紀はリズムを確かめながら10分ほど譜面を睨んで、弾き始めた。気持ちが安らぐソナタが連続する曲だが、優雅さと力強さを要求される曲だ。特に第3楽章は狂気としか表現できない超高速回転フレーズが連続し、スピードを維持しながら乱れない完璧なリズムが必要だ。弾き終わった由紀がふーっと肩で息を継ぐと、聴衆の拍手はショールーム全体を揺るがすほどだった。


 昼近くに蒼真が迎えに行くと、ショールームの入口には『ライブ演奏中!! 東京芸術大学ピアノ科3年生 石原由紀さんの練習演奏中!! どうぞご自由に店内でお聴きください』と大きく書かれた紙が貼り出されていた。あーっ、商売している! 抜け目がない店長だと思ったが、そうか、世の中はそういうものか、勉強させてもらった気がした。

 店内では子供たちの歌声に合わせて“アンパンマンのマーチ”や妖怪ウォッチの“ギンギラ銀河”、年配客のリクエストだろうか北島三郎の“与作”などを弾き、最後は“上を向いて歩こう”を全員で合唱した。クラッシックとは違うコミュニケーションに聴衆もノリノリだった。俺は初めてピアノの“与作”を聴いたが、原曲よりだいぶ上品だなと思った。


 由紀のピアノは評判になり、2日後に地元のサンテレビが取材に訪れて、由紀の練習風景と聴衆との触れ合いをカメラに収めた。それを知った親父は「テレビが来たって? ヤマハのすごい宣伝効果になるだろう。由紀ちゃんはヤマハから演奏料をもらいなさい」と笑った。

「いいえ、お父さま、あんなすごいピアノを弾けることが最高の幸せなんです。あのピアノはいくらかご存知ですか?」

「そうだな、まあ500万か? 800万か?」

「大量生産ではありません。職人さんの手造り箇所がたくさんあります。さあ、おいくらでしょうか?」

「うーん、1千万だ!」

「プライスカードは付いてませんが、あのピアノは2千万以上するそうです。少し前までは芦屋のお金持ちの方が買ったそうですが、今はお子さんをタレントにしたい親が多くて、50万円程度の練習ピアノはそこそこ売れても、本物のピアノはあまり売れないそうです。

 店長さんは弾きたい学生がいると知って、長い間沈黙していたあのピアノを調律してくれました。店長さんは絶対音感を持った調律師さんなんですよ」


 蒼真の父は思った。ピアノにさして興味がなかった俺さえこの子と話していると、なぜか魅きつけられる。それは俺が知らない世界をこの子が持っているからだろう。この子はどうやら蒼真に抱かれて女になったようだ。男は女を抱いてもほとんど変わらないが、女は違う。世間と蒼真を知って、1年前とは別人のように華やかになった。花を摘むのは容易いが、そのうち蒼真から翔び立つのか? 父はなぜか不安に思ったとき、母がバタバタと駆け込んで来た。

「今ね、電話があって、10時の“街角ニュース”で、由紀ちゃんの演奏が映るんだって。蒼真、録画してよね!」

 母は興奮していた。


 由紀はあのピアノが余程気に入ったのか、東京へ戻ろうと言っても、「あと1日だけ許して」とねだって俺の胸に飛び込む。俺とピアノとどっちが大事なんだと腹を立てて強引に重なると、涙を溜めた眼で見つめる。この抵抗に俺は負けっぱなしだ。ついズルズルと1日が3日になった。俺はラスト練習日の昼に迎えに行ったが、店長から大量の譜面を持たされた。店長と大勢の聴衆にいつまでも頭を下げて、由紀は店を後にした。

 こんな古い物が大事なのか? 不機嫌な俺に、

「なかなか手に入らない貴重な物なんです。ピアノのソロ譜で原典版です。古いのでシミや汚れがあって売り物にならないそうで、いただきました。私の宝物です」

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