私の周りの世界-俺
俺はこの婆さんが好きだ。勝手な偏見で、人間なんてろくな奴がいないと思っていたが、そういう訳でもないらしい。俺は、なんてことの無い住宅街の路地裏で生まれた。そして、物心着く前には、周りのやつなんて居なくなってて、気づいた頃には保護猫として、保護され、狭い檻の隅で、身を縮こめて、密かに生活していた。あー、一生この変わらない景色のなかで、緩やかに生き長らえるんだなと思うと、なんだか惨めになった。死にたいとすら思った。野良で生活している奴らが、壮絶な世界を生きていることはわかっているけれど、野良生活が少なかった俺には、檻の外の世界を自分の足で歩いている事が、どうしようもなく羨ましい。でも、そんな思いとは裏腹に俺はこの檻を越えられる策を持ってはいなかった。だからこそ、こうやって惨めに暮らしていくんだろうなっておもってた。そんな日々が続いたある日、1人婆さんがふらっとやってきた。うちは猫を保護しているということで、俺の他にも数匹猫がいた。みんな年はそこまでいっていないと思うが、実際にはよく分からない。なんてったって、俺が1番の新入りだからだ。来た時にはこの環境だったため、もう前からいるやつらについては、それ以上の知識を持ちえていないし、正直興味もない。ただ1匹、長老っぽい貫禄を持った黒猫だけ、他の奴らとオーラが違いすぎて少し気になった。その程度。
「猫を飼ってみようと思うんだが、」そう婆さんは言った。俺たちの世話をしてくれている人がそれに対して、「おばあちゃん、今までに何か動物の世話をした経験はあるのかい?」と聞いている。何やら、軽々しく命の重さを受け取れる器があると言って欲しくないと言いたげだった。すると婆さんは言った、「一緒に暮らす相棒が、亡くなった。だから、その相棒の分世話をするし、世話をしてもらいたい」。そっと語った婆さんのその言葉には、これから新しい命を引き受ける覚悟というよりは、うっすら寂しさのようなものが乗っかっている気がした。その瞬間俺は「にゃー」と声を出していた。よくわからないが、何か、吸い込まれるようなものを感じた気がしたのだ。すると婆さんは俺の方を向いて、俺の目の皿に奥を見るように「おやあんた、いい目をしてるね」そういった。そして「決めた、この子を、私は育てるよ」そう言い切った婆さんの言葉に、反論の余地はなかった。黒猫が「なー」と少し太い声で鳴いていた。
「ほら、ここがあんたの新しいうちだよ」 パッと、カゴの扉が開いた。自分の視界から、縦に連なる壁がなくなったのはいつぶりだろうか。自分の視界をモザイクのように害していた、縦の線はもういない。ふにっと、一歩前足を前に出す。ここが俺のうち。広々として、どこまでも続くかのように思われる廊下、そして、畳の部屋に、どこか落ち着く匂いが漂っていた。俺は恐る恐る、家を見渡して、探索していくことにした。ふにふにと足を前後させ、木目調のフローリングを進んでいく。廊下は庭に面しており、日の入りがとても気持ちよく、さらに外をパッと見渡せるため気に入った。畳の部屋は、イマイチだった。ふにっではなく、とすとすとなんだか沈んでいく感じが気持ち悪かった。試しに寝転がってみると、それは割と良かったが、やはり、廊下に比べたら劣るな。そう決め込んで、そそくさと畳の部屋を後にした。畳の部屋の隣は玄関と少しのスペースになっており、そこを挟んでリビングルームがあった。ちょっと古臭い、濃いめの茶色をした木目調のフローリングであったが、色は廊下のやつよりも濃いだろうか。そんなことを考えていると、掘り炬燵から婆さんが俺を呼んだ。「みけやーい、こっちへいらっしゃい」。みけ、一瞬誰のことかよくわからなかったが、多分俺のことだろう。頭のいい俺はそう理解し、飯といい家を提供してくれる主人の機嫌を損ねぬよう、本日の探検はここで終了にした。と言っても、後から気づいたのだが、この家には二階はなく、いわゆる平屋という建物で、そんなに広さもなかったため、探検しようがなかった。
そうして、俺と婆さんの生活が始まったのだが、俺は人間を舐めていたので、婆さんのことは便利なやつ程度にしか思っていなかった。しかし、俺にとって、飯と安全な寝床をくれる奴はこの世において神に近しい存在と言ってもいい。だから、うまく活用しつつ、ご奉仕もしてやらんとな。そう思った俺は、よく廊下で窓を開け、お茶を飲んでのんびりしている婆さんのそばにいるようにした。その時だけではない。常になるべく婆さんの近くにいて、そっと体を寄せていた。そんななんでもない日が続いたある天気のいい日、いつものように窓を開け、廊下で二人で日向ぼっこをしていた時、婆さんは急に「私がいなくなったら、あんた、生きていけるのかね」とぼやいた。よくわからなかったが、適当に「にゃー」と鳴いておいた。その時、「ありがとうな」と言ってそっと撫でてくれた手の意味がいつもとは違った意味を持つ事なんてその時の俺にはわからなかった。
一週間後、婆さんは死んだ。