坂元栄 顕将
結局、来客の多さで、本来、今日、顕彦とする筈だった話は結局出来なかったので、日を改める事にし、夕飯前に、久し振りに、幼馴染の家である、実方分家の、弁護士の実方勇顕氏宅に来た栄は、大きな溜息をつきそうになった。
―ちょっと。久し振りなのに、其の態度は無いんじゃないの?用事とやらで、里に戻るのが遅れて、予定より遅れて戻ってきて、俺の婚礼の日にも来てくれなかったし。いや、理由は想像つくけど、一言有っても良さそうなものじゃない?
白い襯衣に洋股吊、襟締、といった洋装に、長めの前髪。
栄と同い年の、実方分家の青年、実方顕将は、自宅の縁側にドッカリと腰を下ろして、足を組み、口笛なんぞを吹きながら、爪鑢で爪を整えるのに夢中で、最初に挨拶を軽く交わしたきり、隣に腰掛ける栄の方を見ようともしない。
思いっ切り、里の外での生活に気触れて戻ってきたらしい。
第一、此の幼馴染は、驕慢というわけではないのだが、誇が高過ぎて、初が苦手どころか、傷付くのを恐れて、初を見掛けると、何のかんのと用事を作って逃げてしまうから、此処には、初を伴って来る事も出来ない。
オマケに頑固で、尚顕の時の様に、掻き回す、という事など出来よう筈も無い。
安幾の話を持っていく、と、初に言ってはみたものの、実際は、栄には、顕将を、どうこう出来はしない。
ただ、栄が今日、此処に来たのは、実は、安幾の為というよりは、顕将の為なのである。
―其れにしても、洋装かぁ…。いや、流石、実方衆だけあって、ハッキリした良い顔立ちだとは思うしね。似合ってはいるんだけども。珍しい事に、実方衆の中では多少小柄だけど、中肉中背で、里の中では、決して低い身長でもないし。
俊顕も、女子の制服の話をしていたが、里で洋装の者は珍しい。
別段、里の中で洋装が禁止されているわけではないのだが、皆、どれ程、里の外で洋装をしていようとも、里に戻る前に、正装の白装束か、普段着に着替えるのが暗黙の了解である。
理由は、顕彦も言っていた通り、瀬原衆との貧富の差が際立ってしまうからである。
栄とて、外で着ている背広は、丁寧に手入れをして、部屋に隠しており、里の外に出てから着替えているのだ。
―其れが、如何だい、此の為体。…御前、貰えた事が嬉しくて、革靴を抱いて寝た女の子の気持ち、分かるかい?そんな子は、きっと、莫大小だって、親に遠慮して、洗い替えを買ってもらったら、爪先でも破れようものなら、継ぎを当てて、大事に履いているに違いないんだ。…そうなんだよな、支給される制服が羨ましくて、無償だからと、里の女子の進学が進んだ事も事実なんだ。そんな里なのに、こいつ、見せびらかす様な真似をして…。
しかも此の人物は、里の唯一の弁護士、実方勇顕の跡を継ぐ事を志している一人息子である。
勇顕は、些か子煩悩過ぎるところは有るが、立派な、弱い里人の味方である。
其れが、上等の上着こそ着ていないにしろ、こんなにも派手な、気障ったらしい洋装で、臙脂色の襟締や、ピカピカの革靴を見せびらかしながら、よりにもよって、弁護士先生の立派な家の、目立つ庭先で、しかも、幾ら友人同士の間柄とは言え、来客時に爪鑢で身嗜みを整えている、というのは、如何なものかと思う栄である。
―無作法にも程が有る。親しき仲にも礼儀有り、でしょうよ。
身嗜みは他人に見られない場所で遣るべきだ、と、一言言ってやろうか、と思い、栄が立ち上がりかけると、顕将は、スッ、と、栄の方に、立派な包装の小箱を、片手で寄越した。
「ん」
「え?此れ、如何したの、将」
「ん」
受け取れ、という意味らしい。
よく見ると、顕将の顔は赤かった。
「…有難う」
栄が、礼を言いながら、そっと受け取ると、顕将は、一度も栄の顔を見ずに、再び、爪鑢で爪を整え始めた。
―…おや?
栄が、黙って、丁寧に包みを開けると、実に高価そうな万年筆が出てきた。
「え?」
「おめでとう」
栄は、やっと得心がいった。
今此処で、此の幼馴染が洋装をしている意味は、よく分からないが、敢えて深読みをすれば、栄との約束を違えた事を非難されたくない、という、心の武装なのかもしれず、顕将は顕将なりに、約束していた、栄の婚礼に出席出来なかった事を、栄に対して悪かったと思っていて、気不味いのだろう。
そして、遅れ馳せながら、と、祝いの品を出すのも照れ臭かったのだろう。
「有難う、将。こんなの、誰にも貰った事が無いよ」
栄が素直に礼を言うと、顕将は、持っていた爪鑢を、思わず、といった様子で縁側に放り出し、真っ赤になって狼狽えた。
「わっ。そうやってさぁ、真っ直ぐ御礼が言えるんだからさ。本当、御前が羨ましいよ。おめでとな!」
―…やっと、こっちを見たな。…良い奴なんだけどな。そうだった。昔から、自分の方が悪いと思っていると、なかなか謝れない性格をしていたっけね。
そう、此の幼馴染は、性格の複雑さに掛けては、相当なものなのである。
目上の尚顕が居ると、其処まで頑固ではないのだが、基本的に、自分の事を頭が良いと思っている人物で、同い年や目下の意見を、あまり聞き入れない。
―弁護士の仕事に明るくはないけど、弁護する相手の話を聞いてこそだと思うんだけどね。依頼人が目上ばかりとも限らないんだしさ…。いや、そりゃ、確かに、頭は良いんだけどさ。話は聞こうよ…。そんな事で大丈夫なの?
果たして此の幼馴染に弁護士の仕事が務まるのだろうか、と、時々心配になる栄だった。
―…まぁ、でも、今日の言い方だと、本人も、自分の性格に、思う所が有るみたいだな。自覚が有る様なら、俺が口を出す事じゃないか…。
稍あって、顕将は、ごめんな、言った。
「婚礼、出られなくて」
「構わないのに、気にしなくても。用事って、多分、試験準備だろ」
栄が、そう言って微笑むと、顕将は、小さく頷いた。
―今年は司法試験だものね。
本人の口からキチンと聞いたわけでは無かったのだが、勉強会やら何やらで、ギリギリまで実家に戻って来られなかったのであろう、というのは、予想自体はついていた栄であった。
―…基本的に、親孝行な奴だしね。父親の仕事を継いで弁護士になろうって志自体は、感心だよな。
一度の試験で受かるかは分からないが、此の幼馴染が今度の試験に掛ける情熱は理解している心算でいる栄である。
―将って、暗記科目には滅法強いし、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないよね。一発合格したら、そりゃもう、親孝行だよなぁ。昔から、ずっと頑張ってるし、上手くいってほしくはあるよね。
顕将は、もう一度、ごめん、と言った。
「本当は、何か悔しかったんだ」
「え?」
「今度此処に戻るなら、受かってから戻って来たかったんだ。軽い気持ちで、実家を出たわけじゃなかったから。偶々、御前の慶事が、試験より先だっただけなんだけど。一人息子なのに、親を置いて里を出るなら、其のくらいでなくちゃ、って、変に意気込んでたから、何か、意地になっちゃって、勉強しちゃって。…そしたら、偶々、勉強会の誘いが続いて」
「うん」
「断れば良かったんだけど。勉強会だって大事だけど、合否に直接影響するわけじゃないんだから」
「うん」
「…約束破って、ごめん。御前の御目出度事の席で、伶人、遣る筈だったのに。…一生に一度の事だったのに」
珍しく、素直に心情を語った顕将は、俯いてしまった。
構わないのに、と、栄は、もう一度言った。
「将は弁護士先生になってさ、里の困り事を助けてくれるんだろ」
「…うん」
顕将は、そう言うと、顔を上げて、栄の顔を見た。
栄は、微笑んで、言った。
「将なら出来るよ」
「うん」
さて、本題である。
此れから栄は、上手い事、此の幼馴染に、安幾を、顕将には其れとは分からぬ形で、『如何ですか』と言わなければならない。
大事な事なので、もう一度言うが、栄が今日此処に来たのは、安幾の為の様でいて、実は、顕将の為なのである。
此の、複雑な性格をした、自分と同い年の青年は、人生の殆どの時間を勉学に費やしており、興味を示した異性は、栄が知る限り、過去に一人しか居ないのだ。
其れが、坂元分家当主、坂元吉雄の長女、安幾なのである。
無論、当時も、興味は有る、程度の、淡い感情だったであろうから、もう、そんな昔の事は、顕将本人も忘れているかもしれないが、安幾が好みな事だけは確かなのだ。
―いや、正直なところ、安幾ちゃんは他の人とも一緒になれるだろうけど、将は、安幾ちゃん以外だと、適齢の、良い時期に嫁が貰えないんじゃないかと思うんだよね。
長い付き合いの栄にさえ、安幾以外だと、顕将が、今後、如何いう時期に、如何いう異性に興味を持つのか、全く予想がつかないのである。
加えて、周囲が、見合いだ何だと言うと、勉強したいからと宣う。
其れを口実にされると周りが強く言えないのを好い事に、のらりくらりと逃げるのだ。
恐らく、此の先も、試験だ何だ、受かったら受かったで、仕事だ何だ、と言って、周囲が何も言わなければ、ずっと勉強して過ごすのであろう、とは、父親である勇顕氏の弁であり、嘆きでもあった。
そして、栄も、そう思っている。
家督と家業を継がせる、大事な一粒種の縁談が進むという想像が、親でも出来ないでいるのでは、嘆きたくもなろう。顕将に跡継ぎが生まれなければ家が絶えるのだから。
里にとっても、集落唯一の弁護士の家が無くなるのは大損失である。
此の家の人間以外に誰も、里では、自分の家から弁護士を出そうという気概も、資金も、頭脳も持ち合わせてはいないのだから。
隠れ里の困り事や訴訟など、里の弁護士以外の誰に依頼すれば良いのか、という話である。下手をすれば、其処から様々な事が世間に露呈し、隠れ里という存在自体が瓦解して、隠れ里の体裁を保てなくなるであろう。
だから、実は隠れ里の存続自体は如何でもいいと思っている栄としても、諸々の事を考慮して、此の幼馴染に慶事が訪れてほしい、と、色んな意味で、心から願っている次第である。
―いや、しかも、だよ。此の性格を考慮すると。
顕将は、存外、と言おうか、見た儘、と言おうか、僻みっぽいのだ。
女性や結婚に対する興味が薄いとは言え、全く無いわけではないのに、周囲が所帯を持てて、自身は持てないとなると、自身が積極的ではなかったのにも関わらず、後になってから、絶対に妬み、僻むであろう。
―其れも、若い娘さんを貰うのに気が引ける様な年になってからね。
誇の高い顕将の事であるから、恐らく、自分で相手を決めたいのだ。
だから見合い話は、初めから聞く気が無い。
しかし、薄っすらと、好いな、と思う時期が来ても、誇が邪魔をして、あの家に話を持って行きたい、とは、自分からは、なかなか言い出さないであろう。
そして機を逃し、他人に出来て自分に出来ないなんて、と妬み、僻む、という悪循環に陥るに決まっている。
実は、勇顕の嘆きも、其れを見越しての事なのだ。
―いやー、でも、甘いよねぇ。上方限じゃ珍しいよ、本当に。
確かに顕将は頑固だが、子煩悩の勇顕は、遅くに出来た一人息子に甘く、見合いを押し付ける様な真似はしないであろう。
しかし、そんな、息子である自身に甘い、優しい父親を尊敬するからこその孝行息子なのだ。だから、幾ら顕将でも、父親にガツンと言われれば見合いを断ったりはせぬであろうに、歯痒い話である。
―そして、親も、息子が弁護士になってくれさえすれば、何とかなると思っている節もあるからなぁ。…そりゃ、弁護士先生になってりゃね、何歳の時に、何歳の嫁を求めても、周りも反対はしないけど。此の性格が引っ繰り返る様な、とんでもない人生経験でもしない限り、適齢期を過ぎてから嫁を欲しがるなんて事、将が遣るとは、とても思えないんだよねぇ。甘い甘い。
そして、其の意味では、勇顕が甘やかした結果、此の様な、根は優しい孝行息子なのに、誇が高くて叱責に弱い、御免なさいと有難うが苦手な、優秀なのに僻みっぽい、という複雑な性格の人間に育ったとも言える。
教育の功罪である。
―いや、いいんだよ、別に。将が、全く異性に興味が無くて、勉強だけしていたくて、一生独身を貫く心算なら、他の分家から養子でも取ったら済む話だし。烏滸がましくも、他家の事情に口を挟む気なんか、本当は、一切無いんだからさ。
ただ、顕将に、妬み、僻まれるのは、同い年の幼馴染である栄であろう事だけは、ハッキリしているのだ。
妬みという感情が如何いう仕組みで起こるかと言えば、其れは、雲の上の存在に対してではなく、自身と同等か、下だと思っていた存在が、自身には無い僥倖に恵まれたのを知った事に対して沸き起こるもの、と、大体決まっているのだ。
『同い年の幼馴染』などという『同等』たり得る存在は、此の人物には、栄しか居ないのに、早々と所帯を持ってしまったのだから、そう遠くない将来、妬まれるのは確実で、栄は、こんな狭い里の人間関係で、そんな面倒事は御免である。其の意味では、此の行動は、栄自身の為とも言えた。
だから栄は、此の辺で一つ、安幾という存在を、もう一度、此の、適齢の顕将の目に留まらせたいのだ。相手の誇を傷付けぬよう、ハッキリ其れとは言わずに、である。
―…まぁ、今、難しい事をしようとしているのは、自分でも分かり切っているんだけどさ。恥を掻かずに若い娘さんと一緒になりたいなら今のうちですよ、という話でね。聞き入れてくれるのが、相手の為なんだけども。此ればっかりは、将が自分で決める事だからなぁ。
しかし、何と切り出したものか、と思って、贈り物の万年筆を丁寧に懐に仕舞いながら黙っている栄の顔を、顕将は、ジッと見詰めてきた。
「…何だい、黙りこくって。俺は嫁が貰えたが、御前は何時だ、なんて言い出すんじゃなかろうな。所帯を持った途端によぅ」
何だよ、と言って、顕将は唇を尖らせた。
如何やら、もう妬まれていたらしい。
相手の性格の複雑さを甘く見ていたわけでもなかった栄だったが、止めてくれよ、と思うと、大変面倒に感じ、溜息交じりに言った。
「未だ何も言ってないのに、僻みっぽい事言わないでくれる?」
―でも、殆ど当たってる…。厄介だな、頭も良いし、其れに正比例して、性格が捻じれてて…。尚兄とは、本当に違うよね。こいつを誘導なんて、出来っこないって思って掛かってるのに、此れだもの。
但し、此処まで構えられては、あまり遠回しに言っても良くなかろう、と、栄は、単刀直入に切り出す事にした。
「坂元分家の安幾ちゃんって、如何思う?」
「ん?やっぱり見合い話か?俺、そういう相手は自分で決めたいから!」
顕将は、そう言うなり、バッと身構えて、険しい顔をした。
予想通りの反応過ぎて、こりゃ困難だな、と思い、栄は、内心呆れ、そんなに構えられたら世間話も出来ないでしょうよ、と、本音で言った。
「いや、うちの分家の女の子がね?俺も、久し振りに里に戻ってきて会ったら、年頃で、綺麗になっててさ、っていうだけの話」
栄の呆れ声での発言に、顕将は、一度は、納得した風に、そうか、と言ったが、稍あって、いや、と言うなり、眦を、キッと上げた。
「御前から、あの娘が可愛いとか、そんな話が出るなんてな。やっぱり所帯を持つと違うな」
「諄い」
―尚兄、助けて。
目上が居ない時に、此の幼馴染が、一度でも僻みっぽい事を言い出すと、誰にも止められないのである。
栄は、溜息をついて言った。
「…俺が黙ってたら黙ってたで、勝手に解釈して僻んだのに。話したら話したで、何でも、そんな風に取るんだから…。そんなさぁ、久し振りに会った幼馴染と世間話しようとしている人間に対して、あんまりじゃない?御祝いの品は嬉しいけど」
其の栄の言葉で、自身が栄の婚礼に出席しなかった事を思い出したらしく、悪いと思い直したのか、顕将は、少し気不味そうに、そうかい?と言った。
罪悪感を刺激する作戦は成功したな、と、『同い年の幼馴染』である、目の前の人間と『同等』の栄は思った。
此れで一応、少しは話を聞く気を起こしてくれるだろう。
悪いが、栄とて、其れ程、自分の性根が真っ直ぐだとは思ってはいない。
此の複雑な性格の人間の『同い年の幼馴染』に相応しい程度には、自身の性根が複雑な歪み方をしている自覚は有るのだ。
大らかな人柄の、尚顕という、尊敬すべき目上の緩衝材的存在が無いのであれば、結局、此の関係性では、複雑さに複雑さをぶつける事しか出来かねるのだ。
嗚呼、竹馬の友よ、俺達は実に同等に歪んでいるね、と思い、複雑な性根の医学生は、複雑な性格の弁護士志望の青年に対して、努めて穏やかな声で言った。
「ま、気楽に流して聞いてよ。昔から可愛かったでしょ、安幾ちゃん」
「…そりゃ、まぁね」
そう言った顕将は、尚も唇を尖らせたが、声は柔らかくなった。
―可愛い、という事に対しての否定は無し、と。好みは変わってないと見た。
ほらね、と、大きな声で言ってやりたい気分になった栄だったが、グッと堪えて、言った。
「で、如何思う?」
「如何、って…。長い事会っていないからなぁ…」
「そうか、其れって、好いよね」
「何が?」
「久し振りに会って、相手が綺麗になってて、こっちも、好い年頃でさ。で、末は弁護士先生です、と。相手方にとっても、好い御話ですね、となる、と。物語みたいだな、と思ったわけ。こう、秋も次第に深まってきてね…。絵になるじゃない?」
態と相手が好む様に夢想的に言ってみたからなのか、将又、弁護士、という単語に自尊心を擽られたからなのか、顕将は、少しニヤ付きながら、いやぁ、などと言った。
「未だ試験受けてないし」
―え、思ったより、デレデレした顔をするのが早いな?…匙加減を間違ったかな。いや、此の儘、続けよう。此れは飽くまで『世間話』なんだし。
「試験を受けられるだけでも名誉な事だもの。其れに、洋装の学生さん、ってだけでも、何か、好いじゃない?」
珍しく、『何か好い』などという、抽象的な、ほぼ実体の無い言い方をしてしまった栄だったが、洋装、という単語に、またしても自尊心を擽られたのか、顕将は、明るい声で、そうかなぁ、などと言った。
―そうかなぁ、じゃないってば。何でまた、洋装で里に居るの、って話の方が、本当はしたいんだけど…。まぁ、禁止されている事でも無いのに、『周りから良く思われないかもしれないから』っていうのを理由に口を出すのも、御節介だろうしな…。…うーん、いや、一か八か、聞いてみるか、其れと無く。
「ね、そう言えば、如何して洋装なの?前髪も長めだね」
「流行りの服しか着たくないからだよ。部屋着も白襯衣だぞ。寝巻は流石に着物だが。第一、誰も彼も下方限の人達に遠慮して洋装をしないから、却って此の場所で洋装が定着しないのかもしれないじゃないか。遠慮し過ぎて相手を下に見過ぎるのも不公平だと思うぞ。有り触れた無地の布を自身で仕立てたとて、工夫を凝らせば、理論上は襯衣になるのだから、そうすれば、白装束に使っている麻布でも、夏の上着になる可能性だって有る。こうやって、背広という物の着方の例を見本として示す事も、外で学習している者の務めとは思わないかね。昨今、里の女生徒にも制服として洋装が導入されたという話は誠に結構。意識から変えていこうじゃないか。先ず、物を手に入れたいと思う事が、何かを手に入れる第一歩だろう?見せびらかして羨ましがらせている、と思う者も居ろうが、憧れこそが、何かを手に入れる原動力であり、何かを手に入れたいからこそ人は努力が出来るというものではないかね?其れこそが、里の生活水準の向上に一役買うのではなかろうか、と、思う次第だよ」
―…うーん。面倒な事を言い出したな…。聞かない方が良かったかな…。
『洋装にしたら生活水準が向上する』、と取れかねない其の言葉を、論理的整合性は無いと考える栄に言わせれば、里の外で、そんな思想に気触れて戻って来るとは、発想自体が、流行に流され易い田舎者、という気がする。
オマケに、相手の理論としては、洋装という種類の衣服自体が手に入り難い貧富の差が問題なのではなく、仕立て方や着こなしの分からなさ、という洋装に対する知識の無さが問題になっている事を知り、栄は、『同じ麻という名前だから一緒くたにしているのだろうが、白装束に使っている麻と、洋装に使う亜麻は違うぞ』と言ってやりたいくらいの気持ちになったが、黙った。
―履物も無くて裸足の人間に、工夫すりゃ洋装が手に入るから、俺を見て知識を身に付けろと言われてもさ。抑の論点がズレてない?其れに、努力しないから履物が無くて裸足なんじゃないんだってば。努力以前の問題なんだ。手に入れるなら生活必需品が先で、裸足に自作の襯衣を着て『貴方の洋装を見て参考にしたら生活の水準が上がりました』とか思う人、居る?何を言ってるんだって話でね。襯衣が無いなら作れば良いじゃないか、という事ではないと思うんだけど。…何かこう、机の上だけの話を持ってきたなぁ。本当に空論。まぁ、本気で其の理論が通せるなら、こいつが法だから、悪人でも勝訴させられて、そりゃ弁護士向きですね、ときたもんだけども。
本当に、勉強ばかりしてきた幼馴染である事に加えて、何に対しても、捏ね繰り回して複雑に考える、理想の高い人間であるので、洋装一つとっても、此の様に考えるのであろうが、所詮、上方限の、弁護士先生の家の若様の発想、という気がする。
だが、思えば、元来、身に付ける物には拘りの強い幼馴染だったのである。
格好付けて色々と言っているが、装飾の言葉を取り払って、『単純に洋装が気に入ったからしている』という回答だと考えると、共感は出来ずとも、理解はし易くなった気はする。
―…まぁ、いいか。服なんて、裸じゃなければ、もう、何でも。
栄が、そう思い、黙っていると、顕将は、あ、と言った。
「脚が短いくせに洋装なんて、と思ったか?」
―いや、思ってないって。
「未だ何も言ってないのに、僻みっぽい事言わないでくれる?」
「そうだな、長いのは、六尺の御前の脚だしな」
「諄い」
―今日は、もう、埒が明かないな、こりゃ。
良い奴なのに勿体無い、と、栄は心から思った。
顕将は、何だかんだ言って優しいし、勤勉なのだ。
こんな万年筆を贈ってくれる友人が他には居ないのも、掛け値なしの真実であり、遠からず弁護士になれる人物だろうと、栄も思っている。
―いや、弁護士の嫁って、安幾ちゃんも、悪くないと思うんだけどね、本心から。見た目も悪くないと思うんだよ、本当に。将は、俺が、そう思ってるって、信じてくれないかもしれないけどさ。
そして、何より一番、栄が良いと思うのは、顕将は、学業の為に里を留守にしている期間が長く、安幾が、顕彦に思いを寄せているという事情を知らない事である。
尚顕の時の様に、安幾の気持ちや実方本家に対して、変な遠慮もするまい。
年回りも合うから、話が纏まれば、ひょっとして、ひょっとするぞ、というところである。
しかし、此の僻みっぽさから、安幾への求婚までの道筋を付けるのは、大方の予想通り、やはり栄には難しそうである。
栄は、早々に話を切り上げる方向に持っていく事にした。
本来は、他人の行動を操作するなどという、内心気が咎める事は、進んでは遣りたくないのだから、此れで良いのだろう、と栄は思って、純粋に、相手を褒める気持ちだけで言った。
「ま、良いじゃない。良い服を着て、可愛い娘さんと再会してさ。其れって、単純に、良い話だと思うけどね」
まぁ、其れはね、と言ってから、顕将は、少し赤くなって、俯いてから、言った。
「安幾ちゃんかぁ…」
―…脈は有りそうだけど、本当に、此れ以上は止めよう。…今だったら…。いや、今くらいじゃないと、悠長にしてたら、其れこそ、安幾ちゃん、他所に嫁いじゃいそうなんだけどね…。女の子は、そんなに、何年も待てないからさ。ま、御縁が無かったのかも。
「いや、試験前の大事な時に、妙な話して、悪かったね。ちょっと、御似合いだなって思ったもんだからさ。ただの、感想。御祝い、本当に有難う。趣味が良いね」
趣味が良い、という言葉に、再び顕将が気を良くするのを確認してから、栄は暇乞いをした。
そして、尚顕の時とは違い、不発に終わりそうなので、誰にも、今日の結果を、『上手く切り出せなかった』以上には報告しない事にした。
―しかし、上方限に生まれて、恋愛結婚を求めるとはね。
良く言えば近代的だが、やはり、里の外で思想に気触れてきたのでなければ、映画の見過ぎだろう、と、栄は、幼馴染の拘りに対して、冷めた感想を持った。
やはり、実方家の人は夢想家が多い様である。
※婚礼 ゴゼンケとも。御前迎え。祝言。嫁、つまり、御前を迎える、という古い言い回しが方言として残ったもの。
※白襯衣 「White Shirt」の聞き違いから、明治六(一八七三)年、横浜で生まれたネーミング。当時十八歳だった石川清右衛門が、西欧人から「White Shirt」と言って渡された物を、「ワイシャツ」と聞き違えた事で、日本では其の名称が定着した。




