坂元栄 辰顕
栄が、自宅に戻り、初と昼餉を取ってから、共に実方本家に出向くと、昨日より、幾らか顔色の良い顕彦が、昨日と同じ様子で座っていた。
美しい青磁色の着流し姿である。
顕彦の代わりに出迎えてくれた完三が教えてくれたところによると、あれから起き出して、風呂だ歯磨きだと言い出したらしい。
―未だ炎症が有るのに…。患部を暖める事に…。
痛いから、という理由では物事を諦めないのは、見上げた意地っ張りである。
「そんなわけで、喜久ちゃんは、尚兄と縁談が決まりました」
栄の掻い摘んだ説明を聞いて、顕彦は、ポカンとした顔をした。
昼餉を取りながら粗方話を聞いていた初は、良かった事、と言って立ち上がり、顕彦に昼の薬を飲ませた湯呑を下げに、炊事場に向かった。
初が去ってからも、顕彦は、ずっと驚いた顔をしていた。
「え?昨日の今日で?栄、何したの?」
「特に何も。ちょっと引っ掻き回しただけです」
―うん、確かに、俺が遣った事と言えば…。よく考えると、ハナさんを尚兄の家に連れて行ったくらい、だな。あとは、ほぼ黙ってたし。
結果としては『初を尚顕の家に連れて行った』事が一番の要因と言えるので、やはり、仕向けたのは誰かと問われれば栄なのだが。
微笑む栄に、顕彦は、怯えた目を向けた。
「怖い。栄、本当に、何したの?」
「何って、別に。さ、御目出度い話なのですから、もっとニコニコしましょう」
「はい」
あれ、顕彦さんも敬語になったな、と思ったが、栄は、キビキビと、明るい声で話を続けた。
「何にせよ、此れで、あと、安幾ちゃんだけですね」
「…はい」
見れば、顕彦は、少し震えていた。
そんなに怯えずとも、と栄は思ったが、来客の声がしたので、玄関の方を見た。
「たーちゅー」
うーん、と言いながら、顕彦は、甥の辰顕を膝に乗せて抱き、頬擦りした。
かなり可愛がっている。
此の間まで同居していて、辰顕が赤子だった頃は、本当に襁褓替えまで遣っていたというのだから、可愛いのは仕方が無いだろうが、露骨に可愛がるなぁ、と、栄は面白く思った。
辰顕の父で顕彦の兄の俊顕は、というと、其の様子を、立った儘、微笑みながら見ていた。他にも娘が二人居るのだが、コッソリ辰顕だけ連れてきたのだそうだ。栄は、目上の俊顕が立っているなら、と、立った儘で、丁寧に一礼した。
辰顕は、全体的な雰囲気は俊顕に似ていて、髪も父親に似て、子供にしては硬そうな髪をしているのだが、顔立ちは、完全に、母親の景に似ている。
紺絣を着て、やんちゃそうな、愛らしい様子の、栄にとっても義理の甥は、ションボリした顔をして、顕彦に、ビットリくっ付いている。
「辰、ほら、元気を出せよ」
辰顕は、もう辰じゃないのっ、と言って、顕彦にくっ付いた儘、シクシク泣き出した。
「何かあったのですか?」
栄が問うと、俊顕は、やれやれ、と言って、腕組みした。
「こいつねぇ、足が速いのを鼻に掛けていたんだけど、他の子に負けたらしいんだな。其れで、よせばいいのに名前を賭けたらしいんだ」
顕彦と栄は、声を揃えて、名前を賭けた?と言った。
「辰年だから辰顕って付けたんだけど。其れがねぇ、近所に、辰ちゃんが沢山居るわけよ。辰良とか辰男とか」
成程、と栄は言った。
同い年が、ほぼ全員、辰年というわけだ。何処の親も、名付けの発想が近かったわけである。
「其れで、辰治と競って、負けた方が辰って呼ばれる事になったんだそうだ。で、負けたもんで、昨日から、こうなんだ。別に、友達とは渾名で、そう呼び合ったって、何の、戸籍が変わったわけでも無しに、家でくらい、辰で通したって良さそうなもんなんだが。もう辰じゃないって、聞かないんだ。景が落ち込んでるよ。神立てで、自分が書いた札が当たって付いた名前なんだもの」
神立ては、上方限の名付けの風習で、名前の書かれた札を集めて籤にして、神に御伺いを立てて子供の名前を決める、という様な行事であるが、そういう経緯ならば、其れは、景が付けた名前、と言ってよく、俊顕も景も、『辰顕とは景が付けた名前』と言って回っていたので、栄も、よく覚えている。母親としては、自分が付けた名前が、其の様な事で名乗れなくなってしまうのは、例え、子供同士の喧嘩の様な遣り取りでも、複雑な気持ちになるのであろう。
顕彦は、ゲラゲラ笑って、言った。
「はぁ、見上げた意地っ張りだな。誰に似たんだか」
俊顕と栄は、顕彦の顔を、ジッと見た。
「え?俺?」
目を瞬かせて、そう言う顕彦に、俊顕は、御前そっくりだよ、と、真顔で言った。
大人の、其の遣り取りの中でも、辰顕は、未だ泣いている。
するとまた、来客の声がした。出向いてくれたらしい初の、あら、という喜びの声が聞こえた。
「あー、たっちゃんだ。どうしたの?ないてるの?」
納戸にトコトコとやって来たのは、青紫色の着物を着た綜と、ほぼ茶色と言っていい程濃い臙脂色の着物を着た周だった。
二つ共、子供の普段着に着せるにしては、随分染料が良さそうな着物だったが、親も一応、見分けが付く様に工夫しているらしい、と栄は思った。
綜は、青っぽい着物、周は、赤っぽい着物を着せられている事が多い。
「たっちゃん、あそぼうよ」
双子は、辰顕より一つ年上なのだが、仲が良い。辰顕は、周の声に、そっと顔を上げてから、悲しそうに言った。
「もう辰じゃないの。なまえ、辰になっちゃったの」
「如何いう事だ?」
綜が、そう言いながら、訝しげな顔をしたので、栄は、掻い摘んで説明した。
聡明な綜は、栄の説明を、直ぐ理解し、御母さんが付けてくれた名前を名乗れなくなったのか、と言って、気の毒そうな顔をした。
辰顕は、ションボリと頷いて、綜の言葉を肯定した。
ところが、周は、明るく、なぁんだ、と言った。
「もう一回しょうぶして、かったらいいよ。そしたら、もとどおりでしょ」
綜と辰顕は、キョトン、としたが、周は明るく続けた。
「おだんごたべたら、走るの、れんしゅうしたらいいよ、兄上と」
綜と辰顕は、声を揃えて、え?と言った。
聞いている大人三人は、目を見合わせながら、笑いを噛み殺した。
綜は、驚いた様子の儘、周も足が速いであろう、と言ったが、周は首を振って、言った。
「足ははやいけど、走るの、べつに、すきじゃないんだ。おえかきのほうがすき。二人が走るの、見てる」
「え?」
綜は、信じられない、という顔をした。
サラッと兄に押し付けるなぁ、と思い、栄は、周の要領の良さに感心した。
「何だ、周。走るの嫌いか」
俊顕の問いに、周は、ニッコリして言った。
「きらいじゃないけど。とくいなことがすきなこととはかぎらないでしょ」
俊顕は、其れを聞いて、ゲラゲラ笑った。
「凄いな、昔の彦と同じ事言ってる。何教えてるんだよ、先生」
「教えてませんよ」
顕彦は、驚いた顔をして、俊顕と周の顔を見比べた。
辰顕は顔を上げて、顕彦の顔を見て、言った。
「ひこじー、走るのきらいなの?」
「おいおい、其れじゃ爺さんみたいだろ?顕彦叔父さんか、せめて、彦叔父だろ?全く、何時までも赤ん坊みたいに」
「兄上、何でもいいですよ。いいよ、ひこじーで」
顕彦は、そう言って、また、辰顕の頭を撫でた。
―ああ、彦叔父って上手く言えないのか。
其の、舌っ足らずな、子供らしい愛らしさに、栄は微笑んだ。
顕彦は、優しい顔をして、言った。
「俺は別に、走るの、嫌いじゃないよ。でも、得意な事が好きな事とは限らないのは、本当」
そんな事を言っていたのか、と、栄は意外に思った。
そう言えば、顕彦は、特技は多いが、衒燿をしない人である。しかし、若しかしたら其れは、得意なだけで、そんなに好きな事ではないから、敢えて衒燿をしようという気も無いのかもしれない。
そうでしょう、と、愛らしい声で周が言った。
「おえかきは、すきだかられんしゅうするけど、走るのは、べつに、れんしゅうしたことないもん」
サラッと凄い事を言うなぁ、と思い、栄は、納戸の壁に貼られた周の絵を見た。双子が、走るのが相当早いのは聞き及んでいる栄である。
―流石、あの長の子、というか、潜在的に、何か、凄い力を秘めている気がしてしまうんだよなぁ。
「え?此れ、若しかして、周が描いたのか?」
俊顕が、栄の視線を追ったのか、壁に貼られた顕彦の顔の絵を見て、驚いた。
辰顕も、絵を見て、感心した様に、はー、と言った。
「そう。ね、たっちゃん。なんだって、れんしゅうしたら、じょうずになるよ」
―何かしたからと言って、此処まで絵が上手くなるか如何かは別として、説得力は有るな。
「おだんごたべたら、れんしゅうする」
辰顕は、涙を拭うと、笑顔になり、顕彦の膝から立ち上がり、ツカツカ歩いて、涙を拭ったばかりの筈の手で、綜の、麗しい青紫色の着物の袖を掴んだ。
―ああ…。ほら、子供に、こんな良い着物着せたって、汚すだけなのに。…此の着物で駆けっこさせる心算で着せてないんだろうけど、其れは、男の子の親としては考えが甘いとは言えるよね。何か、子供に着せる物の考え方が浮世離れしてる気がする。まぁ、王族の普段着みたいな感覚なんだろうけどなぁ。辰ちゃんみたいに、絣でも着せておけばいいのに。
袖を掴まれた綜は、と言えば、やっぱり自分が教えるのだろうか、と言わんばかりに、驚いた様子で、透き通る様に美しい、淡褐色の目を剥いた。
―わぁ、気の毒だな。すんなり周に押し付けられてる。
ついでに今、袖も、辰顕に汚された筈である。
下の子って、自分も含めて、本当に要領が良いよな、と栄が感心して見ていると、俊顕と顕彦が、綜に向かって手を合わせた。
「すまんな、綜、うちの子の駆けっこの練習に付き合うの、頼まれてくれるか」
「足が、こうじゃなかったら、俺が一緒に遣ったんだがな。御願いできるか、綜」
―あ、上手い。此の二人、兄弟して、綜の顔を立ててやってるんだ。
確かに此の儘では、綜が気の毒だし、だからと言って、周は、遣らないと言ったら遣らないのだろうし、栄は顕彦に、話が有ると言って呼ばれた身なので、付き合って遣る事は出来ない。捻挫している顕彦も、同様である。折角辰顕が、泣くのを止めて、練習をする気になったのである。綜に大人から『頼んだ』という形で顔を立てるのが、一番良いのであろう。
稍あって、綜は、分かりました、と言った。
―其れに、『捻挫している先生の役に立つ』って、なかなか良い理由だよね。
「有難うね、綜。宜しくね」
栄が、少し屈んで、綜に目線を合わせて、そう言うと、綜は、口元を、キュッと真一文字に引き結んだ。笑いたいらしい。
―こりゃ、頭は良いけど、要領は悪そう、不器用で。
栄が、其の様に、少し気の毒に思っていると、綜は、辰顕の方を見て、言った。
「どのくらいの長さを走るんだ?」
「え?」
「御前、長く走るのが得意か?短く速く走るのが得意か?」
辰顕は、考えた事が無かったと見えて、キョトンとして、綜の質問を聞いている。
綜は、質問の仕方を変えた。
「何時もは、どのくらい走っているんだ?」
「よーい、どん、くらい」
大人三人は首を傾げたが、綜は、ああ、徒競走くらいか、短いな、と言った。其れでよく分かるなぁ、と、栄は感心した。
「負けた時は、どのくらい走った?」
辰顕が、うーん、と言ったので、綜は、再び質問の仕方を変えた。
「よーい、どん、より、長いか?」
「ながい。たくさんながかった」
「そうか、じゃあ、御前、短く速く走る方が得意なんだ」
辰顕は、綜の分析に、分かった様な、分からない様な、という顔をした。
綜は、更に説明した。
「多分、もっと短い長さで勝負したら、勝つんだと思う。次は、よーい、どん、くらいの長さで勝負してみろ」
辰顕は、おお、と言った。
周は、えー、と言った。
「まけたときと同じじょうけんでかったほうがいいんじゃないの?せいせいどうどう」
綜は、凛々しい顔で、ハッキリと言った。
「名前を名乗れなくなるなどというのは恥だ。とても大切な事だ。勝てる様に考えてから勝負するのも必要な事だぞ」
周と辰顕は、キョトンとした。
綜は、おいおい、という顔をした。
「作戦だ。さくせん。そういう作戦で勝負したら如何だ、という事だ。ちゃんと此れから、正々堂々、走るのも練習すれば良いだろう」
周と辰顕は、おお、さくせん!と言って、顔を輝かせた。
大人三人は、また、目を見合わせながら笑いを堪えた。
―いやぁ、口に出して言ったわけじゃないけど、前言撤回。要領の悪さを補って余りある程賢いんだ、綜は。
其処へ、初が、御茶を持ってやって来た。
「さ、双子ちゃん達、御団子を食べに、囲炉裏の方へいらっしゃい。辰ちゃんもね」
はなこばちゃん!と言って、周と辰顕が喜んだ。二人共、ハナ子おばちゃん、と言えていない。
綜は、大人達に向かって、丁寧に一礼してから、周と辰顕の手を引いて、初と共に納戸を後にした。
男児三人の黒っぽい兵児帯の後ろ姿が、金魚の尾鰭の様に、愛らしくヒラヒラ揺れて去って行った。
※よーい、どん 昭和三年に、全日本陸上連盟(現在の日本陸上連盟)が「On your mark, Get set,(Go)」に代わる日本語での合図を一般公募し、山田秀夫氏の提案した「位置について・よーい」が採用され、一九二八(昭和三)年三月四日の東京日日新聞紙上に掲載された。翌年昭和四年、「位置について・よーい・(ドン)」というスタート合図が、日本の陸上競技規則によって明文化された。舞台は昭和九年なので、学校教育の場では既に導入されている。




