表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
声聞くときぞ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第三章 養生
30/34

坂元栄 辰顕

 栄が、自宅に戻り、(はつ)と昼餉を取ってから、共に実方本家に出向くと、昨日より、幾らか顔色の良い顕彦が、昨日と同じ様子で座っていた。


 美しい青磁色の着流し姿である。


 顕彦の代わりに出迎えてくれた完三(かんざ)が教えてくれたところによると、あれから起き出して、風呂だ歯磨きだと言い出したらしい。


()だ炎症が有るのに…。患部を暖める事に…。


 痛いから、という理由では物事を諦めないのは、見上げた意地っ張りである。




「そんなわけで、喜久(きく)ちゃんは、(なお)(にぃ)と縁談が決まりました」


 栄の掻い摘んだ説明を聞いて、顕彦は、ポカンとした顔をした。


 昼餉を取りながら粗方(あらかた)話を聞いていた(はつ)は、良かった事、と言って立ち上がり、顕彦に昼の薬を飲ませた湯呑を下げに、炊事場(ナカエ)に向かった。




 (はつ)が去ってからも、顕彦は、ずっと驚いた顔をしていた。


「え?昨日の今日で?栄、何したの?」

「特に何も。ちょっと引っ掻き回しただけです」


―うん、確かに、俺が遣った事と言えば…。よく考えると、ハナさんを(なお)(にぃ)の家に連れて行ったくらい、だな。あとは、ほぼ黙ってたし。


 結果としては『(はつ)を尚顕の家に連れて行った』事が一番の要因と言えるので、やはり、仕向けたのは誰かと問われれば栄なのだが。


 微笑む栄に、顕彦は、(おび)えた目を向けた。

「怖い。栄、本当に、何したの?」


「何って、別に。さ、御目出度(おめでた)い話なのですから、もっとニコニコしましょう」

「はい」


 あれ、顕彦さんも敬語になったな、と思ったが、栄は、キビキビと、明るい声で話を続けた。

「何にせよ、此れで、あと、安幾ちゃんだけですね」

「…はい」


 見れば、顕彦は、少し震えていた。

 そんなに怯えずとも、と栄は思ったが、来客の声がしたので、玄関の方を見た。




「たーちゅー」


 うーん、と言いながら、顕彦は、甥の(たつ)(あき)を膝に乗せて抱き、頬擦りした。


 かなり可愛がっている。


 此の間まで同居していて、辰顕が赤子だった頃は、本当に襁褓(おむつ)()えまで遣っていたというのだから、可愛いのは仕方が無いだろうが、露骨に可愛がるなぁ、と、栄は面白く思った。


 辰顕の父で顕彦の兄の(とし)(あき)は、というと、其の様子を、立った(まま)、微笑みながら見ていた。他にも娘が二人居るのだが、コッソリ辰顕だけ連れてきたのだそうだ。栄は、目上の俊顕が立っているなら、と、立った(まま)で、丁寧に一礼した。


 辰顕は、全体的な雰囲気は俊顕に似ていて、髪も父親に似て、子供にしては硬そうな髪をしているのだが、顔立ちは、完全に、母親の(けい)に似ている。

 (こん)(がすり)を着て、やんちゃそうな、愛らしい様子の、栄にとっても義理の甥は、ションボリした顔をして、顕彦に、ビットリくっ付いている。


(たつ)、ほら、元気を出せよ」


 辰顕は、もう(たつ)じゃないのっ、と言って、顕彦にくっ付いた(まま)、シクシク泣き出した。


「何かあったのですか?」


 栄が問うと、俊顕は、やれやれ、と言って、腕組みした。


「こいつねぇ、足が速いのを鼻に掛けていたんだけど、他の子に負けたらしいんだな。其れで、よせばいいのに名前を賭けたらしいんだ」


 顕彦と栄は、声を揃えて、名前を賭けた?と言った。


(たつ)(どし)だから(たつ)(あき)って付けたんだけど。其れがねぇ、近所に、(たっ)ちゃんが沢山居るわけよ。(たつ)(よし)とか辰男(たつお)とか」


 成程、と栄は言った。


 同い年が、ほぼ全員、(たつ)(どし)というわけだ。何処の親も、名付けの発想が近かったわけである。


「其れで、(たつ)()と競って、負けた方が(しん)って呼ばれる事になったんだそうだ。で、負けたもんで、昨日から、こうなんだ。別に、友達とは渾名(あだな)で、そう呼び合ったって、何の、戸籍が変わったわけでも無しに、家でくらい、(たつ)で通したって良さそうなもんなんだが。もう(たつ)じゃないって、聞かないんだ。(けい)が落ち込んでるよ。神立て(カンタテ)で、自分が書いた(ふだ)が当たって付いた名前なんだもの」


 神立て(カンタテ)は、上方限(カミホーギリ)の名付けの風習で、名前の書かれた(ふだ)を集めて(くじ)にして、神に御伺いを立てて子供の名前を決める、という(よう)な行事であるが、そういう経緯(いきさつ)ならば、其れは、(けい)が付けた名前、と言ってよく、俊顕も景も、『辰顕とは景が付けた名前』と言って回っていたので、栄も、よく覚えている。母親としては、自分が付けた名前が、其の(よう)な事で名乗れなくなってしまうのは、例え、子供同士の喧嘩の(よう)な遣り取りでも、複雑な気持ちになるのであろう。


 顕彦は、ゲラゲラ笑って、言った。

「はぁ、見上げた意地っ張りだな。誰に似たんだか」


 俊顕と栄は、顕彦の顔を、ジッと見た。


「え?俺?」


 目を瞬かせて、そう言う顕彦に、俊顕は、御前そっくりだよ、と、真顔で言った。


 大人の、其の遣り取りの中でも、辰顕は、()だ泣いている。




 するとまた、来客の声がした。出向いてくれたらしい(はつ)の、あら、という喜びの声が聞こえた。




「あー、たっちゃんだ。どうしたの?ないてるの?」


 納戸(ナンド)にトコトコとやって来たのは、青紫色の着物を着た(そう)と、ほぼ茶色と言っていい程濃い臙脂(えんじ)(いろ)の着物を着た(しゅう)だった。

 二つ共、子供の普段着に着せるにしては、随分染料が良さそうな着物だったが、親も一応、見分けが付く(よう)に工夫しているらしい、と栄は思った。

 (そう)は、青っぽい着物、(しゅう)は、赤っぽい着物を着せられている事が多い。


「たっちゃん、あそぼうよ」


 双子は、辰顕より一つ年上なのだが、仲が良い。辰顕は、(しゅう)の声に、そっと顔を上げてから、悲しそうに言った。


「もう(たつ)じゃないの。なまえ、(しん)になっちゃったの」


如何(どう)いう事だ?」


 (そう)が、そう言いながら、(いぶか)しげな顔をしたので、栄は、掻い摘んで説明した。


 聡明な(そう)は、栄の説明を、()ぐ理解し、御母さんが付けてくれた名前を名乗れなくなったのか、と言って、気の毒そうな顔をした。


 辰顕は、ションボリと(うなず)いて、(そう)の言葉を肯定した。


 ところが、(しゅう)は、明るく、なぁんだ、と言った。

「もう一回しょうぶして、かったらいいよ。そしたら、もとどおりでしょ」


 (そう)と辰顕は、キョトン、としたが、(しゅう)は明るく続けた。


「おだんごたべたら、走るの、れんしゅうしたらいいよ、兄上と」


 (そう)と辰顕は、声を揃えて、え?と言った。


 聞いている大人三人は、目を見合わせながら、笑いを噛み殺した。


 (そう)は、驚いた様子の(まま)(しゅう)も足が速いであろう、と言ったが、(しゅう)は首を振って、言った。


「足ははやいけど、走るの、べつに、すきじゃないんだ。おえかきのほうがすき。二人が走るの、見てる」


「え?」

 (そう)は、信じられない、という顔をした。


 サラッと兄に押し付けるなぁ、と思い、栄は、(しゅう)の要領の良さに感心した。


「何だ、(しゅう)。走るの嫌いか」


 俊顕の問いに、(しゅう)は、ニッコリして言った。


「きらいじゃないけど。とくいなことがすきなこととはかぎらないでしょ」


 俊顕は、其れを聞いて、ゲラゲラ笑った。

「凄いな、昔の(ひこ)と同じ事言ってる。何教えてるんだよ、先生」


「教えてませんよ」

 顕彦は、驚いた顔をして、俊顕と周の顔を見比べた。


 辰顕は顔を上げて、顕彦の顔を見て、言った。

「ひこじー、走るのきらいなの?」


「おいおい、其れじゃ(じい)さんみたいだろ?顕彦(あきひこ)叔父(おじ)さんか、せめて、(ひこ)叔父(おじ)だろ?全く、何時(いつ)までも赤ん坊みたいに」


「兄上、何でもいいですよ。いいよ、ひこじーで」

 顕彦は、そう言って、また、辰顕の頭を撫でた。


―ああ、(ひこ)叔父(おじ)って上手く言えないのか。


 其の、舌っ足らずな、子供らしい愛らしさに、栄は微笑んだ。


 顕彦は、優しい顔をして、言った。

「俺は別に、走るの、嫌いじゃないよ。でも、得意な事が好きな事とは限らないのは、本当」


 そんな事を言っていたのか、と、栄は意外に思った。

 そう言えば、顕彦は、特技は多いが、衒燿(ひけらかし)をしない人である。しかし、()しかしたら其れは、得意なだけで、そんなに好きな事ではないから、敢えて衒燿(ひけらかし)をしようという気も無いのかもしれない。


 そうでしょう、と、愛らしい声で(しゅう)が言った。


「おえかきは、すきだかられんしゅうするけど、走るのは、べつに、れんしゅうしたことないもん」


 サラッと凄い事を言うなぁ、と思い、栄は、納戸(ナンド)の壁に貼られた(しゅう)の絵を見た。双子が、走るのが相当早いのは聞き及んでいる栄である。


―流石、あの(おさ)の子、というか、潜在的に、何か、凄い力を秘めている気がしてしまうんだよなぁ。


「え?此れ、()しかして、(しゅう)が描いたのか?」


 俊顕が、栄の視線を追ったのか、壁に貼られた顕彦の顔の絵を見て、驚いた。

 辰顕も、絵を見て、感心した(よう)に、はー、と言った。


「そう。ね、たっちゃん。なんだって、れんしゅうしたら、じょうずになるよ」


―何かしたからと言って、此処まで絵が上手くなるか如何(どう)かは別として、説得力は有るな。


「おだんごたべたら、れんしゅうする」


 辰顕は、涙を拭うと、笑顔になり、顕彦の膝から立ち上がり、ツカツカ歩いて、涙を拭ったばかりの(はず)の手で、(そう)の、麗しい青紫色の着物の袖を掴んだ。


―ああ…。ほら、子供に、こんな良い着物着せたって、汚すだけなのに。…此の着物で駆けっこさせる心算(つもり)で着せてないんだろうけど、其れは、男の子(オトコンコ)の親としては考えが甘いとは言えるよね。何か、子供に着せる物の考え方が浮世離れしてる気がする。まぁ、王族の普段着みたいな感覚なんだろうけどなぁ。(たっ)ちゃんみたいに、(かすり)でも着せておけばいいのに。


 袖を掴まれた(そう)は、と言えば、やっぱり自分が教えるのだろうか、と言わんばかりに、驚いた様子で、透き通る(よう)に美しい、淡褐色の目を剥いた。


―わぁ、気の毒だな。すんなり(しゅう)に押し付けられてる。


 ついでに今、袖も、辰顕に汚された(はず)である。

 下の子って、自分も含めて、本当に要領が良いよな、と栄が感心して見ていると、俊顕と顕彦が、(そう)に向かって手を合わせた。


「すまんな、(そう)、うちの子の駆けっこの練習に付き合うの、頼まれてくれるか」

「足が、こうじゃなかったら、俺が一緒に遣ったんだがな。御願いできるか、(そう)


―あ、上手い。此の二人、兄弟して、(そう)の顔を立ててやってるんだ。


 確かに此の(まま)では、(そう)が気の毒だし、だからと言って、(しゅう)は、遣らないと言ったら遣らないのだろうし、栄は顕彦に、話が有ると言って呼ばれた身なので、付き合って遣る事は出来ない。捻挫している顕彦も、同様である。折角(せっかく)辰顕が、泣くのを止めて、練習をする気になったのである。(そう)に大人から『頼んだ』という形で顔を立てるのが、一番良いのであろう。


 (やや)あって、(そう)は、分かりました、と言った。


―其れに、『捻挫している先生の役に立つ』って、なかなか良い理由だよね。


「有難うね、(そう)。宜しくね」


 栄が、少し(かが)んで、(そう)に目線を合わせて、そう言うと、(そう)は、口元を、キュッと真一文字に引き結んだ。笑いたいらしい。


―こりゃ、頭は良いけど、要領は悪そう、不器用で。


 栄が、其の(よう)に、少し気の毒に思っていると、(そう)は、辰顕の方を見て、言った。

「どのくらいの長さを走るんだ?」


「え?」


「御前、長く走るのが得意か?短く速く走るのが得意か?」


 辰顕は、考えた事が無かったと見えて、キョトンとして、(そう)の質問を聞いている。


 (そう)は、質問の仕方を変えた。

何時(いつ)もは、どのくらい走っているんだ?」


「よーい、どん、くらい」


 大人三人は首を傾げたが、(そう)は、ああ、徒競走くらいか、短いな、と言った。其れでよく分かるなぁ、と、栄は感心した。


「負けた時は、どのくらい走った?」


 辰顕が、うーん、と言ったので、(そう)は、再び質問の仕方を変えた。

「よーい、どん、より、長いか?」


「ながい。たくさんながかった」

「そうか、じゃあ、御前、短く速く走る方が得意なんだ」


 辰顕は、(そう)の分析に、分かった(よう)な、分からない(よう)な、という顔をした。

(そう)は、更に説明した。


「多分、もっと短い長さで勝負したら、勝つんだと思う。次は、よーい、どん、くらいの長さで勝負してみろ」


 辰顕は、おお、と言った。


 (しゅう)は、えー、と()った。

「まけたときと同じじょうけんでかったほうがいいんじゃないの?せいせいどうどう」


 (そう)は、凛々しい顔で、ハッキリと言った。


「名前を名乗れなくなるなどというのは恥だ。とても大切な事だ。勝てる(よう)に考えてから勝負するのも必要な事だぞ」


 (しゅう)と辰顕は、キョトンとした。


 (そう)は、おいおい、という顔をした。


「作戦だ。さくせん。そういう作戦で勝負したら如何(どう)だ、という事だ。ちゃんと此れから、正々堂々(せいせいどうどう)、走るのも練習すれば良いだろう」


 (しゅう)と辰顕は、おお、さくせん!と言って、顔を輝かせた。


 大人三人は、また、目を見合わせながら笑いを堪えた。


―いやぁ、口に出して言ったわけじゃないけど、前言撤回。要領の悪さを補って余りある程賢いんだ、(そう)は。




 其処へ、(はつ)が、御茶を持ってやって来た。

「さ、双子ちゃん達、御団子を食べに、囲炉裏の方へいらっしゃい。(たっ)ちゃんもね」


 はなこばちゃん!と言って、(しゅう)と辰顕が喜んだ。二人共、ハナ子おばちゃん、と言えていない。


 (そう)は、大人達に向かって、丁寧に一礼してから、(しゅう)と辰顕の手を引いて、(はつ)と共に納戸(ナンド)を後にした。


 男児三人の黒っぽい兵児帯(へこおび)の後ろ姿が、金魚の尾鰭(おひれ)(よう)に、愛らしくヒラヒラ揺れて去って行った。


※よーい、どん 昭和三年に、全日本陸上連盟(現在の日本陸上連盟)が「On your mark, Get set,(Go)」に代わる日本語での合図を一般公募し、山田秀夫氏の提案した「位置について・よーい」が採用され、一九二八(昭和三)年三月四日の東京日日新聞紙上に掲載された。翌年昭和四年、「位置について・よーい・(ドン)」というスタート合図が、日本の陸上競技規則によって明文化された。舞台は昭和九年なので、学校教育の場では既に導入されている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ