実方顕彦 初桜の人の謎
顕彦が、自分でも信じられないくらい入れ込んだ出会いは、忘れもしない、大正十五年の四月三日だった。
満で十七、数えで十九の顕彦は、花見の下見に、一人、桜並木の近くに在る、何時もの花並場所に赴いていた。
七日が花見、という事だったが、未だ三分から五分咲き、というところだった。
余談だが、此の年は結局七日の花見が十三日に延期になったのだ。
其のくらいが花の見頃となったので、丁度良かったのだが、其の日は本当に、未だ花が少なくて、下見も、父から頼まれて、態々来た顕彦だけであった。其れも、出掛ける用事のついでだったので、正装の白装束の浄衣の、立烏帽子を略した姿の儘、という出で立ちだったのを覚えている。
用事のついでという事も有り、疲れていて面倒だったが、顕彦は殊の外、桜の花を好んでいるので、渋々ながらも引き受けたのだった。
ほんの少し、薄っすらとだけ、白に紅を載せた様な、淡い色の花弁。
染井吉野は好い物だ、と顕彦は常々思っている。
顕彦は、うっとりと染井吉野の木を見上げた。
―初桜、というやつだな。何て良い響きの言葉だろう。御使いで下見に来て得をした。今日は此の桜の花見を独り占めだもの。桜に限らず、白い花なら何でも好きだけど。
『初桜』が、十八、九の娘さんの例えにも使われる言葉だと知った時には、最初に考え付いた人間を表彰したいくらいの気分になった顕彦だが、其の日の桜は、正真正銘、山桜以外で、此の春に里で初めて咲いた桜だった。
―三分咲きか。此のくらいでも好きだな。花見には少し早いかも知れないけれど。
顕彦は、穏やかな気持ちで深呼吸を一つした。
―何時もながら、染井吉野は香りが弱いのが残念だけれど。
芳香の有る品種の桜も有るとは聞くが、顕彦の好む染井吉野には、其れ程香りを感じられない。花が顔に近ければ、もっと香るかもしれないが、如何せん、桜の花は、高い枝に花が咲く事が多い。
疎痩横斜の美を尊ばれる梅の様に、横に広がって伸ばして育てる木の枝と違い、桜は梅より比較的上に向かって枝が伸びる。
そして、桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿、とは言うが、花実の育成の為に剪定されがちな梅は、花器に生けられている事も有るから、梅の花には顔を寄せやすいが、切ると枝が腐りやすくなる桜は、梅程、生けられているのを見る機会が少ない。
もっと香りを確かめようにも、抑桜は、鼻を寄せて香りを楽しむ、という条件を叶えるのが難しい花の様な気がする顕彦である。
だから、何時だったか、遅くに咲いた白梅と早咲きの桜を一緒に見た時は感動したのだった。
此の温暖な地域では、早くも二月には梅が散ってしまうのに、まさか梅と桜を一緒に見られるとは思いもしなかった顕彦である。
其の時顕彦は、ああ、此れだ、と思ったのである。
桜に、白梅の香りが足された様に思えたのだ。
顕彦の心の中で、花の姿と香りがピッタリと合わさり、其れまで考えた事が無い程、何かがシックリと来て、落ち着いた気持ちになったのだった。
美しい青い空、桜、そして、此の香りが欲しかった、と顕彦は思ったのだ。
其れが全て揃ったのを見た時、求めていた物は此れだ、という、確信に満ちた気持ちが、顕彦を酷く幸福にさせた。
春だ、と、顕彦は強く思った。梅香が、桜の色と相俟って、空気までをも、ほんのり薄く、紅く染めているかの様に思えた。
あまりの麗しい情景に、まるで桜が梅の香りを盗んでしまったかの様で、梅が気の毒になった顕彦は、其の場を立ち去る間際、梅の花に、そっと顔を寄せたのだった。
―でも、今日は、あの感動を味わえそうに無いな。好きだが、こう整然と染井吉野ばかりが並木になっているのでは。
梅の香りとともに桜の花に出会える様な事は無さそうだ、と、思っていた顕彦だったが、其の日、一番太い桜の木の所まで歩いた、将に其の時、仄かに白梅の香りがしたのだった。
―気のせいかな。あんまり俺が、桜と一緒に、白梅の香りを嗅ぎたいものだから。
しかし、注意して嗅いでみると、やはり、何処からか、床しい白梅の香りが漂ってくる。
何処だろう、と、顕彦が辺りを見渡すと、はた、と、若い娘と目が合った。
さては、桜の太い幹に隠れていて、同じ木を挟んで立っていたのに、御互いからは、御互いの姿が見えなかったのである。
娘と目が合った瞬間、信じられない事に、顕彦は恋に落ちていた。
顕彦は、そんな事が自分の身に起こるとは全く予想もしていなかったし、そんな事が起るとしても、今日、今、此の時だとは思いもしなかった。
其れなのに、顕彦が動揺するくらい明確に、目が合った瞬間、恋に落ちたのだった。
其れは、直ぐ様自分で、恋に落ちた事を自覚するくらい強烈な感覚だった。
誓って、今まで、そんな事は無かったし、其れは今までの、どの出会いとも全く違っていた。
此の人だ、と、顕彦は思ってしまったのである。
しかし顕彦の頭の何処かでは、もう一人の自分が、信じられない、と叫び続けていた。
―もし此れが恋なら、今までの経験は何だったのだろう。でも、此の人だ。最早俺は此の人を探して今まで生きてきた様にしか思えない。
顕彦は、では、まさか此れが初恋か、などと、目が眩む様な気持ちになった。
娘は、赤っぽい格子柄の絣に襷がけの儘で、手拭いで頭を覆っている。
前掛けまでしているので、何かの仕事を途中で抜けてきたのだろうと推察された。
娘は、地味な装いをしていたが、豪く色白で、スラリとした美しい姿をしていた。
そして極め付けは、香りだった。
そう、此の仄かな白梅の香りは、如何やら娘の方から香ってくるのである。
―こんな上等な御香が買える様な家、という事は、上方限の、何処かの裕福な家の娘だろう。
抜かった、と顕彦は思った。
―こんな美しい娘さんを今の今まで知らなかったとは、抜かった。しかし、俺が知らないなんて、今の今まで、此の美貌で、噂にも上らなかったと言うのか?
直ぐ仲人を立てて求婚しよう、いや、しなければ、と、顕彦は、自分でも驚く程焦った。
当の娘は、顕彦に気付くと、キョトンとした顔をして、ジッと此方を見返してきていた。驚き過ぎて咄嗟に動けない、といった様子だった。
―何歳くらいだろう。ああ、綺麗だな。初桜と例えるには多少若そうだけど、ピッタリだ。
顕彦より年下なのは明白だが、幼さが残る、あどけない顔立ちの割に、五尺は有ろうか、比較的背が高い娘だった。
里の男の平均が五尺四寸、顕彦が五尺八寸なので、顕彦よりは随分背が低いが、里の女性の中では、かなりの高身長である。
だが、何歳だろうが、身長が如何だろうが、構いはしない、と顕彦は思った。
―此の人の名前が知りたい。何か話して聞き出さなければ。
「何をなさっていたのですか?」
顕彦は、そう声を掛けた。
今なら、そりゃ桜を見ていたに決まっている、と思う顕彦であるが、其の時は他に何も言えなかった。
娘は、気不味そうに俯いて、頬を染めると、御花見を、と言った。
其の、鈴を転がす様な声に、顕彦は胸が詰まって、如何して良いか分からなくなった。
一秒でも長く口を利いていたい、と、顕彦は思った。
襷がけで手拭い被りで、髪すら殆ど見えない娘なのに、顕彦には天女もかくやと思われた。
実際、整い過ぎた其の顔は、仏像や天井画の飛天の様に、性別が関係の無い、清浄な、威厳さえ感じさせる均一の美を誇っており、いっそ中性的ですらあった。
そう、娘は、美女の姿をしているのにも関わらず、浮世離れしている程、何処かサッパリとして見え、女の生臭いところは一つも無い様に顕彦には見えたのだった。
「御花見を。其れは、未だ盛りでは無くて、残念な事でしたね」
やっと其れだけ言った顕彦の言葉に、娘は、微笑んで首を振った。
娘の動きに合わせて、顕彦は仄かな白梅の香りを意識した。
やはり此の娘の香りなのだった。
白い花と語らっているかの様だ、と、顕彦はウットリした。
娘は、顔を上げ、花を見ながら言った。
「残念な事は御座いません。今は三分咲きですが、此のくらいでも、見るのが好きなのです。花見には少し早いかも知れないですが、白い花なら、何でも好きなもので」
娘の言葉は、常々自分が考えていた事と殆ど同じだった。
顕彦は、心の臓を直接掴まれたかと思うくらい驚いた。
―自分も同じです、と、伝えたい。
だが、何も気の利いた事が言えず、白い花なら何でも好き、という、娘の言葉を、顕彦は、ただ復唱した。
顕彦の言葉に、はい、と、歌う様に娘は答えた。
「好きだから、桜も、こうやって、一人でコッソリ見るのです。厳密には、白い花、では無いのかもしれませんけれど」
澄んだ声が、明るく顕彦の耳を打った。
娘には、媚びたところや、艶めかしく振舞う様子は微塵も無く、上品だが、爽やかで、其の受け答えは、何処かハキハキとしていた。
「皆で御花見はなさらないのですか?」
顕彦は、やっと其れだけ言った。
そろそろ里の花見だから下見に来ている顕彦なので、此の娘にも花見に来てほしい、と、素直に思った。
しかし娘は首を振った。
「そういうわけにもいかなくて。でも、今日見られたから良いのです」
娘は、そう言うと、桜の木を挟んだ距離の儘、再び、ジッと顕彦を見た。
顕彦は、蕩ける様な気持ちになり、再び何も言えなくなった。
「うちの従兄くらいの御年でいらっしゃるのでしょうか。背格好も、うちの従兄と少し似ていらっしゃいますね」
「従兄?」
娘は、顕彦にとっては意外な事を言った。
従兄とは誰だろう、名前を知りたい、と、顕彦は再び焦った。
娘は、あ、と言って再び俯いた。
「ごめんなさい、会ったばかりの方に、失礼な事を」
「いえ、失礼な事など、何も」
失礼でも何でも構わないから、もっと話してほしい、と顕彦は思った。
―しかし成程、上方限の娘なら、身内以外の男性と接するのは珍しかろうな。上流になる程、家の敷地から殆ど出ない者が多い。喋り過ぎては不躾になるかもしれない、と考えるのは自然かもしれない。其の割には物怖じせずに話すのは、俺と其の従兄とやらと似ている様な気がして、親近感を抱いてくれたからかもしれない。しかし、誰だろう。其の従兄というのは。
「此方こそ、御花見の邪魔をして申し訳ございません」
顕彦は、そう言って、次の言葉を探した。
宜しければ彼方で一緒に見ませんか、とか、日当たりの良い、花が五分咲くらいの場所も有りますから移動しませんか、とか、普段なら平気で言える筈の言葉が、恥ずかしくて一言も言えない自分に、顕彦は驚いていた。
そして顕彦は気付いた。
何時もは、他人から何と思われても平気なので、そんな軽口が言えるのであり、今日は如何やら、そうでは無い様だ、という事に。
顕彦は、間違っても、目の前の人間に嫌われたくないのだった。
顕彦は再び、如何したら良いか分からなくなった。
顕彦が黙ってしまうと、娘は、はにかんだ笑顔で、言った。
「いえ、御花見が出来たので、良いのです。邪魔だなんて、そんな事」
娘の微笑みに、思わず顕彦も微笑んだ。
しかし、微笑む以外、何も言葉が出て来なかった。
―早く、此の人の名前を知りたいのに。此の、初桜の人の。
「此れで明日からも、やっていけそうです」
娘は、何かを覚悟した様な強い目をして、そう言うと、また微笑んだ。
顕彦は思わず聞き返した。
「え?」
「思うに任せない事が有っても、今年は一人で花見が出来た、と思うと、元気が出るのです。尤も、此れが三年振りくらいの花見ですけれど」
「思うに任せない事?」
「明日、夫になる人と会うのです」
娘の言葉に、顕彦は、頭を軽く殴られた様な衝撃を覚えた。
―嘘だろう。出会った日に失恋か。
「近々祝言を上げられるのですか?」
「あ、いえ。その、そんな、急に、という事では無いかもしれませんが」
娘は、そう言うと、赤くなって俯いて、続けた。
「此れが最後の、自分だけの時間になると思うのです」
娘の様子が、其れ程嬉しそうでも無かったのが、顕彦には気になって、聞いてしまった。
「その、もしかして、親が決めた、顔も知らない人、なのではないですか?夫になる人、というのは」
「ええ」
―やはり、そうか。
上方限の家では珍しくも無い話であるが、如何にかして、今からでも、其の縁談に横槍を入れて、自分が夫候補に名乗りを上げられないものだろうか、と、顕彦は、自分でも如何かしている、と思うくらい焦った。
「そういう人と一緒になる、というのは、如何いう気持ちですか?」
顕彦の問いに、娘は再び、キョトンとした顔をした。
ジッと顕彦の目を見る娘の目と、顕彦の目が合う。
「嫌われたくない、と思います」
「え?」
娘の口から出たのは、意外な返答だった。
あまりにも意外だったので、顕彦は再び、娘に問いかけてしまった。
「会った事も無い人と一緒になるのは嫌だとは思わないのですか?」
「そうですね。不安が無いと言えば嘘になりますが。でも、きっと其れは相手も同じだと思うのです。相手も、私に会った事が無いのですから。不安が全く無い状態で会いには来ないと思うのです」
「ああ、其れは…そうですね」
自分が嫌だと思う事より、相手の気持ちを先に考えるのか、と思うと、顕彦は感心して、続く娘の言葉を聞いた。
「そして、親が私の為を思って決めてくれた方なので、きっと良い方なのだろう、と思いたいし、親が折角決めてくれたのに、上手くいかなくて、親にガッカリされたくないのです」
「そういうものですか」
責任感すら滲む、ハッキリとした意思を感じる娘の言葉に、そういう風に考えるのか、と、顕彦は驚いた。
そんなに親を信じているなんて、と、顕彦は娘を尊敬すらした。
娘は続けた。
「相手が私を気に入るかは分かりませんが、相手に恥を掻かせたくない、とは思っています」
「…立派な事を考えていらっしゃるのですね」
親や相手の事を慮る其の思考に、顕彦は、娘なりの思い遣りを感じた。
―此の人を気に入らない人が居るだろうか。
そんな人間が居るなら、サッサと見切りをつけて、自分と一緒になってほしい、と顕彦は思った。
―何なら離縁の後でも良い。子連れになってしまっていても、此の人なら構わない。だって、此の人だ、と思ってしまったのだから。
其れは、顕彦自身も驚く様な強い気持ちだった。
会ったばかりなのに、と、自分でも、此の娘に対する強い気持ちを、如何して良いか、顕彦には分からなかった。
「あら」
顕彦が黙っている間に、娘は、桜の幹に咲いた花を見付け、嬉しそうに顔を寄せた。
「香りますか?」
「ええ、少し」
娘に問いかける、娘の答えを聞く顕彦には、今、白梅の香りしかしない。
此の娘の仄かな香りしか分からない。
顕彦は、頭がボンヤリしてきた。
「あ。失礼します」
突然、娘が、ハッとした顔をして、そう言った。
「え?」
急にザワザワと、人の声がした。
顕彦が声の方を振り返ると、清水衆の一団が居た。
全員白装束だが、恐らく花見の下見である。
大所帯なので、場所取りの予定地を探しに、若け衆が駆り出されたのであろう。
見れば、歩き始めた子等まで居た。
顕彦が娘の方を、もう一度見ると、もう、其処に娘の姿は無かった。
「顕彦さん!」
「先生!」
清水衆の若者が、数人駆け寄ってきた。
教え子の兄等と、教え子達である。そして、昨年生まれたのだという、未だ幼い、清水分家の双子が、大喜びで顕彦の脚に纏わりついて来た。
「おや、陶冶。薫陶。元気か?」
「騒がしくてすみません、先生。花見の下見のついでに、遊ばせてやろうかと、連れて来たもので」
顕彦の二つ下の若者、清水の双子の兄、清水繁雪が、申し訳なさそうに顕彦に会釈した。
若いが、端正な風貌で、弟の面倒をよく見る、しっかりした若者である。
顕彦も会釈した。
「いや、元気が一番ですよ」
顕彦は清水の双子の頭を撫でた。
其れから結局雑談が始まって、顕彦は其の場では、娘を追って探す事は出来なかった。
顕彦は、其の日から娘を探したが、如何せん手掛かりが少な過ぎた。
先ず、『明日』つまり四月四日に『夫になる人と会う』と言っていた。
恐らく見合いか結納である。
次に、『近々、という事でも無い』とは言っていたが、『祝言を上げる予定が有る』娘、という事である。
そして、身体的特徴としては、里の女性にしては高身長、という事である。
しかも、顕彦くらいの年、背格好の従兄が居る、という事だった。
顕彦自身が、里の中では高身長の部類なのである。
更に年が近い、となると、尚更候補は少なく、其々の従妹、となると、最早顕彦の知る限り、心当たりは全く無かった。
かなり聞いて回ったが、四月四日に結納をして居る家は無かったし、見合いをしている家も分からなかった。此れは、当たり前と言えば当たり前で、結納は兎も角、見合いとなると、非公式の見合いの場合、本人達にすら、明確に教えない親も多い。
後になってから、実は、あの場に居た、御茶を持って来てくれた人が相手でした、などという種明かしをされて祝言に臨む人間も居るくらいなので、顕彦が分からないのも宜なるかな、というところである。
先ず、説明すると、顕彦の住む土地は、特殊な里だった。
名は瀬原集落。
昭和に入った今も、所謂『隠れ里』である。此処は、『苗の神教』という宗教を信仰する人間が集まって暮らす場所で、外界からの接触を、ほぼ断たれた里なのだ。
瀬原集落の者が、集落の男は出稼ぎなどで外に出る事は有るが、女は、里の長の許可無しに集落の外に出る事は許されず、そして、集落の中には絶対に余所者を入れない決まりになっている。
前述の顕彦の副業、というのが『苗の神教』の術による祈祷師の仕事である。
里の男の出稼ぎ、とは、殆どが、此の祈祷師の仕事で現金収入を得てくる事なのである。だから、里の男の正装は白装束なのだ。作業用には白張装束を着、正装には、黒い烏帽子と白の袍を着る。浄衣を、もう一段階正装にすると、白の直衣になる。
集落の外に、神社の禁足地宜しく注連縄を張って立ち入り禁止にしている関係で、一応表向きは神道由来の宗教という事にして居る。
広義の意味での擬態と言おうか、白装束も其の一環で、普段も神官の振りをして祈祷師をしている次第である。
『瀬』の『原』という名前の通り、集落の中央には小川が流れている。
集落は、傾斜地になっていて、川を挟んで、傾斜地の上の、高い方を上方限、下の、低い方を下方限と呼び、二つの地域に分かれている。
そして、此の集落には、名字が五つしか無い。
戸数の順に『坂元』『実方』『清水』『吉野』『瀬原』の五つである。
坂元衆が一番少なくて、瀬原衆が一番多い。
名字が同じ人達の集まりを、衆、もしくは一門と呼ぶ。
つまり実方顕彦は実方衆なのだ。
瀬原衆は下方限、他の四家は上方限に住んでいる。
しかし、瀬原集落の最高権力者、長は、瀬原衆、下方限の者と決まっている。しかし、長というのは、下方限の瀬原衆の長なのだが、長の館は上方限にある。
昔から、上方限には裕福で立派な家が多いのである。
婚姻も、上方限は上方限内、下方限は下方限内で行われる。
昔は外から嫁を向かい入れる、という話も有ったと聞いたが、最近は聞かない。
昭和に入っても『隠れ里』を維持する為には、自然と其の様な流れになっていくのであろう。
上方限と下方限は、言葉も違う。
何故か、下方限の者は訛りが強いが、上方限の者は訛りが少ない。
御互い話は通じるし、上方限の人間も、下方限や、隠れ里の周囲の集落の言葉は話せるが、日常では殆ど使わない。
理由は様々に有るのだろうが、まるで、敢えて言葉を分けているかの様だと顕彦が思うくらいである。
上流の者になる程、公式の場では、御能で使われる様な言葉遣いをする。
女性も、上方限では、目下には男の様に、其の様な言葉で話す。
少なくとも、裕福な上方限の人間の方には、そうでもない下方限の人間と同じ振舞いをしない様にしている、と言う向きが有る様に、顕彦には感じられる。
そんなわけで、殆ど訛りの無い言葉を使い、香を焚き染められる暮らしが出来ている時点で、顕彦は、娘を上方限の人間だと判断した。
そして、里の中の桜並木で出会った以上、里の中の人間には間違いが無い。
隠れ里だから、というのも有るが、元々、余所者は入っては来られない様な、辺鄙な土地に在るのである。
さて、娘は恐らく、上方限の人間、という事は、瀬原衆以外の四家の娘である。
しかし、坂元衆は、四月四日は内神参で、氏を同じくする者が集まって氏神に礼拝をする日なのである。
見合い、となれば、大体は他家同士で行う。
狭い里なので、同じ氏の者同士の場合は、見合いをするまでも無く既に顔見知りの場合が多いからである。
内神参、という大事な日に、他家との見合いや、結納といった、他の祝い事をするとは、顕彦には思えない。
よって、顕彦の中で、坂元衆の娘は最初から除外された。
そして、顕彦の属する実方衆には、抑顕彦の妹二人の他に娘は居ない。
そして、他の二家は、数が多過ぎる。
しかし、何かと理由を作って、二家の全ての家を回ってみたが、最近見合いや結納をした、という家は無かった。
非公式の見合いの場合、本当の事を教えてもらえないかもしれない、とは覚悟していた。
其れでも、可能な限り、祝言にも、自分が見て回れるだけの者には全て伶人として参加したが、どの嫁も、あの娘では無かった。
抑、何時執り行われる祝言なのかも分からないのである。
そして、祈祷師の仕事や出版社との打ち合わせが有れば里に居ない事も有る顕彦なので、自分が居ない間にあった祝言の場合、確かめ様が無い。
新婚の家に、何かと用事を作って回る、などしてみたが、やはり、あの娘を見付ける事は出来なかった。
もしや、と、参加出来る限りの葬儀にも参加してみたが、埋葬者にも参列者にも、あの娘の姿は無かった。
あんなスラリとした美しい娘が目立たないとは顕彦には思えない。
しかし、そんな事を一年続けて、顕彦は、遂に諦めた。
顕彦の初桜の人は、桜が散るのも待たずに、顕彦の前から消え失せてしまったのである。
別に、一度会ったきりの娘に操を立てている心算は無いが、あの時の感情が強烈過ぎた。
顕彦は、あれ以来、パッタリと、そうした艶っぽい事に興味が無くなってしまったのである。
他人の話を聞く分には面白いが、自分が女と何かをしようとは思えなくなってしまった。
一度、あの、強烈な、此の人しか居ない、という、何の根拠もない確信を味わってしまうと、今までの遊びは、何だか紛い物、という気がしてしまった。
そして、あの、初桜の人に、羽織の様な扱いをされたら、自分は酷く苦しむであろう事に、顕彦は気付いてしまったのである。
自分がされて平気ではない事は、相手の気持ちは如何あれ、他人にもしない方が良い、と顕彦は思う様になったのだった。
そうして、気が付いたら八年経っていた、というだけの話である。
だから、顕彦にとって、あれ以来、誰かに求婚しようなどとは考えた事も無い事であり、自然、所帯を持つ、持たない、などという話は、何方でも構わない事になってしまった。
枯れた、と言えば其れまでの話である。
「神樣ガ私ノ魂ノ聲ヲ聞キ屆ケテクダサッタノデセウカ。」
ト言ヒ、象ハ喜ビノ淚ヲ流シマシタ。
「何故御泣キニナルノデス。此處デハ當タリ前ノ事デスノニ。」
犬ハ不思議サウニ言ヒマシタ。
「此處デハ、男モ女モ、何歲デモ、通ヒタイ時ニ、好キナダケ學校ニ行キ、幾ラデモ學ビタヒ事ヲ學ベルノデス。學校ニ行クノニ、特別ナ理由モ御金モ要リマセン。敎科書ハ御下ガリデスガ、仲良ク皆デ敎ヘ合フ事ガ普通デス。」
「其ノ様ナ事ガ」ト、象ハ、一層泣キマシタ。
「象ハ其ノ巨體デ學ビ舍ヲ壞スカラ、ト、學校ニ行ク事ヲ斷ラレマス。其レニ、學校ニ行クノニモ御金ガ高クテ、オ母サンガ身ヲ粉ニシテ働ヒテ、ヤット食ベテイケル我ガ家デハ、學校ニ行クノハ贅澤ナ事デス。私モ屑拾イノ仕事ヲシテ、オ母サンヲ助ケナケレバ、兄妹四人モ食ベテ行カレマセン。私ハ未ダ良ヒ。妹達ハ閉ジ込メラレテ、見世物ノ仕事ヲシテイマス。學校ハオロカ、外ニモ行ケマセン。」
「其ノ樣ナ非道ガ罷リ通ルノデスカ。」ト、犬ハ、信ジラレナイ、トイフ樣子デ言ヒマシタ。
「象ダカラ、女ノ子ダカラデス。其レノミガ理由デス。」ト、象ハ答へマシタ。
「實ニ不思議ナ御話デス。何故其ノ樣ナ事デ隔テヲ置クノデショウ。貴方ハ隨分美シクナヒ所カラヰラシタ樣デスネ。此處ハ學ビ舍ナド關係無ヒノデス。アノ美シヒ林ノ中ニ、皆ノ机ヲ置ヒテ學ブノデス。雨ガ降ッタラ御休ミデス。是非、一緖ニ行キマセウ。私ノ御辨當ヲ分ケテ進ゼマセウ。」ト言ヒ、犬ハ象ト手ヲ繋ギマシタ。
象ハ、犬ニ手ヲ引カレ、學校ヘ行キマシタ。
「此處ニ來タラ、好キナ事ヲ學ブ事ガ出来ルノデセウカ。ズット私ガ知リタカッタ事モ。」
「勿論。先生ハ其々デスガネ。年寄リノ犬も居マスカラ、聞ヒテミルガ宜シヒ。物知リデスヨ。サウデナクトモ、誰カハ貴方ニ敎ヘラレルカモ知レマセン。」
「私ガ學ビタヒト言ッテモ、誰モ笑ヒマセンデセウカ、分不相應ダト。」ト言ヒ、象ハ悲シヒ顏ヲシマシタガ、犬ハ、更ニ不思議サウニ言ヒマシタ。
「分トイフモノガ私ニハ分カリマセン。貴方ト私、何ガ違ヒマスカ。御腹ガ空イタラ物ヲ食ベテ、アノ花ヲ見レバ美シヒト思フノハ同ジデセウ。貴方ヲ笑フ意味ガ、私ニハ分カリマセン。」
※浄衣 麻製の白衣白袴。立烏帽子を合わせる。
※裕福 金持ち。裕福な衆、という意味の方言。