坂元栄 尚顕
朝、初に持たされた、団子の詰まった包みと、空の御重の包みを持った栄は、尚顕に会いに、実方分家に赴いた。
そして、尚顕と対峙した栄は、此の、一つ上の幼馴染の友人に、見た事も無いくらい酷い隈が出来ているのを、驚きながら見詰めた。
「其の、目の下のは、隈?昨日、眠れなかったの?尚兄」
青白い顔をして、いや、その、と尚顕が口籠るので、栄は心配になって、何処かに座る様に勧めた。
庭から縁側に通されたので、栄は、尚顕と並んで、縁側に腰掛け、傍らに御重を置いた。
藍色の着流しをスッキリ着こなしている尚顕は、今朝は、幾らか、昨夜よりは落ち着いている様に見えた。
教員になってからというもの、稼ぎを貯めていると見えて、全く着物を新調しなくなったが、元は洒落っ気の有る、華やかな友人だった。
こんなに顔色が悪くなければ、今日も、実に若々しい、良い男ぶりだったと思う栄である。
暫く、そうして黙って座っていた尚顕が、漸く口を開いた。
「返事が来た。良いって。要さんが、是非御願いします、って」
「わ、良かった!良かったねぇ」
栄が心から祝福した次の瞬間、尚顕がボロボロ泣き出したので、栄は思わず、ええー、と言った。こんなに泣く尚顕を、栄は、もう、十数年くらい見ていなかった。泣くのを恥と捉えているからだ。特に、目下の栄の前で泣くとは、余程の事と思われた。
―物凄く不安定だな、今日の尚兄。
「大丈夫?」
栄が手拭いを渡すと、すまん、と言って、尚顕が、手拭いで顔を覆った。
そういう時はねぇ、と、栄は、精一杯優しい声で言った。
「顔を洗っておいで、って、言われた事が有るよ、昔。其れ、貸すから」
尚顕は、そうする、と言って立ち上がった。
「うん、此処で待っているから」
尚顕を待つのに庭を眺めながら、栄は、嘗て、顔を洗っておいでと言ってくれた人の事を思い出していた。
あの人との思い出は、春が多い。
あの人は、栄が進学の為に里を出た後、里の桜を、全部切ってしまった。
今は秋である。
初との思い出は秋が多い。
此れから、四季折々の思い出を、初と作るのである。
―あの人は、如何いう気持ちで桜を切って、如何いう気持ちで白百合を育てているのだろう。
そして、桜が見られないからと、白梅を植えようかと考えて、怪我をして、其の人から白百合を贈られた顕彦の事を、栄は自然と思い出していた。
―何かが、あと一つ揃っていたら。皆、仲良く出来たのかな。
しかし、あの儘では、栄は分家の五男の冷や飯食いで、きっと、其の身分では、本家の長女の初とは一緒になれなかったであろう。事に依ると、双子も生まれなかったかもしれない。
栄は、そっと、手元にある団子の包みを撫で、其れを作った人の事を思った。
全ては繋がっていて、全ては独立している。生まれるのも死ぬのも、必然であり、偶然である、という気がする。
一つだけ確かなのは、今の自分は、あれらの出来事の結果である。
―あの儘だったら、ただの冷や飯食いの五男で、嫁も貰えなくて。兄上達に甘えながら、御情けで実家に居候させてもらって暮らして、親の世話をしていたか。祈祷師をして、里の外をうろついて、殆ど里に居つかないか。
しかし、『其の自分』の事を、栄は、もう自分だと思えない。
何が、誰にとって、一番良い事だったのかは、栄には分からない。
稍あって、尚顕が戻ってきて、再び、栄の隣に座った。
「有難う。手拭いは洗って返すよ」
「スッキリしたなら良かった」
―顔を洗うの、効果有るよね、やっぱり。
昔を思い出して少し寂しくなったので、栄は、其れを振り払う様に微笑んで、言った。
「昔は俺の方が泣き虫の寂しがり屋だったのに。珍しいね、尚兄が」
泣くなんて、という語尾は、敢えて飲み込んだ。揶揄う意図は栄には無いので、泣いた事を、あまり指摘するのも、目上の尚顕に悪い気がしたからである。
「改めて、おめでとう。本当に良かったね。…嬉しくないの?」
尚顕は俯いて、言った。
「その…上手くいったらいったで、喜久ちゃんが、如何思っているのか考えると、怖くなって。あの子は、あんなに顕彦さんの事を…」
確かに、喜久は一言もそんな事は言わないが、顕彦に惚れ込んでいたのは、栄にすら分かったのである。何年も喜久を目で追っていて、遠慮していた尚顕には、尚更、よく分かったであろう。
そりゃあ、と尚顕は続けた。
「要さんが了承してくれなければ辛かったとは思うけど。当たり前だけど、了承してくれたのは飽くまで親であって、喜久ちゃんが俺を如何思っているのかは、分からないから」
―いや、親が決めた人と結婚するのが、此処では普通だからさ。実は結婚自体には、喜久ちゃんの意思は関係無いじゃない。先ず求婚して、結婚出来なきゃ始まらない土地柄なんだからさ。…って、口を挟むのは、目上には流石に止めておこう。
喜久には悪いが、喜久には結婚相手は選べないし、結婚相手と上手く行く、行かないは、一緒になってから悩むものなのだ。申し訳ないが、そういう土地柄だから、仮に尚顕が嫌でも、我慢しておくれとしか言い様が無い。
―ま、上方限の人間なら織り込み済みの事だから、尚兄も、そういう事を言いたいんじゃないだろうし。
尚顕は、ボソリと続けた。
「親が決めたから渋々一緒になってもらうのは、何だか悪い気がして」
―うん、そうだよね。そういう事が言いたいんだろうとは思うんだけど。
喜久の気持ちに配慮する分には、其れは尚顕の優しさなので、良い事では有るのだが。
―否、其れは、一緒になる以上、一緒になってからでも幸せにすると思わないと、始まりを如何こう言っても、恋愛結婚自体が珍し過ぎる上方限では仕方が無いんだってば。先ず、親が認めてくれないと。逆に、親が了承さえしてくれれば、絶対結婚出来るんだから。親が認めてくれなかったら、駆け落ちでもするか、っていう、極端な話になっちゃうでしょうに。
実方家の人は少し夢想家なところが有るよな、と栄は思った。
―映画の観過ぎじゃない?
初に鍛えられて、以前程感傷的にならなくなった栄である。
―現実は甘くないし、物事は計画通りにいくとは限らないんだってば。おっとりした美人の嫁を貰ったけど、殆ど甘い事なんか口にしてくれないし、美人の婚約者だった頃も、俺が里に居ないのを寂しがってくれた様子も無かったよ。片思いじゃなかったらしいから、まぁ、其処は本当に良かったんだけどさ。
しかし栄は、今は、黙って尚顕の話を聞く事にした。
答えを求められている相談と、ただ悩みを聞いてほしい長尺の語りは、入り口が似ているので、如何いう反応をしていいか迷う。
其処を見誤って、自分がこう思うという説明を始めると、大体相手に、そんな事は分かっている、と叱られる。如何思うか、と聞かれた時だけ返事をするのが得策である。
第一、友人とは言え、一つ年長の、尊敬すべき相手である。実際、努力家なところや、上下関係の厳しい此の土地柄で、義を言うな、と、栄に言わない、優しい人柄を、栄は本当に尊敬している。だから、尚顕が求めるなら、意見を求められれば言うし、黙って聞いていてほしいのなら、其の様にしよう、と思い、栄は、尚顕の顔を見詰めながら、黙って話を聞いていた。
「御前は如何だった?」
「え?」
「相手に、自分の事を気に掛けてほしい、とか、思った?」
「うーん…。其れは、好かれたくはあったけど」
何しろ、両想いだったと知ったのが、昨日の夕方だったので、何と答えたものだろうか、と栄は思った。
「一緒になるのが嫌ではない程度に思っていてくれたらいいや、と思っていたんだよね」
「御前、そんなに慎ましかったのか?」
尚顕が、驚きの声を上げて栄を見た。
―え?普段の俺って、そんなにも、慎ましそうには見えないの?
栄は少し動揺したが、続けた。
「相手より三つも年下だし、六年も待たせたんだもの。待ってもらえただけでも有難くて、他の事は、あんまり」
「…そうだったのか。いや、あんまり、御前と、こういう話をした事が無かったな、と思って。御前が、お初さんに惚れ込んでいたのは、見ていれば分かったけどさ」
「そうだね」
照れ臭いので、栄が、意図的に、こういった話を避けていたのである。
「そりゃ、せめて、同い年だったら、とか、早く大人になりたい、って、思わなかったと言えば嘘になるけど」
其れでも、一目惚れした初の事が諦めきれなくて、柄にも無く頑張って、結婚まで漕ぎ着けたのだった。
―そういう意味じゃ、ハナさんに出会わなければ、今の、努力して医学生になった自分は居ないんだろうな。
尚顕が、ボソリ、と言った。
「…若しかして、俺、贅沢を言っていると思われているのか?」
「いや、そんな事無いけど…。でも、ちょっと羨ましい。俺の時は、そんなに、すんなりいかなかったもの。六年だよ?相談かけて、次の朝には了承されているなんて、昔の俺に言ったら、夢だと思うんじゃないかな」
尚顕は、あれ?此れ、夢?と呟いた。
落ち着いて、と栄は言った。
「尚兄、先ず、隈凄いから、寝てないでしょ。夢じゃないと思うよ」
思わず吹き出しそうになりながら、栄は、手元に置いておいた団子の包みと御重の包みを持ち直した。
「其れじゃ、俺、ちょっと要さんの所に伺ってくるね」
「え?態々、俺の為に、様子を見に?」
身構えた尚顕に、栄は堪えきれず、笑って、何言ってるの、と言った。
「こっちも用が有るの。要さんの所に御重を返さなきゃ。うちの奥方が、御重の御礼に団子作ったから、其れも渡さないといけないし」
ついでに喜久の様子を確認してくる心算ではあるが、尚顕の為ではあっても、そうだと言って、恩を着せる気は無い栄である。
「妙にでかい荷物だと思ったら。…煮物作り過ぎたり、団子作ったり、働き者の嫁だな」
尚顕が、褒めるとも貶すともつかない、何とも抑揚の無い声で、そう言うので、そうでしょう、と栄は答えておいた。
実際、下働きにテイを雇っているのだから、炊事場に立たなくても良い身分の人なのだが、初は毎日、何か一品、其れと、双子達の為のおやつを作ってくれるのである。
尚顕は珍しく舌打ちして言った。
「惚気かよ」
「何とでも」
初と両思いだったと六年越しに知って、今、とても気分が良いので、栄は、何を言われても平気だった。
栄は、じゃあ帰りに、また寄るから、と言うと、笑顔で去って、要宅に向かった。
長女 惣領娘の転訛。
義を言うな 「目上に意見するな」という風潮。




