坂元栄 追い打ち
下男も呼んで、二人がかり用を足させ、布団に寝かすと、顕彦が眠そうな顔をしていたので、夕餉まで少し眠る様に言って、栄は再び、顕彦の左足を籠に入れてやって、上から掛物を掛けた。
顕彦が眠ったので、納戸の戸を閉めようと、栄が外を見ると、人影が在った。
「安幾ちゃん」
栄が声を掛けると、か細い声が問い掛けて来た。
「顕彦さん、御加減、如何でしょうか」
「痛み止めが効いてる。先刻眠ったところ」
安幾は、そう、と言って、納戸の中を、そっと覗き見た。
一つに束ねられた黒髪が、赤っぽい野良着の肩を、サラリと滑る。如何にも、炊事場から抜け出して来た、という姿である。
「普段は玄関から来るのに。此の前といい、安幾ちゃんらしくもない。上がらせて頂けば?」
「あの、いいの。顔を見に来ただけだから。窓が開いているなって思って、来てみただけ。起こしたくないし」
安幾は、其れだけ言うと、頬を染めて、踵を返して走り去った。
庭に居た下男が、安幾と擦れ違い、おや、と言った。
「何時もの御嬢様ですね。前髪の可愛らしい事で」
毎日顕彦の世話を手伝ってくれているのは、此の下男で、瀬原完三という。
此の下男は、栄の家の下働き、瀬原テイの息子である。
栄と同い年なのだが、糺から実方本家に口利きして、此処の下男になった。
顕彦の生徒でもあったので、雇い人の顕彦とは、上手く遣っているらしい。
テイ同様に、痩せた、優しそうな、素朴な顔立ちをした人物である。
祈祷師は向かないから、と、きちんと尋常中学校まで出たが、奉公人になってしまった。口では、そういう風に言う完三だが、寡のテイを置いて里を留守にするのが忍びないのだろうと栄は思っている。此の、テイの末息子は、孝行息子なのだ。
栄は、同じ学校に居る時は、其れ程、喋ったりする仲でも無かったのだが、卒業以降は、此の様にして、よく喋る様になった。
何時も一緒に居る仲間が違っただけで、別に、御互い、悪い感情も無かった上に、六年程前、実は御互いが乳兄弟だった事が判明したのである。あれ以降、此の人物に対して、栄は、グッと親しみが増した。
頭も良く、気が利くし、よく働いてくれるので、顕彦も重宝しているとは思うのだが、折角なので、何か、完三の知性を生かせる様な仕事は無いものだろうか、と、栄は常々思っている。
しかし、今回の顕彦の件で知ったが、痩せた、中背の見掛けに寄らず、完三が随分力持ちなのには驚いた。力だけなら、此の乳兄弟に敵わないかもしれない、と思う栄である。其の知性は勿体無いが、力仕事には適材と言えよう。
「え?安幾ちゃん、毎日?」
栄の問いに、人の好さそうな乳兄弟は、はぁ、と言った。
「門の前にも、もう一人、毎日いらっしゃいますよ。中には入っていらっしゃいませんが」
「喜久ちゃんかな」
「多分。別の、坂元分家の。キッチリ髪を纏めた、キチンとした感じの御嬢様ですよ」
うわぁ、と栄は呟いた。
完三は、穏やかに微笑んで、言った。
「先生、もてますねぇ」
完三は、雇い主の顕彦を、昔の儘、先生などと呼ぶ。
見掛けばかりは、確かに、下働きよりも品が有り、着物が野良着でなければ書生の様な雰囲気が有る男である。
完三は、うんうん、と、ゆっくり頷きながら、仕事に戻っていった。
栄は、そっと納戸の戸を閉めた。
―…年頃の娘さんが、二人も、毎日、通いつめちゃってねぇ。其れも、家の仕事を抜け出して。…もててはいるけど、此れは、なかなか、面倒な事に…。
若い娘さんを、二人も思い詰めさせている当の本人は、あどけない様子の寝顔で、スヤスヤと眠っていた。
―…如何するのかなぁ、顕彦さん。
「え?喜久ちゃんと安幾ちゃんが?」
初が枕元に用意した箱膳の夕餉を食べながら、顕彦が、驚いて、米粒をポロリと落としたのを、初が、もう、などと言いながら拾う。
「彦兄、御存じなかったのね」
初が、顕彦の膝に手拭いを掛けながら、意外そうに、そう言った。
―いや、寝かせてたからなぁ。知る由も無いってやつで。俺も完三さんに聞くまで知らなかったし。
「ハナさん、御存じだったんですか?」
栄の問いに、初は、ええ、と言った。
「上がっていかないのか聞くんだけど、声を掛けると、二人共、走って帰っちゃうの。罪作りでいらっしゃる事ねぇ、彦兄」
顕彦は、青い顔をして、ごくん、と飯を飲み込んだ。
『喉を通らない』時って、こういう顔をするんだろうな、と栄は思った。
暫く、頑張って食べようと試みていた顕彦は、遂に箸を置いてしまって、言った。
「え、如何したら良いの?俺」
如何したらって、と、初が困った様に言った。
「時間が解決するでしょうからねぇ。放っておく?」
「ハナさん、流石に其れは、あんまりでは?」
―放っておいていいもんなの?あんな、思い詰めた感じの娘さんを二人も?
結構凄い事を、おっとりと言う人だよな、と、栄は毎回思う。
そうねぇ、と、初は、おっとりと言った。
「彦兄が独身でなくなれば万事可決でしょうけど…。まぁ、彦兄が、誰か好い方を見付けるか、あの子達が他所に御嫁入り出来る様に口を利いてあげるとかね」
顕彦が、青い顔の儘、栄の方を見た。
栄も顕彦に同情した。
―いやいや、君とは結婚出来ないから代わりの嫁ぎ先を探してあげたよ!なんて振られ方、したくもされたくもないでしょうよ。
「ハナさん、流石に其れは、あんまりでは?」
でも、と初は言った。
「安幾ちゃんは未だしも、喜久ちゃんは数えで十八だもの。気を持たせた儘にした方が酷ではなくて?どのみち、親御さんが、そろそろ縁談くらい考えていらっしゃるでしょうけど。此方から何か出来る事が有るとしたら、好い方を紹介して差し上げるくらいではないかしら。あとは、そうねぇ…」
顕彦は、食欲を無くしたらしく、何も食べずに、初の顔と栄の顔を、交互に見ている。
―確かに、何か、続きを聞くの、怖いな…。
「酷い嘘をついて、幻滅させてあげるとか?」
「させてあげる、って。え?例えば…?」
顕彦が、恐る恐る、という感じで、初に尋ねた。
「そうねぇ、隠し子とか、如何かしら?」
―如何かしら、じゃないよね?おっとりと、何を言っているの?
顕彦が一瞬、両目をフッと閉じた。
栄も、冷や汗が出そうになる。
「ハナさん、流石に其れは、あんまりでは?」
でも、と初は言った。
「顔を一目見たい、心配だって、毎日通ってしまうくらい思い詰めているわけでしょう?二人共。其のくらい酷い嘘でないと、ガッカリしないかもしれないわよ?」
顕彦の目が、フッ、と、右に傾いで、また真ん中に戻った。顔色は青い儘である。
貧血でも起こすのではないか、と、栄はハラハラした。
初は尚も続ける。
「如何したって、一人しか貰ってあげられないのだもの。何方を選んでも、一人は悲しむのでしょうし、何方も選ばないのなら、二人共悲しむのでしょうし。其れなら、他に御相手を見付けて差し上げるのって、そんなにおかしな事かしら?」
―うーん、そりゃそうだけど…。
「そうかもしれませんが、その、ハナさんは、二人の事、如何思ってらっしゃいますか?」
「え?私?」
「二人共、うちの分家の子ですから、俺は昔から、良い子達だって知っていますが、女性の目から見て、二人は如何ですか?」
顕彦が、初の答えを待っているかの様に、両手の指を組んで、胸元に置いた。
「私は、何方も可愛いと思っているわ。私より、六つも八つも年下なのよ?其れだけで、とっても可愛い気がしてしまうの。安幾ちゃんなんて、お仲ちゃんと同い年ですものねぇ。何方も、とても良い子よ。性格は違うけど。喜久ちゃんは、キチンとしていて、良い奥方になると思うわ。安幾ちゃんは、いじらしいわね。あとは…。違うところと言えば、安幾ちゃんは、彦兄の顔を直接見に来てしまうけど、喜久ちゃんは多分、彦兄が治るまで、門から上には来ないかもしれないわね」
「ああ、其れは。安幾ちゃんにしても、普段は礼儀正しいのですが…」
「いえ、礼儀と言うか…」
初は、少し言い難そうにしてから、顕彦の方を見た。
―おっとりと、でも、此処までズバズバ言っておいて、未だ言い難い事が有るんだ…。
何か怖いな、と思って、栄は、初の言葉を待った。
「憎からず思っている人に、祝言には呼んでおくれ、なんて言われたら、私だったら、次に会う勇気が無いわね。既に玉砕した様なものだもの。喜久ちゃんが門から上に来ない理由って、別に、礼儀だけとは限らないでしょう?」
―うわー、言っちゃったよ。
顕彦が、両手の指を組んで胸元に置いた儘、ドサッと、背後に積まれた、畳んだ布団に体を預けた。顔は其の儘、天井を仰いでいる。
初は、おっとりした優しい声で、更に追い打ちを掛けた。
「ハッキリ断っておあげなさいな。何方も御好きではないのでしょう?」
顕彦が、別に嫌いとは、と、ボソリと言ったが、初は、あらまぁ、と、穏やかに、世にも優しい声で、割合酷い事を言った。
「傷付けて悪者になりたくないのね。やっぱり幻滅されるのは嫌?」
―おっとり、ズバズバと。身内の率直な意見って恐ろしいよな。そんな、サラッと、何の嫌味も無く言うんだ…。
栄は、初の言いたい事は分かるものの、顕彦の方に同情した。
―其れはそうでしょうよ。若い娘さん二人に、態々幻滅されたい男が居たら、会ってみたいもんだよ。相手から見たら煮え切らない態度だろうけど、悪者になりたくない気持ちは分かっちゃうな…。
初は、うーん、と言って、天井を見た。兄と同じ方向を見ているが、意見は全く違う。
「だって、仰っていらしたでしょう?迷っている時点で違うか、今じゃないんだって」
顕彦は、其れはそうだけど、と言った。
―ああ、あれ、ハナさんにも言ったんだ。
あの時は女性の例えを使うのを避けてもらったというのに、今は、実践で、喜久か安幾の何方かを選ぶ方法に当て嵌められているとは、実に皮肉である。
―『どっちの女か迷ってるうちは、どっちの女も、実は、そんなに好きじゃない』、か…。うーん、やっぱり、残酷じゃない?此の例え。物件の例えにしてもらって良かった…。
顕彦は、遂に、顔を両手で覆ってしまった。
「何か、悪事に加担している様な気分になるんだよぅ」
―あーあー。ハナさん、追い打ちを掛け過ぎだよ。
顕彦の嘆きは止まらない。
「今までさぁ、二人共、可愛がって、大事にしてさぁ。祭りじゃ、悪い蟲がつかない様に、夜道じゃ、怖い思いをさせない様に、って。其れがさぁ、俺が悪い蟲みたいだろ、此れ」
―確かに…。派手な顔の、十近く上の、結婚してくれる気も無い男に入れあげて、家の仕事を抜け出して、其の男の家に毎日通い詰めています、ってなると、親からしたら…。益虫ではないかも…。
しかし初は、嘆く実兄に対して、全く調子を変えずに、うーん、と言った。
「恋愛の対象として見る事に、罪悪感が御有りだと仰るの?」
―いやー、相手が十近く下だと、そうかもよ?
栄は、顕彦の気持ちが、よく分かるので、顕彦を庇う気持ちで、言った。
「妹みたいって事ですよね。そういう風には思えない、って」
―其れか先生と生徒、下手すると半分我が子気分だったわけでしょう?何せ此の人、隠居の年寄気分だったんだから。
栄からしたら、まぁ、そうだろうな、という感じがする。栄も、二人の事は、そういう風には思えない。
しかし初は、更に言い難そうに言った。
「其れ、御自分が言われたら、如何?彦兄が、もし、憎からず思っている方に、そう言われたと思って御覧なさいな。顕彦さんの事は好きだけど、兄弟みたいなものだから、そういう風に思えないって言われたら、如何思われて?なかなか酷いわよ」
栄は、其れを聞いて、自分の方がグサリときた。
実は其れは、嘗て自分が恐れていた事である。
初が、もし、年下の自分に、弟としか思えないから一緒になれないと言って来たら、と思うと、呼吸が止まりそうになったものである。
―幸い言われなかったけど、もし言われていたら、と思うと、かなり強烈な体験になっていた事は間違いないよな…。
顕彦は、両手で顔を覆った儘、ぐぅ、と言った。
―あ、此れ、ぐうの音?
栄は、顕彦の様子にヒヤヒヤしながらも、少しだけ、其の発見を面白く思った。
初は、おっとりと、ああ、と言った。
「でも、良いかもしれないわねぇ。妹としか思えないって、素直に言ってみるのも良いのではなくって?」
顕彦と栄は、同時に咳き込んで、バッと初の方を見た。
「ハナさん、流石に其れは、あんまりでは?」
―だから、其れ、言っちゃうと傷付けますってば。俺なら立ち直れないもの。
「嘘が嫌なら、誠意をもってぶつかるしかないもの。少なくとも、二人共、諦めはつくかもしれなくてよ。傷は浅いうち、諦めは早いうちよ。次に行けないでしょう?」
次、と言って、顕彦が青くなった。話の展開に頭がついていかないのだろう。
栄も血の気が引くのを感じた。
―恋愛の話だったと思ったんだけど。そんなに切り替え早くいかないといけないのか?世知辛いな…。
栄は、何故か自分が、若い娘二人に振られた様な気分にさえなった。
初は、きょとん、とした顔をしている。
此処までの言い様、全てに、全く悪気が無いのである。其れだけに、妙に胸にチクチクと刺さるものが有る。
だって、と初は言った。
「如何して、あの二人が思い詰めているか、考えた事が御有りかしら?」
顕彦が、如何してと言うと、と妹に問いながらも、思考を手放す寸前の顔をしている。
―凄い。もてているのに全然楽しそうじゃない。
栄は、いっそ気の毒だな、と思いながら、義兄の顔を見た。
「…顕彦さん、一度、痛み止めを飲みませんか?はい、此方、御白湯と薬です」
一応、少量ながらも、夕餉を胃に入れてはいるのだ。そろそろ飲ませても良かろう、と栄は判断した。
「有難う」
顕彦は、栄に礼を言って、薬を受け取り、白湯で、自分の口に薬を流し込んだ。
顕彦が薬を飲み終わるのを待って、初が言葉を続けた。
「此処は、女の方から、御嫁さんにしてほしいなんて言える土地柄ではないのだもの。御分かりになるでしょう?」
顕彦と栄は、ハッとした。
「下方限ならいざ知らず、上方限じゃ、恋愛結婚は珍しいわ。親が決めた人に嫁ぐのが普通よ。だから、放っておけば、親が決めるんだから、ある意味解決してしまうのよ。如何すればいいか、という御話だから、色々申し上げましたけれど。もし、喜久ちゃんや安幾ちゃんが彦兄と一緒になりたかったら、あんまり、時間も方法も無いのよ。十八過ぎて、二十歳過ぎて、となると、薹が立ったと言われてしまうわよ。そういう土地柄でしょう?」
―ああ、成程。地域性の話と、男性と女性の、結婚に掛ける時間の感覚の違いってやつか。俺は、数えで十五の時に御見合いしちゃったから、感覚的には、あんまり理解出来てないかもな。
其の点は、栄も、初を六年待たせてしまったので、申し訳ない気持ちは有る。
「つまり…顕彦さんから御仲人様に相談かけて、親に打診してもらうか、親に泣き付いて顕彦さんに話を持ち掛けてもらうくらいしかない、というわけですね」
栄の言葉に、初が、ね、と言って頷いた。
「そうでしょう。親に泣き付ける様な性格でなかったら、結局、待つしかないのよ、彦兄から御仲人を立ててもらうのを。彦兄に好きになってもらうしかないの。あとは、親が偶然、彦兄との御見合いを段取りしてくるのを待つくらい。だからと言って、自分から直接、彦兄に思いを伝えたら、親に、はしたないと言われるでしょう。親を怒らせたら、上手くいくものも上手くいかないわ」
其れは思い詰めますね、と栄が言うと、そうよ、と、初は、おっとりと言った。
「黙っていたら、親が誰かとの縁談を持ってくる年頃ですもの。…如何にかして、自分の思いを察してもらうしか方法が無いって、辛いと思うわよ」
顕彦と栄は、顔を見合わせた。
ね、と、初は優しく言った。
「スッパリ諦めさせてあげるか、あとは、察していない振りをし続けて、親が決めた相手とか、御仲人を立ててきてくださった御相手と一緒にならせるか、他に御相手を見付けてあげるか。結果的には、其れが親切よ。気を持たせて、相手が薹が立つまで待たせてしまったら、傷付けるよりも罪作りな事になるわよ。其方の方が、責任が重いと思うもの」
―筋は通っているし、理屈は分かるんだけども。
「…二人の気持ちを無視し続けられますか?顕彦さん」
「…ごめん。今、顔見ないで?」
顕彦は、また、ドサッと背後の布団に体を預けて、顔を背けた。
―…此の儘寝かせた方が良いかもしれない。




