坂元栄 坂元富
顕彦が栄の目を見て来た。
黒目勝ちな双眸が、光源の、そう多くない納戸で、窓からの光を受けて、少し光って見える。
時々、こういう、吸い込まれそうな瞳で他人を見るのだ。
色々な娘さんに、さぞ誤解された事でしょう、と、心配にはなるが、実は此れは、顕彦が、とても沢山、物を考えている時の癖なのだ、という事を、栄は経験的に知っている。
「お富さんって、どんな人だった?」
「え?」
「俺が長を尊敬してたのはさ。一つは、女児に字を教えていたからなんだよ。あんな事にはなってしまったけど」
「ああ、そうでしたね」
長は、義理の従妹である、坂元本家当主、操の一人娘、坂元富に、字を教えていたのである。
其の富が、祝言の後に、栄の兄である誠吉と逐電してしまった。
其れで、富の婿になり、坂元本家を継ぐ筈だった誠吉に代わり、今では栄が坂元本家の後継なのであり、更に、二人の逐電が、此の隠れ里での坂元家の立場を悪くした一因となったのであるが、抑、何故二人が里を出たのか、という事について、知る者は殆ど居ない。
「お富さんって、そんなに綺麗な人だったのか?俺、見た事無いんだよ、一度も。そんなに、色々な男の人生が狂うくらい美人だったのかと思ってさ」
栄は、一瞬で、自分の顔が耳まで赤くなるのが、自分でも分かった。
顕彦は、気の毒そうに言った。
「あ、いや、言いたくないなら良いんだ。大体分かった」
そんなになのかぁ、と、顕彦は、腕を組んで、首を傾げた。
その、と、栄は慌てて言った。
「そうですね。二回会ったきりですが、そうだと思います」
実際、栄には義姉にあたる富を心に懸けてしまったばっかりに、とんでもない事を仕出かした男達が居るのだ。
「一度だけ、操殿と、夕方、うちに、内密にいらした事が有りました。古風な御高祖頭巾などで顔を隠して、見事な、孔雀柄の、霞色の振袖を御召しになっていて。何でも、お富さんの気分が優れなかったとの事で、息抜きだったという事ですが。あとは、祝言の日ですね。其の二回だけ御会いしましたが」
へぇ、と言って、顕彦が、未だ栄を見詰めている。『どんな人だったか』という問いの答えが欲しいのだろう。
「その…妖艶な感じがしました」
「え?御前、数えで十三歳くらいだっただろ?子供から見ても、そんなだったのか。お富さんって、ハナちゃんと、学年違いの同い年だったよな?」
そんなに?と言って、顕彦は、益々首を傾げた。
栄は余計赤くなって、言った。
「いえ、かなり前の話ですから。数えで十三だった人間から見たら、そうだったのだろう、という気もしますが。兎に角、親切にして頂きました。猪肉の味噌漬けを作って、兄に持たせてくださったり、浴衣を縫ってくださったりしましたよ」
「ほう」
「今考えると、巫女さんにしては家庭的だった、と言うべきでしょうか。当時は子供だったので、親切だという事以上には、何も考えませんでしたが」
未だ、顕彦に見詰められているので、栄は俯いて、続けた。
「…その、髪が、とても長くて。巫女さんだったのですから、当たり前ですが。色白でした。…あとは、その…」
いい匂いがしました、と、栄が、真っ赤な顔の儘、小声で言うと、顕彦が栄に謝った。
「あ…、いいや、いいや。何か…ごめん。有難うな」
気不味い空気になってしまった。
稍あって、顕彦が、厠に行くのを手伝ってくれと言うので、栄は救われた思いがした。
―助け舟を出してくれたのかもしれない。
あの日。
奇しくも、顕彦に男女の仲を教わった日、栄は、初めて富に会ったのだった。
霞色の美しい振袖と、豪華な金糸入りの帯に流れる黒髪は、座ると囲炉裏端の床まで届いていた。
栄は、あんなに豊かな美しい、長い髪を見たのは、あの時が初めてだった。
そして、兄との睦まじい様子。
あんな、艶っぽい事の苦手な筈の、おっとりした誠吉が、ウットリとしていて、別人の様だった。
心持ち傍に寄ると、香の香りが鼻孔を擽った。あの香りは、今でも覚えている。
芳しい残り香が、富が帰った後も、広間に仄かに漂っていた。
栄は其の晩、とても他人には言えない夢を見て、次の日は朝から洗濯だった。
―深く掘り下げて聞かれなくて良かった。第一、こんな事話したって、数えで十三の時の、俺の主観でしかなくて、『どんな人だったか』っていう問いの答えではないもの。二回会ったくらいじゃ、俺も、よく知らないのと同じだし。
少なくとも、新妻の兄に聞かせたい内容ではない。
―誰かの人生を狂わせてしまう程の美人だったかって?
其れを問われたら、栄は、そうだと思います、としか答え様は無い。
兄の逐電は残念だが、本音としては、富が、遠方に居る義姉で良かった、と栄は思っている。
たった二回会っただけで、此れ程、強烈に覚えているのだ。
あれ以上の関りが有ったら、自分も、若しかして、何か悪い心を抱いてしまっていたのではないか、と、栄は、少し怖くなる事が有るのである。




