坂元栄 例え話
栄は、俄かには信じられない、という気持ちで聞き返した。
「情熱が無くて、あれだけの事が成し遂げられるのですか?」
目の前の人物は、栄が知る中でも、実は、かなりの傑物である。
尋常中学校卒業資格を取得出来る学校の設立。教員養成。男女共学の実施。絵画、音楽、情操教育の導入。
勤続十年程で其れ等を成し遂げた、三十路前の義兄は、其の容姿に反して、非情に多くの堅い肩書を持っている。
「絶対に成し遂げたかったから、情熱を持たない様にしていたんだ」
顕彦は、眉一つ動かさずに、そう言った。
「最初から全力で遣って息切れすんのが何より嫌だった。自分には手に余る仕事だって知ってたから。夢も見たくなかった。憧れと違うからって、嫌になりたくなかったから。ただ、成し遂げる、とだけ決めていたから、ずっと、同じくらいの力加減で、成し遂げるまで続ける、と思ってた。不真面目かな。でも、俺の器量じゃ、ずっと全力で、情熱を傾けてやっていたら、身がもたない」
「いいえ。其れ、其れを全力っていうのではないでしょうか。だって、成し遂げたのですから」
自分の持つ力を万遍無く使ったわけである。義兄を見る目が変わりそうだ、と栄は思った。
―元々、尊敬はしていたけど。思ったより、自分を客観的に見る人なんだな。…絶対、此の、派手な、綺麗な外見で損してるよ。こんな人だって、外から見て分かるわけない。特に、十七歳の頃の顕彦さんなんて、遊び人の見た目だったもの。
「はは、そうだなぁ」
顕彦が、そう言って、少しだけ寂しそうに笑うのを、栄は見逃さなかった。
「もう、教職には戻られないのですか?」
「荻平さんにも言われたなぁ、其れ。如何しようかな」
なんてな、と言って、顕彦は、遠い目をして、続けた。
「迷ってる時点で、もう違うんだよなぁ」
はて、と栄は思って、言った。
「戻るか如何しようか、迷っているなら、戻る気が全く無いわけではないのでは?」
「いや、何て言うかな。好い例えが思い付かないけど」
顕彦が、こういう言い方をする時は、本当に、あまり好い表現をしないので、栄は、少しヒヤリとした。
顕彦が続けた。
「女が二人居て、どっちの女にするか迷ってる時」
「あ、すみません。やっぱり、違う例えで御願い出来ませんか」
―此の儘話を進めるとなると、嫌な予感しかしない。多分途中から、聞いていられない様な内容になるよ、此れ。女二人を如何しようって言うのさ。
「出来たら、話の途中でハナさんが納戸に入ってきて、ウッカリ聞いてしまっても大丈夫な例えが良いのですが」
「ああ、そういう気遣いは大事だよな」
顕彦は、そう言って、うんうん、と頷いてくれたので、栄はホッとした。
―良かった。あんまり、昼間から、品の無い話をするものでは無いからね。御婦人の出入りも有る場所なのだし。
しかし、はた、と栄は気付いた。
―…あれ?逆に、気遣いで例えを変えてくれたって事は、妹に聞かせられない様な話をする心算だったって、認めた形になっちゃった?…またさぁ、此の、綺麗な、軽薄そうな見た目に合う、そんな話題、出しちゃうんだもの。親しみ易いけど、肩書と年齢の割に重厚感が無いから、余計誤解されちゃうんだよなぁ。全く偉そうに見えないのは、此の人が威張らないからだから、其処は尊敬すべき点なんだけど。
「そうだなぁ。学校に通うのに、下宿を選ぶ時」
「あ、何か、良さそうな気がしてきました。有難うございます。其の例えで続けて頂けると有難く存じます」
「物件として、一つは、学校から近いんだが、狭くてオンボロ。一つは、比較的築浅で広めだが、学校から近くない。何方の物件にするか迷う」
「はい」
―ああ、外では俺も下宿住まいだから、想像はし易いな。
「学校から近くて、もう少し広い所が有ったらなぁ、とか考える」
「はい」
「ところが、学校から遠い、オンボロ物件なのに、部屋から見える窓の長めに一目惚れしてしまった。だから其の物件にする」
「はい」
―一目惚れね、成程。そういうのは分からないでもない。
「そういう時ってさ、自分の都合が、もう、関係無いんだよ。学校から近い遠い、あの物件の、あそこがイマイチ、此処さえ良ければ、なんていうものが無いわけさ。其処に住みたいんだ、としか思えない。本当に何かを決めてしまう時って、迷えないんじゃないかって、俺は思うんだよ。例え其れが、自分に都合が悪い事でも。一度、『此れだ』っていう気持ちを知ってしまった後では、もう、知る前には戻れないんだ。他の物件を見てみよう、なんて気が起きないんだよ。…まぁ、其れは、俺の場合なんだけど」
―へぇ。…えーと。女の人の話…じゃなくて…物件…。いや、抑は、教職に戻るかって話で、此の例えを出してくださっているんだよな?ふーん、例えとして、一目惚れして、此れだと思い込める様な瞬間が有った人生だったって事かな?…教職を選ぶ時に?じゃあ、教職って、天職だったんだと思うけどねぇ。
顕彦は続ける。
「どっちの物件か迷ってるうちは、どっちに住んでも、そんなに変わらない。どっちの下宿も、実はそんなに好きじゃないのさ。住めば都かもしれないけど。あとは、時期が今じゃない。前見た物件の方が良くなる事も有るだろう。ただ、其れが、今が其処に住む時期じゃない。だから、何でもそうさ。教職も同じなんだ、俺にとっては。戻ろうか如何しようか迷う時点で、もう違う。自分の手に余っても、多少無理をしても教員を遣ろう、っていう気持ちが、もう無いんだ。有ったとしても。今じゃない」
「…そういうのを、情熱っていうのかと思っておりましたが」
成程、と言って、顕彦は鼻の頭を、人差し指で少し擦った。
「…実は、教職に対して俺は情熱を持っていた、と?こりゃ一本取られたねぇ」
栄は、話が一旦切り上がったので、立ち上がり、窓を半分閉めた。
―秋だもの、午後から冷えて来るかもしれないからね。体に障ると良くない。
栄は、元の場所に正座し直してから、丁寧に、有難う存じます、と言った。
「やっぱり、女性に例えないでくれて良かったと思いました。そして、大変よく分かりました」
顕彦は、栄の言葉に笑ってくれたが、物件を女性に置き換えて今の説明を考えてみると、少し笑えない栄だった。
―多分、流れで『どっちの女か迷ってるうちは、どっちの女も、実は、そんなに好きじゃない』、みたいな感じになってたよね。はいはい、物件の例えで正解。
窓を半分だけ閉めたせいか、馥郁とした白百合の香りを、先程よりは強く感じた。
―白い花なら何でも好き、香りが有れば尚良い、か。そんな優しい口癖を持つ人なのに、自分を高潔に見せようって事には腐心しないんだから。勿体無い。見栄を張らないのは格好良いとは思うんだけど。
「其れにしても、例えでは御座いましょうが、窓の眺めに一目惚れとは、風流な事ですね」
栄の心からの言葉に、顕彦は、やはり、御道化た様に、そりゃあもう、と言った。
「庭木に白梅植えようかってんで、足がこうなったんでね。風流、風流」
顕彦は、そう言って笑いながら、プイッと白百合の方を見た。
「親友ねぇ。相手が俺を如何思っていたかなんて、分からないのに」
「…荻平さんが、そんな事を言ってくる方が、俺には意外でした。あまり、そうした事に干渉して来ない人だと思っていましたが」
「…長を許してやってくれ、綜と周の為に教員に戻ってくれ、ってさ」
「はぁ…。其れを、態々言ってきたんですか?」
―大きな御世話って感じがするけどね。
長と顕彦は、別段、表立って争っているわけでもない二人なのである。顕彦とて、大っぴらには長の批判などせぬから、不仲などと思っている人間が、里にどのくらい存在するであろうか、というところである。仮に、其れに気付いたからといって、事情も知らぬ筈の荻平が口を出す問題ではない。職の進退も、顕彦が決める事である。
「でも、そんな事を言ってくるくらい、荻平さんと顕彦さんって、仲が良かったという事でしょうか」
顕彦は、え?と言って、キョトン、とした。
「そりゃ、荻平さんに悪い感情持った事は無いよ。何回か一緒に飲んだし。仲悪くないよ」
―俺には、かなり、荻平さんと顕彦さんって、仲が良さそうに見えたんだけどね。
「其れって、本当は、荻平さんが、長や顕彦さんと親友になりたかった、という話なんでしょうか」
顕彦が、およ、という、変な声を出した。
だって、と栄は言った。
「長の補佐が、そんな事、態々口出ししてきます?分は弁えている、立派な人じゃないですか」
瀬原荻平は、長を補佐して、上京する仕事にも同行する様な、言わば腹心である。荻平の立場は今や、里でも、かなり上の方である。
―いや、態々、長の子を連れて御見舞いに来て話したのが其れ、ってさぁ。荻平さんが『本当に言いたい事』なんじゃない?
顕彦が思っているより重要な事なのではないか、と、栄は思う。
わっかんねぇなぁ、と言って、顕彦は、頭の後ろで両腕を組んだ。
「そういうのって、態々言う事なんだろうか。今日から御友達になりましょう、親友になりましょう、って、言わないといけないんだろうか。何年振りに会っても昨日も会ったみたいに話せるとか、助けて遣れるとか、其れで良いんじゃないだろうか?」
「…じゃあ、やっぱり、荻平さんって友達なんですね」
―其の理論だと。
顕彦は、少し考えてから、そうかもねぇ、と、アッサリ言った。
―うーん。
「其れが多分、荻平さんに伝わってないんだと思います」
「え?」
「顕彦さんが、そういう風に思ってるって、荻平さんに分からないんだと思います」
言わなくても分かるだろう、という考えは、時として危険である。
下方限出身の人間で、長の補佐として成り上がって来たという自覚が有るであろう荻平にしてみれば、生まれ付き上方限の本家の息子で、里で唯一の教員だった顕彦というのは、同い年でも、本来、そう気安く接せない存在の筈なのだ。
自分も、本来は本家の後継では無く、分家の五男だったから、生まれは上方限の人間でも、荻平の其の遠慮は理解出来る気がする栄である。
―あれだけ分を弁えた人だと、俺と御前の仲じゃないか、なんて、上方限の人に、自分から言えないだろうし。相手も、顕彦さんが、そんなに気安く考えてくれているとまでは、思ってないんじゃないかなぁ。
上方限と下方限の身分差に隔てを置いて考えていないのが顕彦の方だけなのだろう、と、栄は思うのだ。
親しみ易い顕彦と、荻平が仲良くしたいと考えていて、顕彦も荻平と仲良くするのが平気でも、荻平の方から親友面は出来ないのではないか、と。
しかし顕彦は、栄の言葉に、不思議そうに眼を瞬かせた。
「俺と友達になりたいかねぇ?」
―貴方の嫁になりたい若い娘さんなら、二人程知っておりますがねぇ。また、其れを知った時と同じ様な反応をしているなぁ。自分が、其れ程だ、とは、思ってないんだろうね、やっぱり。ま、其れこそ大きな御世話になりそうだから、言うまい。
稍あって、顕彦は、頭の後ろで組んだ手を解いて、膝の上に置いてから、言った。
「長が取るべきは、俺じゃなくて、誠吉さんの手だったと思うけど。俺には其れこそ、あの二人が、仲が悪い様には見えなかったからさ」
「そうですね。仲が良さそうに見えました、当時。尤も、誰かと諍い合うという事もまた、滅多に遣らない兄なのですか」
あの、おっとりとした兄が慌てて泣き付いたのを、何とか引き受けてくれる様な間柄だったとは言えるのだろう。本当に、如何してあんな事になったのか、未だに栄には分からない。
「あの二人で、里を改革しようとしてくれたなら、どんなことが起きただろうかと思うよ。俺が思うに、あいつは、選んじゃいけない方を、選んじゃいけない方を、と、選んでいったんじゃないかなぁ。誠吉さんの手を取って、仲良く出来る機会は、絶対有った筈なんだ。どんな理由が有ったって」
其処まで言うと、顕彦は、一度言葉を切って、続けた。
「ああ、だから一つは、許せないのかな。俺も、長という人を信頼していたんだな。其れを、裏切られた様な気分になったのかもしれないな」
「顕彦さんが許せないと思われるのは仕方の無い事です」
実際、長は、其れだけの事はしたのだ。
あのさ、と顕彦は言った。
「其の、許せない相手の子を可愛がれるっていうのは、そんなに変わってるか?」
「…そんな事まで言われたんですか?」
「そういう風に割り切れない人も居る、ってさ」
―能々、御節介な話だな。他人の行動に、そんなに口を出したい気持ちの方が理解出来ない。
双子を可愛がっている立場からすると、栄も似た様なものである。何故あの子達に肩入れするのかと問う人間が居たら、放っておいてくださいと言いたいものだ。栄が幼子を蹴飛ばしでもすれば気が済むとでも言うのか、という話である。
其れに、前提として、自分が相手を如何思っているかという事と、自分が相手に対して如何振舞うか、という事は別である。
腹で相手が如何考えているかなどとは、考えても絶対に分からない事であり、顕彦が誰を如何考えていても、表面上だけでも子供を可愛がる事が出来るのなら、其れで百点満点である。
そういう意味でも教職は天職だったのでは、と栄は思う。
「御気持ちを代弁するのは不敬かと存じますので、多分、の話ですけど。顕彦さんって、自分より弱い者に攻撃出来ないのだと思いますよ。相手が子供なら尚更です。だから、其れは本当に、長は関係無い話なんでしょう、顕彦さんにとっては。双子を可愛がっている事実と、長を許しているから出来る振舞いは別です」
顕彦が、栄の顔を、ジッと見て来た。
栄は続ける。
「そんな話を引き合いに出す時点で、ちょっとズレています。荻平さんも、顕彦さんの親友になりたいなら、未だ未だですね」
顕彦が、買い被ってくれちゃって、と言って、笑った。
「良いね、御前。俺と親友になるかい?」
「もう義兄弟なので遠慮します」
そう言って、栄も笑った。
そうやって暫く笑い合ってから、顕彦が、ポツリと言った。
「本当にな、子供は怖いよ。弱い。何時死んじまうかと思うもんなぁ」
「妹さん達の事ですか?」
此の実方本家は、本来は六人兄妹だったと聞く。初と仲の間に二人女の子が居たらしいのだが、夭折してしまったのだ。
栄も、八人兄妹だったのに、三男の新三と四男の誠吉、五男の栄しか成人しなかった。
其れも、末の栄が生まれた時には、既に、兄妹は兄二人しか生きていなかったのである。
其れを思い出すと、栄も、子供が無事に育つ事の大変さに思いを馳せざるを得ない。
顕彦は、静かに、そう、と言った。
「此処だ、此の部屋でな、家族皆で寝てたんだよ、子供の頃な」
此の辺りでは、納戸とは呼んでいても、奥座敷の様な使い方をする家が多いのだ。娘など、大事な者達を、家の奥に隠して寝かせる部屋として使われる。此処もそうなのだ。竹組みの天井が美しい、四畳の納戸は、此れまでも、其の様にして使われてきたのだった。
顕彦と栄は、二人で部屋を見渡した。
顕彦は、訥々と語った。
「俺が数えで七つの時にな。ハナちゃんの下の妹の澄が、数えで二つだったんだが、急に亡くなって。そして、俺が数えで九つの時も、もう一人生まれた妹の末が、また、数えで二つの時に亡くなって。熱が急に上がるんだよ。怖かった」
乳児突然死であろう。よく分からない原因で、子供が、満二歳までに突然亡くなってしまうのは、間々有る事である。
「俺が数えで十一の時、お仲ちゃんが生まれてな。可愛いけど、怖くてな。毎日、何度も、あの子が息をしているか、寝ている所に確認しに行った」
顕彦は、再び、遠い目をして、言った。
「理解が出来ないんだよ。ちょっと前まで納戸で一緒に寝ていたのに、もう居ないんだって事が。如何しても分からなかった。妹二人が居ないという事が理解出来る様になるまで、かなり時間が必要だった。だから、お仲ちゃんが生まれる時も怖かったよ。また、あんな思いをするのかなって」
顕彦は、妹二人を、未だに、とても可愛がっている。栄には、其の理由が、よく分かる気がする。
「だから、弱い者は構ってしまう、というのかな。子供は守るものだ、里の宝だ、って、良い言葉だと思うよ。銀も、金も玉も、何せむに、勝れる宝、子に及かめやも。親が気に入らないからといって、其の子を如何こうしよう、というのは、俺には、よく分からない考えなんだな。そうじゃない人間が居る事は知っている筈なんだが。…子を亡くせば、親は、あんなに悲しむんだぞ…。誰かの大事な幼い者を、大事にしないなどとは…」
其れで良いんじゃないでしょうか、と栄は言った。
「実際、綜なんて、ヒヤヒヤしましたよ、今日は。シッカリしている様に見えても、未だ未だ体が小さいんですね」
―大人に比べて体力が無い。あれは、ちょっと怖かった。
まるで気を失う様に眠ってしまったのである。其れは、外で、もし術を使ったら、途中で倒れて、家まで帰り着かないかもしれない、という事を示唆していた。其れは行き倒れであり、其の儘攫われたら神隠しである。
そうだな、と顕彦は言った。
「あれで、十一月生まれの割には、同学年の中でも背高なんだがな。本当にな、子供は…。目が離せない気持ちになる」




