坂元栄 思い出話
「ああ、嫌だわ」
荻平と双子が帰った後、黄粉団子を顕彦に食べさせて、痛み止めを飲ませながら、初は目頭を押さえた。
納戸の壁には、早くも、周の描いた顕彦の絵が貼ってある。
「毎回、何だか悲しくなってしまって。いっそ、御見送りしないで帰してしまいたいと思ってしまうのだけれど。そんなの、後から、もっと悲しくなるだろうし。其れにしても、周ちゃんにあの顔をされると弱いわ」
栄も、分かります、と言った。
「あの、ションボリした顔をしてから、小さーく、手を振るんですよね。綜に促されないと、さよならも言わなくて。あれ、『さよなら』って言いたくないんですよね、きっと…」
そうなのよね、と、栄に同意する初の目が赤い。
顕彦も、そうだなぁ、と相槌を打った。
顔色が少し悪い。
「今、籠を持って来させていますよ」
「あ、バレてた?」
顕彦は、本当は、足が痛過ぎて、布団が触れるのも辛い筈である。痛み止めが効かない時は、籠に足を突っ込んで、布団が直接、足に触れない様にして寝ているのを、栄は知っていた。
来客の前では噯にも出さなかったが、膝に子供を乗せる度に振動が有った筈である。
―意地っ張りにも程が有る。
下男が籠を持って来てくれたのに礼を言って、栄は、顕彦の左足を、そっと籠に入れさせて、上掛けを足まで被せた。
有難う、と言う顕彦の額を、初が手拭いで拭いた。
脂汗である。
―痛そうだなぁ。痛み止めの薬が早く効くといいけど。
「夕餉の支度をしますから。此処は御願いしても宜しいかしら?」
そう言う初に向かって、栄は、はい、と言って頷いた。
立ち去る初の背に、大袈裟だなぁ、と、顕彦は声を掛けた。
「こう面倒見るのに時間使ってもらっちゃ、悪いよ。新婚なのにさ。一人でも大丈夫なのに」
「一ヶ月は安静にしましょう。何日かは、吐く程痛い筈です。足首だって、膝くらいの大きさに腫れているではありませんか。二週間は、松葉杖無しでは、一人では歩けない筈です。厠は下男がついてくれるでしょうし、炊事場も人が居ますから、平気は平気でしょうけど、妹なら心配する状態でしょうね」
顕彦は、片目を閉じて、小さく舌を出した。
ほら、痛いじゃないか、と思い、栄は嘆息した。
「誰も居ない方が、よく眠れるなら、退散しますが。薬は飲みましたしね」
「いや、ちょっと聞いても良いか?」
「何でしょう」
「綜、もう術が使えるんじゃないか?」
「いえ、綜と約束したので言いませんが」
「其れ、殆ど言っちゃってるぞ」
あーあー、と言って、顕彦は天井を見た。
「まぁ、慣れるしかないからな。其のうち、体力がついて、上手くなる」
「最近、術が使えない子が増えているというのは本当ですか?」
「そうなんだよ」
皮肉にも、学校教育が瀬原集落に普及するのと比例して、術が使えない児童が年々増えているのだという。
やれやれ、と、顕彦は言った。
「何も、祈祷師を養成したかったわけじゃない。学校では体術も教えているから、祈祷師が出来なくても、用心棒の仕事くらいには就けるだろうが。…苗の神教の里とは言えなくなる気がするな」
「そうですね」
顕彦も栄も、別に、苗の神教も、其の宗教の術も、如何でもいいと思っている。
だが流石に、里の存在意義が揺らぐのは、其れで良い、と言い切っていいのか分からない。
だから御互い、如何したものかな、と思っている、という次第である。
「な、栄。明日さ、時間有るか?ちょっと話が有る」
「分かりました。明日も昼から伺います」
「有難う」
薬が効いてきたと見えて、顕彦の顔色が少し良くなったので、栄はホッとした。
ところで、と顕彦は言った。
「長と俺って、仲良かった?御前から見て」
「んっ?」
あまりにも突拍子も無い事を言われたので、藪から棒ですね、と言って、栄は少し咳き込んでしまった。
「いや、荻平さんが」
「荻平さんが?」
「長と俺が、親友になり損ねたんだろうな、なんて言うから」
「はぁ?そんな事を言われたのですか?」
「そうなんだよ、俺は別に、長と仲が良かった心算は無かったからさ」
「はぁ、一の同士ってやつですか。まぁ、でも、仲は良い様に見えましたよ、当時。大正十五年の春までは」
「え?何で?」
「何と申しましょうか。俺、長が他人を頼ったのを見たのが、顕彦さんだけなんです」
顕彦は、大きな目を見開いて、鳩が豆鉄砲を食った様な顔をした。
「うわ、何て顔をなさるんです」
―見慣れていた心算だったけど、顕彦さんが目を見開くと、目が普段より更に大きいのに驚くなぁ。
「そんなに意外でした?」
「そんな事有ったっけ?」
「あの、覚えていらっしゃいますか?あの頃、男女の仲を教えてくださったのを。性教育と言ったら宜しいでしょうか」
「ああ、あれな」
「あれって、今思うと、うちの兄に泣き付かれた長が、顕彦さんに丸投げしたんですよね」
「ああ、そぉんな事も有ったねぇ、いや、全く」
当時、諸事情で、栄に男女の話をしなければならなくなった兄の誠吉が、偶然其の場に居合わせた長に泣き付いたのである。
今にして思うと、如何も、誠吉は、そういう話が苦手だった様なのだが、長も、自分では遣りたくなかったと見えて、何のかんのと理由を付けて、顕彦に教え役を擦り付けたのである。
あの時の兄と同じ年になった栄だが、今考えると、誠吉が其の役を遣れば済んだ話である。
顕彦も、話の流れからいくと、無関係というわけでも無かったのだが、そういった繊細な話を頼むとなると、長は、顕彦の事を結構信頼していたのではないかと思う次第である。
「あの頃はなぁ、本当に。懐かしいなぁ。誠吉さんって、何ていうか、放っておけない魅力の有る人だったよ。長はなぁ。ああ、そうだな、長は」
顕彦が、其処で言葉を切ったので、栄は聞いた。
「長は、顕彦さんから見て、どんな人でした?」
「不思議な奴だった。喋んないんだよ、あんまり。俺とは無理して話してたみたいだけど」
「え?そうだったのですか?昔は時々、励まして頂いたり、御説教されたりしたものですが」
「え?そんなに構われてたの?栄」
顕彦と栄は顔を見合わせた。
「じゃあ、あの性教育も、御前の為に長が一肌脱いだって事なのかね?」
「あ、そうですね。先生を呼んでくださる、と仰っていました」
「益々、よく分からんなぁ」
「口数の少ない方でいらしたのですか?」
「荻平さんや三郎次さんと居ると聞き役だったよ、あいつ」
「え?荻平さん達って長の取り巻きですよね?取り巻きって聞くと、こう、太鼓持ちみたいな感じだと思っていましたけど。長の方が聞き役って、如何いう事なんですか?でも、長が周りを引っ張っている感じはしていましたが…」
「な?よく分からんだろ?」
「はぁ、思っていた感じではない様子ですね」
「今なら、何と無くな。もしかしたら、本当は、綜みたいな奴だったのかな、って、思わなくはないが」
「…ああ、無口な甘え下手」
「そう。…周りには無理して合わせてたって事なのかな。其れで、本質的には聞き役だけど、乞われれば指導者役も遣ってたって事だろうか。まぁ、周りを引っ張っていくのが仕事だからな…。出来ませんとか遣りませんってわけにはいかないだろうが」
「長と、どんな話をなさっていたのですか?」
「仕事の話が多かったな。大して弾まない様な話」
「ああ、里で唯一の教員でいらしたし、そうですよね」
「…仕事の事以外、何を話せばいいか分かんない奴、って思ってたけど。今考えると、あの頃、本当は、俺、仕事の話がしたかったのかな」
顕彦は、白百合を見詰めた。
開いている納戸の戸と戸から吹き抜ける風に、仄かに白百合の香りが乗っている。
「教育の話なんて、考えてみたら、あの時は、あいつとくらいしか出来なかったんだよなぁ」
「ああ、そうでしたか」
「青臭い目標みたいな話、してた。誰にもした事が無い様な話、何でか、しちゃってたな。何でだったんだろう。不思議だったな。何言っても、口で言う程、怒ってない様だったし」
綜の目は、あいつそっくりだねぇ、と、顕彦は呟いた。
「そう聞くと、凄く仲が良かったみたいですけど」
「え?」
「長に、あんな口を利いていた人も、俺は、顕彦さんくらいしか知りませんし」
「いや、あれは。何か、敬うと気の毒な気がしてたから。本当は、あんな無口な奴なんだ、と思ったら、敬われる事も重荷なんじゃないかと思って。同い年の俺くらいは」
「え?そんな事思ってたんですか?」
―其れって、相当仲良かったのでは?
そんな事を見抜いていた人間が、当時何人居ただろうか、と栄は驚いた。
いやぁ、と顕彦は言った。
「本当に、考えてみたら、長と俺って、如何いう関係だったのかな」
「教育に対する情熱を語る仲だった、という事ですか?」
「否、俺は情熱を持たない様にしていたから」




