実方顕彦 親友
分かった、と言って、荻平は、漸く顕彦の方を見た。
「俺からは此れ以上聞かないよ。勿体無いね、あんた達は、親友になり損なったのかも知れないなぁ」
「親友だぁ?」
うわ、吃驚した、と言って、荻平は笑った。
「顕彦さん、顕彦さん、大て声出したら傷に響くよ」
「何だよ、親友って。長には、荻平さん達が居るだろ」
「取り巻きと親友っていうのは同じかい?」
其の問いに対する答えが、顕彦には、よく分からない。
良いじゃない、と荻平は言った。
「親友。欲しくないの?…顕彦さんてさ、色々持っているから、欲しがらないんだろうね」
「何?」
前も、そんな事を言われた様な気がするな、と顕彦は思った。
荻平は続けた。
「人を妬んだり、人の物を欲しがったりしないのは、顕彦さんが、色んなものを、もう持っているからだろ?そして、沢山持っているから他人に分け与えられるって事だ」
違うよ、と顕彦は言った。
「自分が持っているって事を知ってるだけだ。欲しいものも有ったよ」
皆何かしら持っている筈で、其れに気付いていないだけなのではないかと顕彦は思う。実際、欲しいか否かは別として、顕彦には、荻平の様な、妻子という存在は居ない。
「『有ったよ』って。今は無いの?」
顕彦が黙ると、荻平は、ほらぁ、と言って笑った。
「欲しいものは無いだろう」
―昔、桜の下で会った人に、もう一目だけでも会いたかった時期が有るとは、口が裂けても言えない。
其れこそ、金や権力が幾ら有ったところで手に入るものでは無いし、そんな青臭い感傷を他人に知られるくらいなら、欲しいものなど無いと思われていた方がマシである。
顕彦は、じゃあさ、と言った。
「荻平さんの欲しいものって何?」
「上方限の娘を嫁に出来る自分」
顕彦は、其の、訛のほぼ無い言葉を聞いて、荻平と再び見詰め合った。
―ああ、荻平さんって、人の目を見て話すよな。
そう、上方限と下方限の身分差は、未だに埋まっていない。
長の補佐役、という立場に居る荻平でも、結局、保親より権力を持っていないのは、持って生まれた『下方限の生まれ』という身分が変えられないからなのだ。
『方限』という言葉には、元々、地域、と言うくらいの意味合いしかないのに、結局、昭和になっても、此の瀬原集落では、一昔前に、顕彦が、長や荻平達と語らった時の状況と、殆ど変化していない。
其れは、ある意味では、瀬原集落の教育の問題より深刻だった。
以降、荻平が訛る事は殆ど無かった。上方限の者に、此の人物が言葉を合わせる様になって久しい。今日は懐かしい話をするから、顕彦達の前でだけ、『昔の荻平』を出してくれたのだろう。
―成程、上方限の、本家の若様か、俺は。何でも持っている様に思われても…。
荻平は、穏やかに微笑んで、言った。
「何年もかけて、漸く手に入れたんだ。学校を出ていて、長の補佐役で、上方限の娘を娶れる自分を。全部、長に寄りかかって手に入れたものだけど」
「知らなかった」
長の作った『水配り』という婚姻制度を、荻平が、其の様に受け取っていたとは思わなかった顕彦である。
顕彦の表情に気付いたらしい荻平は、ふふっ、と笑って言った。
「上方限のまともな家じゃ、あんな制度、参加したがらないんだろうけど。俺には夢みたいな話なんだ。でもさ、こんな、損得尽くめの関係、親友って言えるか?」
損得って、と、顕彦は言った。
「其れに、分からないだろ、婚姻制度に参加する家の方が、何時か、多くなるかもしれない。時代は変わるから」
其れはあるかもね、と言って、荻平は笑った。
そして、遠くを見て、言った。
「決起の時さ、俺達は、弥五郎の為に、長を頼って、長一人に、色々背負わせたんだよ。もっとさ、相棒みたいな、背中を預けられる様な人が、長にも居ればなって思ったんだよ。あの、ギリギリの時にさ、本当は頼ったらいけなかったんじゃないかって思って。相手が長という立場だから頼ったんだ。長で、偉いから、何とかしてくれないか、って。そんなの、やっぱり、友達じゃないよ。損得だよ、やっぱり。そして、俺が決起に参加しなかったのだって、多分、三郎次を手当てしている方が良い、長と一緒に決起に行くのは損だって、頭の何処かで思っていたからだと思う」
再び、二人の間に沈黙が流れた。
納戸の空間を、許し、撫でる様に白百合の香りが流れ、満たす。
どんなに美しい色や姿をしていても香りの無い花、というわけではなく、此の人物は、努力して様々な事を成し得たのに、結局、此の様にして、自身を卑下する。
あの決起は、多くの人間の心に傷を負わせたのだろう、と顕彦は思った。
先に口を開いたのは荻平だった。
「軽蔑するか?こんな方法で奥方手に入れて」
「俺は誰の事も裁かない。そんな立場に無い。もう子供も二人目で、もし奥方が婚姻制度によって、不幸な結婚をしたと思っているんだとしたら、其れは夫婦で話し合った方が良いんじゃない?とは、聞かれたら言うけど」
荻平は笑った。
笑った方が良い顔だ、と顕彦は思う。
「まぁ、幸せだけど」
「荻平さん、今日の御見舞いの品って、もしかして惚気?」
「あ、俺、手ぶらだった」
荻平さんって何なの、と言って、顕彦も笑った。
悪い悪い、と荻平は言った。
其処に、トタトタと、周が遣って来た
『Just as a flower which seems beautiful and has color but no perfume, so are the fruitless words of the man who speaks them but does them not.』
John Dewey (1859年10月20日 - 1952年6月1日)
『美しいだけで香りの無い花と同じように、口ばかりで実行に移さない人間の言葉は無益である』
アメリカの哲学者。人間の自発性を重視する教育思想が、世界中に影響を与えた。科学的方法のみが人間の善をもたらすと考え、宗教的な制度や実践が人間生活において果たす役割を賞賛はしたものの、有神論における神のような、静的な観念への信仰を拒絶した。




