実方顕彦 教育
稍あって、荻平が訝しげに口を開いた。
「如何いう事だ?」
「いや、退職した理由は一つじゃない。別に、あの双子の為だけに辞めたんじゃない。でも、もう教職に戻る気は無い」
「あんなに懐いてるだろう?寂しい子達だから、学校で味方になってくれないか」
「味方になる為に辞めたんだ」
荻平は、そう言う顕彦の顔を見た。
「本当に?」
「眉、動いてる?」
「いや、冗談じゃなくて。本当に?」
顕彦と荻平は、暫し見詰め合った。
稍あって、荻平は、顕彦の言葉を信じた様子で、そうなんだ、と言った。
「え、如何いう事だ」
「桜の葉は、秋には何色に変わりますか」
「え?」
顕彦の突然の問いに、荻平は眉を顰めた。
「何だって?」
「教科書通りだと、黄色って答えになる」
「ああ、そうだっけ」
荻平は、遠い昔を思い出す様に目線を少し上に上げて、そう言った。
「ところで、周は何て答えたと思う?」
「答えを間違ったのか?赤とか?」
「黄色に、黒い点々が入っている色です。茶色い所も有ります」
「ほー」
映像的な答えだねと、荻平は褒めた。
確かに、秋の木の葉が目に浮かぶ様な回答である。
「そうだろ。でも、黄色って答えないと、学校だと丸が貰えないんだよ」
「成程」
「もう、指導は尚顕になっててさ。俺は後ろで授業風景を見てたんだけど。尚顕が困っててさ。指導する時、尚顕は黄色っていう回答を期待するわけ」
「ああ、そりゃね」
「で、もう仕方が無いから、尚顕も、はい、黄色ですね、と、流して進めるわけだ」
「うん」
「間違ってないよな、どっちも」
「そうだなぁ。自分だったら、何て言ったかなぁ」
「其れが、後でな、周が、他の子に、黄色って言えばいいだけなのに、って、言われたらしいんだよ」
「うーん…」
「其れで、ああ、此れはいかんな、と思った」
「其の時だけか?」
「いや、其の…。綜は兎も角、周は、かなり個性的なんだよ。他にも色々あった。画家とか、芸術家に向いてるんだろうな。芸術家肌と言うか」
「そうなのか。子供らしい、可愛らしい子だと思っていたが」
「綜は綜で、甘え下手で、物凄く気を遣う子なんだよ。気の毒なくらい。だけど、気を遣うからなのか、教科書通りの答えが言える。二人共、頭は良いぞ、かなり」
「でも、黄色いと言えないと丸が貰えない、と」
「そう。でも、周は間違ってない。其れで、ああ、引き時かな、と思った」
「引き時って?」
「此れが、俺の遣ってきた事だったんだよ」
顕彦は、そう言って、溜息をついてから、続けた。
「先ず、読み書きが出来なければ。算術が出来なければ。皆が学校に行けなければ。女児も男児と同じ様に学べなければ。そう思って、遣ってきた。実際、時代が、そうだった。こんな僻地の隠れ里でも、外と同じ水準の教育を、と願うなら、一つ一つ、そうやって、教えていかなければならなかった。でも、時代はまた、変わってきている。明治、大正。今は昭和だ。読み書きが出来る親の子供が就学しているのさ。今は、ある程度親が字を教えてから入学させる家もあるだろ?前とは、ちょっと違うんだ」
「うちもだ。言われてみれば、親世代は読み書き出来る人が少なかったけど、俺は出来るわ。自分の子に何か、ちょっと教える事も有るな」
「金持ちしか遣らなかった様な事が、全員遣るのが当たり前になると、如何しても、其れが合わない者や、遣りたくない者が出てくる」
荻平は、納得した様に、コクコクと頷いた。
「弥五郎や、周か。…方向性は違っているけど、そうなるよな」
「何故勉強を遣らなければならないのか分からない、って、考えてみたら怖い事だよ。贅沢品だった、読み書き、算術を習うっていう行為が、此の里では、無償の強制になったって事なんだ。時代が全然違うよ。其れが、俺達の世代だろう?弥五郎さんは、算術を習うのを強制に感じていたんだから。そして周達になると、弥五郎さんや俺の世代が親なんだからな。其処で、前の遣り方で遣っていると、やっぱり歪みが出てくると思う。昔が間違っていた、とか、そういう事じゃない。時代と価値観が変わってしまったんだ。前の時代の価値観を、今の時代の価値観で語って否定する必要は無いが、『教科書通り』というのが、もう、恐ろしい言葉じゃないかね?俺達の頃は、教科書自体、有った様な無かった様な、って感じだったじゃないか」
そうだね、と荻平は言った。
「でも一応は、此れが正解です、というのが無いと、教えるのも難しいよな」
そうなんだよな、と顕彦も、同意して言った。
「周に、黄色って言えばいいだけなのに、って言った子も、どの子が、如何いう言い方をしたのかは分からないが、間違った事は言っていない。でも、周も間違っていないんだよ。ただ、黄色だって教えてきたのは俺だったんだ」
荻平が、うーんと唸って、腕を組んだ。
顕彦は続ける。
「間違ってないのに丸が貰えないっていう経験を、ずっとさせるのが、本当に、周の為になるんだろうか?」
「何だい、何時も、双子達に、世間を知れって言ってたじゃない、顕彦さん。『要領良く生きていける方が勉強より大事だ』って。教科書通りの答えを覚え込ませておけば、世間で要領良くやっていけるだろう」
荻平の言葉に、返す言葉の無い顕彦だった。
あーあー、と言って、荻平は、正座にしていた足を、胡坐に崩した。
「俺が思っていたより、あの双子に肩入れしているんだねぇ」
顕彦は答えず、下を向いた。
荻平は、ごめん、と謝ってきた。
「其れで?じゃあ、どうして学校辞めたの。教員の儘の方が助けてやれる事が有っただろう」
「教員だと、所詮、教科書の枠を出られない。如何しても黄色だって言わせないといけない時が有る。黄色じゃない答えも良いねって言ってやりたかったら、其処で給料貰ってるわけにはいかないと思った」
「へぇ、成程」
「其れと、依怙贔屓みたいになると、綜が気にするんだよ。双子に構うと、如何しても、そう見える事が有るから。長の子だから依怙贔屓、ってな。だから、教員でない方が味方になってやれるかもって」
「何だぁ、俺が気にする事じゃ無かったかぁ。両想いか」
「気色悪。誰と誰がだよ」
「気色悪とか言っている時点で分かってるんだろ。ああ、良い香りだな」
荻平が、態とらしく深呼吸して、白百合を見た。
「長と何があったか教えてくれないか?」
「俺と長の間に何かあったわけじゃないんだ。長がした事を、如何しても俺が許せないだけなんだ」
荻平は、未だ白百合を見詰めた儘、だから其れは何だ?と言った。
顕彦は、いいや、と言った。
「此ればっかりは、俺の問題じゃないから、言えない」
とぜんね 『徒然ね』の転訛。寂しい、うら悲しいの意。徒然なか、とも。徒然(退屈だ、物足りない)と同義。
冗談 冗談く。枉惑の転訛。「道に外れた事をして人を惑わす事」という意味が変わって『冗談』になった。
可愛い 可愛い、小さくて愛らしい。古語の『無慙』が転訛したもの。痛ましい、可哀想、から、意味が変化して、可愛い、というニュアンスになった。




